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ブバルディア  作者: ほしみ ことの
第三章  秋の訪れと吹雪
26/29

4

 血の、匂いがする。暗く現実感のない室内では、子どもの息遣いだけがやけにはっきりと聞こえた。心臓が破裂しそうな程ばくばく脈打つのが煩い。

 淡く黄身がかった絨毯は、滴る血をたっぷりと吞みこんで真紅に染まった。物言わぬその絨毯に責め立てられている気がして、子どもは両の耳を思い切り塞いだ。泣き疲れ嗄れた声で、傍にいるはずの母親の名を呼ぶ。だけど、言葉が返ってくることはなかった。

 母親はもう息をしていなかった。

 先刻まで苦しげではあるが精一杯生きようとせわしない呼吸をしていたのに、今は空っぽの身体だけが子どもの足許にある。

 大好きだった母親。元々虚弱体質だからと会話を交わすことも少なく甘えることもなかった。それでも屋敷内の父親や召使の冷たい、針のむしろのような視線がくるよりかは良かったのだ。

 たとえ、頭を優しく撫でられたりしっかり抱きしめて貰えることがなくても。自分を見る目が少しでもきつくなかったから。きっと自分は母が好きなのだと言い聞かせて、いやきっと好きなのだ。うん。大好きだったのだと思う。思おう。

 だから。

 目の前でその母親が息絶えてしまったことは子どもにとって強く大きな衝撃だった。死んでしまった。生きてさえいてくれたなら、いつの日か、自分は母を愛しているのかどうか分かったかもしれないのに。もう分からない。

 多分、好きだった。嫌いではない。多分、とついてしまうのは自信が、確かめようがないから。自分の心の中を覗いて、誰か教えてくれたらいいのに。きみはこんなふうに思っているみたいだよ。そうやって。

「……ぼくは、愛していたのかなあ」

 こんなに早く死なれては、もう分かりようがない。永久に謎のままだ。また目の淵から涙がこぼれる。この涙だって母が死んでしまって悲しくて出たものか、取り残されてしまった自分を想って出たものか、全く分からない。どこか他人事のようにも感じる。

 血の匂いが濃くなり、息が詰まった。早く、ここを出なければ。どうしてだろう、父も召使も、この屋敷には今誰もいない。ああ……頭の中がガンガンと響いている。全て忘れてしまいたかった。全て。


 屋敷の門の外へと踏み出したとき、子どもの脳内は混乱と興奮でぐちゃぐちゃだった。記憶は歪められる。まだ母は生きている。それを見捨てて逃げ出したのだ、見捨てることによって見殺しにしてしまうのだと。

 血の匂いが体のあちこちにこびりついて気になった。

 絨毯をまっかに染めた血。

 赤い映像が目に焼きついて離れない。

 血。

 すごく、あかかった……。


    *


 目を覚ますと雪が降っていた。空はすっかり灰色をした厚い雲で覆われていて、秋らしさはてんでない。

 何故?

 ふ、と辺りを見回す。背後には山。先程まではお喋りをしていた結構な高さの山だ。そこから魔術師(アルド)の術によって降下しここへ着地をした……。山一帯は秋らしい金色の葉がわさわさと風に揺れている。

 季節があべこべだ。

 起き上がると一緒にいたはずの残りの二人を探す。魔術師の男はアランのすぐ横で失神しているのが即座に確認できた。

「あ。ニコル、僕ら一体……ニコル?」

 ニコルは少し前に進んだところに座っていた。どうしてこんなことになっているのだろう。そう話しかけようとして口をつぐむ。嫌な予感に胸がざわついて、顔を覗きこんだ。身体の手から足から脱力するように座っていた。ぼんやりとした表情で、くぐもった空からしんしんと降り積もる雪を眺めている。

