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innocence  作者: QWERT
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第二話 器


 思い出せるのは、そこが日の当たらない部屋だったことと、頭を殴られ、わき腹を蹴られる痛み、そして次に殴られるのはいつかと脅えて、冷たい壁に依りかかって、息を殺していたことだった。父は浅黒い肌に口ひげを生やしていて、目はいつも充血していた。そして大抵はアルコール臭かった。


 ある日、父は私の背に刺青を彫ると言った。私は殴られるのが嫌で言われるがまま床にうつ伏せになった。父は用意を整えると、躊躇うことなくそこに針を刺していった。もちろん痛かったけれど、泣くともっと痛い目に遭うからと、私はひたすら耐えていた。後で知ったことだけれど、父は彫師として、人の体に刺青を刻むのが仕事だったらしい。今思えば、私は父の作品の器となるためだけに生かされていたのだろう。


 完成した龍の刺青は華奢な私の白い背を重々しく彩っていた。それはまるで自分の背中ではないみたいだった。自分とは異なるものが私の肉にくいこんでいる。それも力の象徴であるようなものが。父のいない部屋で一人、鏡に映るその刺青を見て、私は不思議と力が漲ってくるのを感じた。そして私は、勇気を振り絞ってその部屋を飛び出すことにした。


 いつもなら出られないように鍵が掛かっているはずの玄関は、幸いなことにその日、開いていた。私は玄関を出て、父の姿はないかと必死で辺りを窺い、いないのを確認した。そして死に物狂いで、わけもわからずひたすら走り続けた。その夜、外は土砂降りの雨だった。私は何度も躓き、転んだ。雨は見る見るうちに私の体温を奪い、私はもう走ることができず、路上で倒れてしまった。その後、どうやら私は、そこを偶然通りかかった警官に保護されたそうだ。それから私は施設に入ることになった。


 施設での記憶はほとんどない。ただそこで私はひたすら心を閉ざし、誰とも関わろうとしなかった。私は器。父の意志を容れるためだけの器。人格を否定され、物のように扱われ、殴られた日々の疼きだけがリアルだった。時折、その頃のことが甦り、私は喚いて辺りをぐちゃぐちゃにした。今思えば、私は相当な問題児だっただろう。


 そんな私を救ってくれたのが純香さんだった。純香さんが養子をもらいに施設を訪れたとき、私は部屋の隅に虚ろな瞳で一人、座りこんでいたという。なぜ、そんな私を貰ってくれたのか、未だに私にはわからない。でも、純香さんは私にいろいろなことを懸命に教えてくれた。今のような回復に至ったのを医者は奇跡だという。でも私は奇跡ではないと思う。だって閉ざした心の扉を必死でノックしつづけてくれた純香さんの苦労を一番身近で感じていたのは私だから。


 それから私は元気を取り戻し、少しずつ、純香さんの経営する花屋の仕事を任せてもらえるようになった。お客さんは私のことをいつも元気で明るい良い子だと言ってくれる。もちろんはじめは空元気で、そういう風に無理にふるまっていただけだけれど、次第に私はそれが自然と馴染んでくるようになった。ようやく私はふつうの女の子として生きていけるようになった。



 リズと知り合ったきっかけは、彼が店の常連で、大学の講義前に、純香さんのお店に寄っていくからだった。はじめて彼を見たとき、私は彼の繊細な風貌に驚いた。彼の緑色に染めた髪は白い肌とのコントラストで病的に見えた。目は細く、鼻の下にはうっすらと髭を生やしていた。黒のロングコートを着て、肩からは黒いバッグを提げていた。靴も黒だった。出で立ちが現実離れしていて、私は目を疑った。


 彼は度々、私が午前中の店番を任されているときに顔を出すようになった。はじめ私は相手が男性ということもあり、父の姿と重なってしまうため苦手な客だった。それでもリズは私に積極的に話しかけてくれた。いつからか私は彼が訪ねてくるのを楽しみに待つようになった。彼も私に好意を抱いていたようで、会うたびに私たちは親密になっていった。



 いつだったか、彼は店先の白いバラを指して私に花言葉を尋ねた。私はそれが純潔であると教えた。すると彼はそれが気に入ったようで、こんな話をしてくれた。


「生まれたての子はさ、まだ何も知らないから、このバラのように純潔で無垢なんだよ。だから彼には何の罪もない。ぼくは無垢な者に罪はないと思うな」


 私は彼の「無垢な者に罪はない」という言葉が気に入ってしまった。それは私にとって救いのように響いた。生まれたときから暴力を振るわれ、どうして殴るの、と何度思ったことか。いつしかその問いは沈黙に変わり、忘れられてしまった。


「ねえ、そんな無垢な子を殴るのは悪いこと?」と私は彼に尋ねた。

「もちろんだよ。どうして殴るんだって怒って当然だね」


 そのとき私は、急に全身の力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。リズは「大丈夫?」と驚いたように私の顔をのぞきこんできた。私は取り繕うように笑って、差し出された手を握った。


「そうだよね、怒って当然だよね。私は悪くないんだよね」


 それ以来、私は何かが赦されたような気がして、過去ではなく、前を向いて生きられるようになった。そして、それを赦してくれたのが、紛れもない大好きなリズであることが嬉しかった。私はリズを好きになっていく一方だった。

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