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innocence  作者: QWERT
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第五話 あまりに脆く


 私はじっとできずにリズの住むアパートを訪ねさえした。でも部屋には誰もいない。リズは鍵も掛けずどこかへ行ってしまったまま、帰っていないようだった。部屋はまだリズの匂いを残している。それは私の胸をたまらなく締めつけた。私はいつかの彼のコートを手に取り、それを鼻に押し当てた。そして息を吸った。思い出は豊かな色彩を持って眼前にありありと浮かんだ。でも顔を上げれば、目の前には彼のいないモノクロな世界が広がっていた。部屋はどこまでも静かだった。


 私は休みをもらって一人、街をぶらついた。巨大な広告塔の見下ろす、歩行者で溢れた交差点で、信号を待つ。車がさざ波のように走り過ぎてゆく。空はビルに囲まれて狭く息苦しかった。信号が変わり、人々は歩きだす。でも私は、前に進めなかった。往来が次々と私の脇を行き過ぎてゆく。中には邪魔そうに私を見つめる者もいる。私はその場に固まったまま、向かいの植えこみに霞んで揺れる白い花を見つめていた。


「無垢な者に罪はない」


 いつだったか、彼は私にそう言った。あの時は確かに、その言葉は私にとって救いのように響いた。でも今は、かえってその言葉が私の傷を深くする。無垢な者に罪はない。ならばなぜ、私はこんなにも苦しい思いをしなければいけないのか。彼はきっと、私を捨てたんだ。背中に刻まれた大きな龍の刺青に恐れをなして、私から離れていったんだ。いつかはこうなるとわかっていた。でもそれは思っていた以上に私を絶望に突き落とした。私は生きる意味を失ってしまった。過去の傷痕がどこまでもつきまとってくる。


 見上げれば天は、私にも平等に日の光を注ぐ。信号の変わり目に慌てて駆けてゆく人にも、お洒落な帽子を被った女性にも、忙しそうに歩くスーツ姿の男性にも、平等に日の光を注ぐ。今はそれが、たまらなく煩わしく思われた。


 空をゆっくりと鳥が、まるで青を切り取るように旋回してゆく。信号が赤に変わる。私は力なく前方に身を預けた。そのまま体が倒れて歩が進む。行き過ぎる走行音がぐんぐん近くなり、車の切る風が頬に強く当たる。私は頭が真っ白になっていた。


 次の瞬間、私は勢いよく身を後方に引き寄せられ、体に走る強い衝撃と共に、歩道の側に転倒してしまった。誰かが私の手を取り、力いっぱいにうしろへと引いたようだ。そこで私は我に返り、のぞきこむ顔を見た。それは純香さんだった。


「あんた、何してんのよ! 死んじゃうでしょ!」


 純香さんはその声の勢いに反して、泣きそうな顔をしていた。


「最近浮かない顔だし、急に休みが欲しいって言うから、心配になって後をつけてきたら……。よかった、無事で」


 周りの人は驚いたように私たちを見ている。


「ここだと人目につくから、もっと落ち着いたところで話をしましょ。何があったか、聞かせてもらうからね」


 私はなされるがまま、純香さんについていった。



 花屋に隣接する木造の一戸建てが純香さんの家だった。私は純香さんに連れられてそこへと帰った。


 ダイニングテーブル越しに純香さんと向かい合う。ほんのりとヒノキの香りが鼻をくすぐる。私うつむいたままじっと、純香さんの責めるような、さとすような視線を肌に感じ、それに耐えていた。固いものの触れ合う音に少し視線を上げれば、それは純香さんがマグカップをテーブルに置いた音だった。


「何か嫌なことでもあったの?」


 私はかぶりを振った。嫌なことでは決してない。ただ、胸にぽっかりと空いた大きな穴を冷たい風が通り過ぎてゆくだけだ。私は虚ろな穴を抱えたまま、そこに釘づけになり、何か私をさらってゆくものをずっと待っている。でもそれは永遠に訪れないような気がした。そのことがいっそう、私を苦しくさせるのだった。


 純香さんはため息を吐いて、「リズのことね」と言った。私の体は「リズ」という名前に敏感に反応してしまう。それを見て純香さんは言葉をつづけた。


「きっと、あなたの背中にある刺青をリズに打ち明けたら、リズが離れてしまった。だいたい、こんなところね」


 私は顔を上げてまじまじと純香さんの顔を見た。


「そんな、どうしてわかるの、みたいな顔しなくても。だいたいわかるわよ、それくらい」


 「それ飲んだら?」と言われて、私は目の前に差し出されていたホットミルクをすする。温かい牛乳が喉を伝って、体がぽかぽかとしてくる。


「私にできることは、ただあなたを見守ることだけ。ただ一つ、これだけは覚えていて。あなたが死んだら、悲しむ人がここにいる」


 純香さんはテーブルに置かれた私の手に、自分の手を重ねた。彼女の薬指にきらりと指輪が光る。


「あなたの命は、あなただけのものではない。それはときにあなたを苦しめることになる。けれどね、それが救いになることもあるのよ。私の目を見て」


 そう言って純香さんは微笑んだ。彼女の瞳の奥には柔らかな光が射していた。


「私も同じ。あなたのおかげで、私は生きていられる。生きててくれて、ありがとうね、ハル」


 私の目には、急に純香さんが脆く儚い存在のように映った。それは突けば一息に崩れ去ってしまうような、脆さ、儚さだった。今まで、気丈で、女手一つで問題児だった私を養ってくれた純香さんは鉄壁のようにたくましく頼もしい存在だった。でもそれが、光に霞む目尻の皺や、ほんのりと温かい手のひらに触れて、急に今、この瞬間、強い風が吹けばさらわれてしまいそうな、そんな儚い存在のように感じられた。


 彼女も私と同じ、人間なんだ。背中に刺青が刻まれていようが関係ない。私も人であり、彼女も人なのだ。私だけが特別ではないんだ。


「私、生きる」


 それは胸の内から湧いた本物の言葉だった。私、生きる。でも、もう一人ではない。ありがとう、純香さん。自然と上がる口角に、窓から射す光がまぶしい。

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