「ニコル、大丈夫?」

 返答も反応も示さないのがアランを不安にさせた。その様子がうち捨てられた人形に思えて首をふる。揺さぶるために肩に手を置くとびくり、はじかれたように触れた主を見た。

「……なに?」

「なにって……それはないでしょ。大丈夫って聞いたのに僕は」

 怪我などは見当たらないのでひとまず安心する。ニコルはそんなアランを先程とは打って変わり食い入るように見つめていた。

「な、何で、凝視してるの」

 瞳孔の開きにぎょっとしながら問うと「別に」というそっけない返答をされた。一体何だっていうんだろう。顔色は良くない。ただでさえ白い顔が周りの雪と比べても遜色ないほどに真っ白になっていた。

「今って、冬だっけ」

 ニコルは穴のあくほど見つめた理由を言わなかった。話さないのなら、話せる瞬間が来るまで待とう。無理には問い詰めない。少年は頭を切り替えることにした。

「そうなんじゃないの。山側とこっちとで境目になっているだけだよ。それにしたって、極端だとは思う。びっくりするよね」

「そう」

 はあ、と大口を開けて両の手を擦り合わせる。顔色は白いままだった。


 しばらくして、魔術師の彼も飛び跳ねるようにして起きた。アランは何故こちらが冬のようなのか尋ねる。すると小男は鼻を鳴らし当たり前だ、そう言って愉快そうに笑った。

「知らなかったならそりゃ驚くか。こっち側は年がら年中冬なのさ、昔からな」

「ちょっと! 撫でても良いですけど、僕の頭がもげます。加減してください」

 男は身長差で上手く手を置けないからか、魔術でアランを引っ張りながら無理やりガシガシと乱暴に手を伸ばして撫でる。少年は憤慨した。

「ちび、あんたさっきからずっと無口だな。具合でも悪くなっちまったか?」

 少年とじゃれつきながら子どもの方にも気をかけていたのか、魔術師がニコルに声をかける。俯きがちの子どもが顔をあげると眉をひそめた。

「弱ってる。まさか、俺の魔力が原因か? 稀だけど魔術師の強い()にあたって体調を崩す奴もいるんだ――なあ、何か悪い夢でも見たのか?」

 すると、ニコルの両目から透明に光る何かがとめどなく溢れ落ちはじめた。アランはまたもぎょっとし動揺を隠すことができずに瞳を揺らす。一体、何だっていうんだ?

「ニコル、僕に話せる?」

「……」

 無言。せめて涙を拭おうと少年は動いた。子どもはそれをぱっと腕で阻み、自分で拭けると呟くと袖を涙で濡らした。そうして何事もなかったかのようにぴょんぴょんと元気に歩き出した。ニコルがその行動を採るのなら少年はもう何も口にできなかった。魔術師もそれ以上追及はせず歩みはじめる。

「とりあえず、宿には泊まるだろ。雪で実感が湧かないかもしれないが、日が暮れるのも早いんだ。ここ、リヨンの雪原地帯はな」

「リヨンの雪原」

 雪は止むことを知らずに振り続けている。だが、雪はそこまで積もらずさっと溶けてぼこぼこに地肌が見えているし、原っぱというわけではない普通の砂利道だ。人が通るから雪除けも多少されている。真っ白なところも勿論あるがよくよく見れば雪原というには大げさな印象があった。

 大昔ここらは銀色に輝く草原で、雪がそこまで降らないもの珍しい現象で、だからこそ積もったときの美しさが格別であったために雪原と呼ばれるようになったのだと小男が言う。ここオルリアン王国は文明の進度では世界全体で見て誇れる国であるが、その一方で森林や泉などの自然が減少している問題もあった。前国王は人工森林地帯をつくろうとして結局は土地の開発を優先してしまったがために頓挫した。現国王はせめて数少ない自然を延命しようと植木師を複数任命し人為を取り入れた保全を行う真っ只中である。残った自然で名だたる場所はこの雪原と越えてきた山だけで、後は細々とあるのみである。人々が目にする殆どの自然は人工森林の未完成だったりする。

 すらすらと淀みなくこの国について語る小男の様子を見れば、ちいさいながらやはり国の魔術師なのだと実感するには十分だった。アランはそっと緊張の息をのむ。子どもを守りたいのなら油断は禁物だと心の声が囁いた。


