迷宮A‐2
住宅街が一瞬にして不気味な謎の空間へと変り果てる。この怪奇な現象を現実として受け止められなかった。
幻覚でも見ているんじゃないだろうか。疲れていたし、寝不足の所為で。そうに違いない。そうでも無ければこんな事…薄暗い通路に並ぶ扉の内、一番手前のノブを握る。冷たい金属の感触。捻ってみる。ガチャッと鳴りながらくすんだ光沢を持つそれは回る。しっかりと実体が有る。…そんな筈は無い。触覚にまで幻覚症状が出ているんだ。
ドアを開ける。部屋は六畳くらいの広さで、汚れたマットレスの敷かれたパイプベッドと、電気スタンドと古そうな固定電話機が置かれた引き出し付きの机と椅子が在るだけの部屋だった。一歩足を踏み入れて中に入ってみる。突然右の瞼に冷たい感覚がして、頬を伝って何かが口へ入った。汗とそっくりの味がした。
…うえっ。
気持ち悪い。上を見上げると電球がぶら下がる天井にはカビがびっしりと生えていて、何かの大きな染みも出来ていた。そして、所々から透明な滴
シズク
がぴた、ぴた、と滴っている。
味覚にまで異常が発生している。と思ったけどそろそろこれが幻覚でも何でもない事に気付いてしまってはいた。だけど、それを認めると本当にこの状況が現実になってしまうのかも知れない。認めたくない。きっとこれは悪い夢。悪夢なんだ。
タイミング良く机の上の電話機が鳴った。怖かったけど、机に歩み寄り受話器を取った。
ぶうううううううん。
何か機械の動く音が聞こえる。誰かの吐息と、受話器の遠くから子供のはしゃぐ声がする。
「夢な訳無いじゃん」
ささやく声がした後電話は切れてしまった。更に怖くなった。携帯で家に電話をかけようと思った。圏外。机の電話を試す。反応が無い。そもそもコンセントにコードが刺さっていないし、コンセント自体がこの部屋に無いみたいだ。じゃあ今の電話はどうして?電話機をひっくり返す。電池ボックスは付いていない。
じゃあ、出口を探して此処から出なきゃ。怖い、怖い、怖い。
引き出しを開く。一段目、何も無い。二段目、錆びた釘が一杯に詰まっている。三段目、やすりが一本と古い紙が酸化したノートの切れ端を見つけた。気になって見てみた。
とがにん の ぼうけん
さく え おおせ なぎ
と、拙い文字で書いてある。とがにんとは、『咎人』の事だろうか。そして作・絵、大瀬凪。大瀬さんが幼い頃に書いたのだろうか。タイトルの下にはぐにゃぐにゃした線で描かれた縞々の囚人服の男が真っ白い空間にこっちを向いてぽつんと立っている絵が書かれている。これでは表紙だけだ。続きが有るのかも。
何でこんな物がこんな所に落ちているのかは良く分からなかった。だけど取り敢えず手に持っていたビニール袋にやすりと一緒に入れておく事にした。