 その道はどこまで進もうとも両脇を見れば除けた雪に埋もれ密集する木、木、木……木々があるばかりだった。冷たい風が頬に吹きつけてくるのがこころなしかひりひりする。地面はまだら雪と砂利と雑草が続いて随分と単調な風景が三人を迎えていた。

 まず服装からしてこの場所を歩くにはふさわしくない。こうなると予想していなかったから薄着の二人は霜焼けで死ぬのではと震えていた。ニコルはたまたま足の出ない恰好であったから良かったが、いつものようにスカートや何かで来ていたら気絶していたあの場所でとっくに挫けていただろうと特に震えていた。

「あんたら、まるで()()()のまま逃げてきたって感じだよなあ。ほら! これでも羽織っておけよ」

 リチャルドの魔術で一瞬にして何もない空間に出現した二着の防寒着を羽織り、少年と子どもはやっと全身に走る震えを鎮めることができた。雪は相変わらず降っては地に滲んで消えてゆく。先程より距離を行ったからなのか、幾分その雪の粒が大きくなり見事な結晶の細かささえ気づけるようになっていた。

 ひょっとするとこの先はより険しく厳しいものになるのかもしれない。アランは密かにちいさく息をついて隣を歩くニコルを見た。彼の呼気にも確かな温度がある。何故だかその事実を確認できただけでもほっとして、歩行に合わせて揺れている、空いたその手を握った。手はあたたかだった。

 喝を入れるために空気を再び、しっかりと吸った。

「ねえ、ニコル。君の見ていた夢を詳しく聞くつもりはないんだけど、もしかしてさ」

 ラゴンであったあのこと? 具体名を出さずに、さっき魔術師も問いかけていたことを尋ねてみる。前を行く魔術師は立ち止まり、興味津々という表情で二人を交互に見る。アランの横で手を繋がれ頬を赤らめていた子どもは、今や羞恥の感情を失くし悲しげに目を伏せる。

 堪忍したのか、間をおいてニコルはぽつ、ぽつ……とゆっくり言葉を紡ぎはじめた。

「違う。ぼくが、家出をする前のことを見ていた。ホントはね、母さまはとうに死んでいたの。それを置いて出て……でもぼくは、どういうわけか死にかけの母さまを見捨てて逃げたんだと、ほんとうにそう思っていて――なんだか、それが怖くって」

 見ていた光景を思い出しながら話しているのか、途中、ニコルは左手で首を掴むような動作をする。そして苦しそうに顔を歪めた。

「ねえ。自分の記憶なのに、なんでこんなにあいまいなんだろう。他にも、忘れてたり無意識に捩じ曲げてしまったり、そういうことがいくつもあるんじゃないかって思うと……自分のことなのに、自分が恐ろしくなる」

 信じられなくなる。そこまで言い切った子どもの姿は傍目でも分かるくらいすっかり消耗していた。ぼろぼろの使い古しの雑巾みたいに、路地裏で時折見かける迷子のはぐれ猫のように。

「それは、えっと……あの、言いたくなかったら、本当にごめんね。母親の死は事件? それとも病気?」

 家出をした理由もそれまでの経緯も聞いてこなかったアランは、急に入ってきた情報に混乱する。死んだって? 死にかけって? 瞬時に浮かぶニコルが殺す光景……そんなはずはないが、想像してしまう己が憎い。少年は軽い眩暈に襲われた。

「……病気じゃないよ。確かに母さまは病弱だった、けど違う。お腹に、誰かが刺した跡があったんだ」

「ッ! おい、それ殺人だろっ⁉ 何で、何で……警吏に言わないんだよ」

 話の流れが変わった。それまで大人しく腕を組みながら聞いていたリチャルドが声を震わせて激昂する。おおきな怒声に肩を(ちぢ)こめた子どもの顔色は頗る悪く、みるみるうちに雪の白と遜色なくなった。

「ちょっ! リチャルドさん、大声を出さないでください……ニコルはそういうの駄目なんですよ」

「はあ⁉ 何の為に警吏や魔術師がいると思ってるんだ、あんたら。自分で見て酷い状態と判断した女、よりにもよって大事な母親を放置して、逃げた? しかも何だ、あんたもそうやってコイツに付き合ってやっていながら、何も聞いてこなかったってのか?」

「落ち着いてください、リチャルドさん」

「これだけ知ってもコイツを庇うか? コイツがどれだけのことをすれば、あんたはその態度をやめるんだ? 俺も一応大人だ。ある程度は目を瞑ってきたが、やっぱりお前ら――!」

 怒りを露わにずかずかとにじり寄る男。子どもを庇おうと手を振り解き二人の間に挟まってみせた少年を、息を荒げ睨みをきかせて指差す。少年の足が震える。背中をおずおずと抱きしめてくる温もりにアランは力なく笑った。そのまま温もりが横にずれて、少年の腕に凭れかかるようにして子どもが前に出た。

「……だって、ぼくが疑われるでしょう? 普通に考えたらさ」

 か細いが、その声にはもう震えはなかった。男もいつの間にか冷静さを取り戻し、幼子を見るような微笑みを浮かべていた。いや、もしかすると自分の出方を見るためにわざと怒り高ぶってみせたのかもしれない、そう思ってアランは心の中で舌を巻く。だとしたらやはり侮れない男だ。

「父親とか召使はどうしたんだ。屋敷に誰もいなかったのか」

「いなかった。ぼくと、母さまだけ」

「普通にそう言えばいいだけだろ、ちび」

「ぼく、自分でも信じられなかったから……きっと信じてもらえない、話を聞いてくれないと思ったのかもしれない」

「大体事情は分かった。話してくれて、ありがとうな。この話はここで一旦終了するから安心しろ」


    *


 道中険しい雪煙に巻かれたり、一番背の低くて軽い魔術師が急な吹雪で飛んでいったり、色々なことがあった末にようやく辿り着いたちいさな宿は寂れてはいたが、それでも居心地の悪くない場所だった。みてくれはこぢんまりとしていても案外中は広く感じられるそんな構造の建物で、部屋数はあるわ夕食は無料(ただ)だわ……至れり尽くせりといった宿であった。

 服を取っ払って脱衣の籠に入れ、浴場の空間に足を踏み入れる。かけ湯をし身体を隅々まで洗い、いよいよ湯舟に浸かったところで疲労した肉体を労わるような感覚に思わず息が漏れる。肉という肉がほぐされていくようで、アランはぼうっと天井に昇る湯霞を眺めながら、のぼせそうなその気分を楽しんだ。

 ぽちゃん、と自分が立てたものでない音が響いて、ハッとする。気が抜けてうたた寝しかけていたらしく、石造りの湯舟の縁に突っ伏す状態で目を覚ました。体勢を正そうとして、腰に何か引っ付いているのを認める。それは異様に重たく温かかった。よく見れば腕がまわされている。なまっちろくて細こい腕だ。

「ニコル、たとえ寝ているとしても人様の身に勝手に寄っかかるものじゃないよ。それにそんなに圧し掛かられると重いし骨が折れる……」

 呆れて注意をすれば、忍び笑う声が脇でする。

「何で笑ってるの。笑うようなところあった?」

「あはは! だって、骨折れるって……こんなので折れるくらい、きみって骨がやわいの?」

 目尻に涙を湛えてくすくす笑うニコル。これで笑えるなんてどうかしている。少年は思わずムッとした。

「まあ、君の方がぽきって簡単に折れそうだよね。全身ばらばらに出来そう」

「そう? じゃあ、やってみる?」

「僕は骨折した経験ないし、どんな感じか気にはなるかも」

「え、きみがぼくの骨折るんじゃないの。きみの骨折るの、なんか難しそうだしやだな……」

 アランは骨のないぐにゃぐにゃな会話に参加しながら、呂律が怪しくもぶつぶつ考えはじめたニコルの様子を盗み見する。汗がひたすらおでこに湧き、白い皮膚は茹だって真っ赤になっていた。これなら、上がって外気にあたった方が良いだろう。

「ニコル、君のぼせてる。そろそろ出よう……いつから僕の横にいたのか知らないけど、起こしてくれても良かったんだよ」

「えー?」

「僕ものぼせそうなんだ。ね?」

「ん」

(……本当にどのくらいここにいたんだろう)


    *


「――俺は部屋ひとつをまるごと使いたい。だから、あんたらは一緒に仲良く寝ろ。不平不満は認めないぞ……俺の持ち金じゃ宿代は二部屋分が限界だからさ」


 何やらロビーが騒がしいと湯舟から出た二人が声の元まで近づいてみれば、連れの小男が宿代をごねている現場に遭遇した。見てはいけなかったと慌てて踵を返すも、見つかってロビーの係員との交渉に巻き込まれてしまう。

「あの、前にも言いましたけど僕ら無一文じゃないんですよ? ちゃんとほら――」

 銭の入った袋をちゃりんと男の前で言わせると、彼は目をぱちくりした。

「はあ⁉ それ、先に言えよ!」

「いや、だから言ったんですってば……」

 リチャルドという魔術師は全然人の話を聞いてくれないし、思いこみが激しいし、とにかく騒々しい。

 少年はこの旅の間何回したのか分からぬ溜息をつく。その様子をじっと見ていたニコルが首を傾げた。

「なんできみの方が疲れてるの、アラン」

「……さあね。それより、鍵をもらったから部屋に行こう」


 やっぱり俺が払う、と何が何でもケチりたいリチャルドから有無を言わさず渡された鍵を使って指定された部屋へ入る。後ろをついてきたニコルが戸を閉めると、アランはへなへなとしゃがみこんだ。

「なに、具合でも悪いの? きみ」

「……リチャルドさんって勝手気ままが玉に瑕だなと思って」

 ふうんと気のない返事で進んだニコルは部屋をあちこち(あらた)めた後、アランの目の前に屈む。

「そんなの最初から分かってたことじゃない? 変なところで口うるさくて、あと意外と心配性」

「そうだけどさ、僕はあの人といると何だか……疲れる」

 隠していた本音を口にすると、手が届くのを良いことに子どもがぽんぽんとあやすように少年の頭を撫でた。

「えへへ、疲れてるってやっと認めた。それもそうか……リチャルドって子どもっぽいから、こっちが構ってあげないといけないもんね」

(あ、今初めてニコルがあの魔術師の名前言った……やっぱり呼び捨てが良いのか)

「呼び捨て駄目だよ」

「やだ」


「……ちなみに隣の部屋って、リチャルドがいるの? なんかガタゴトうるさいね」

「そうだね……何の音だろう」

 二人で沢山話をして更に親睦が深まったとホクホクで布団に入り灯りを消して眠ろうとした頃合いから、謎の音が枕元を襲い睡眠を妨げられている。その音はひっきりなしに響き壁伝いでアラン達を目下(もっか)悩ませていた。少年は苛々し、横ではニコルが欠伸を何度ものんでいた。

「ねっむ……リチャルド、うるさーい!」

 少年はいつ寝床を抜け出し隣の部屋の戸をノックするかと思案していたが、それを実行に移す前に子どもの方がしびれを切らしたのか壁めがけて叫んだ。

「無駄だよ。聞いてくれやしないんだから」

 直接言ったとしても無理だろうと、諦め半分のアランは肩からずり落ちた毛布をニコルに掛け直してにっこり笑った。

「……」

「……」

「……でも、静かになったみたいだよ?」

「そう、だね」

 困った魔術師だと共に笑う。不気味なほどの静寂に却って眠れなくなった彼らは窓から覗いた雪景色を、夢うつつになるまで並んで眺めていた。


    *


「……――ずっときこうと思っていたんだけどね、」

「うん?」

 今までこんなに踏みこんだ話はしてこなかったが、今日がそのときだろう。そう思ったニコルは、寝不足気味の早朝、自分から話を切り出す。相手は忘れ物がないかの確認をしていたので、首だけ一瞬まわしてそれに反応した。

「きみってぼくが人を殺すこと、良く思ってないよね」

「ん……急だね。そうだな――ああ、すごく嫌だなって気持ちにはなるよ」

 突然だなと呟き、アランは作業の手をとめてニコルを見る。その真剣な表情に気圧され若干たじろいだが、静かな声でそう答えた。

「君の手を、もう誰かの血で汚させるようにはしたくないよ、ニコル。これからどんな状況に陥ったとしても君は、君だけは凶器を手にしちゃ駄目。君のその手が血で赤く染まる度、僕は」

 不安でたまらないんだ。少年は囁くように言って目を細める。苦笑しようとして上手くいかなかったようで、結局何かを堪えるように唇を結んだ。

「不安……?」

 彼は何に怯えているんだろう。ニコルには見当もつかない。いつだってニコルは人の気持ちにすぐ気づけないのだ。

(ぼくは、ぼく自身のことさえ分からないのに)

「僕はいつか君が狂ってしまうんじゃないかと気が気でないよ。前に君は言ったね、『きみを殺すのはぼくなんだから』――って」

 きみを殺す。記憶が……あいまいだ。そんなことを、ぼくが言ったのか。彼に? 何を考えてそんなことを口にしたんだろう。ぼくがほんとうに言った? ほんとうに?

 ニコルは内心困惑して無言になった。溜息と今度こそ成功したらしい苦笑が混ざって耳に聞こえてきた。

「はぁ……ニコル、君は覚えていないんだね。いつもだ、最初から君はそうやって何でも忘れちゃう……僕は散々に振りまわされているのにさ」

(? ほかにも忘れていることあったっけ)

 空っぽだ。幾ら思い出そうとしても分からない。どこまでも真っ白で何もない世界だった。

「なんかごめん、アラン。悪気があったわけじゃないんだけど、全然思い出せないや」

 毎回心配をさせているようなので謝る。記憶がないのはほんとうに恐ろしいことだと思う。

「別にそのことで君に対して怒ってはいない……とにかく、君は剣をとっちゃ駄目。僕が嫌だから、ただそれだけだよ」

 アランは悲しそうに微笑み、瞳を閉じた。ニコルは少し前のことを、夜泣きしていた日のことを思い出していた。“ともだち”。少しくすぐったい響きの言葉だった。

「……そうだね、ぼくたち“ともだち”だもんね」

 そう独り言ちて頷く。自分だってアランが人を殺す場面はきっと見ていて気持ちいいものではない。

(そっか、そういうものなんだ。“ともだち”って)

 笑いが口の端から零れ落ちる。作業を終えて隣に移動してきていた少年が身じろぐ。

「……何で笑ってるの、ニコル」

「えー? こういうのいいなって思っただけだよ」

 心配し、心配される。嬉しそうだと嬉しい。まるで鏡みたい。そういう関係も悪くはない。

「ちょ……どういうこと? 何の話してるの、君」

 支離滅裂ぶりに慌てたように視線を右往左往させるアラン。そんな友人の姿にくすりと微笑って、焦っているその愛らしい頬に軽いキスをした。

「……ぼく、頑張ってなんとか殺さないように努力してみるよ。なにせ“ともだち”だからね」

「え? 友達って言葉が気に入ったの? 何で今キスしたの」

「うん、気に入ったよ」

 こくんと頷けば、アランは嘆息して口をつぐんだ。よく分からないからとりあえず放っておこう、そういう顔をしていた。ニコルは声に出して笑う。

 今日は楽しい一日になると良いな、そんなふうに思いながら出発時間まで暇なのででたらめな歌を歌う。暫くすると友人も乗っかって、リチャルドに美味しいご飯を催促する歌を力を合わせて歌った。それはそれは、隣の部屋から本人が飛びこんでくるほどの傑作だった。

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