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結局店主の仕事を最後まで見届けた少年が地図を確認したのは、日が暮れ雨もすっかりあがった頃だった。ニコルがアバウトと言ったことの意味が分かって苦笑する。散々振り回され家に着いたアランは中からガタガタと物音がすることに気づいてそちらに向かう。
ノックをするか考えるより前に内側からドアが開いた。
「おかえり。よく見たら家中埃と煤でひどかったから、ぼく仕事ないし代わりに掃除してて、もうこの部屋で終わるところだったんだ」
?! 弾け飛んできた子どもは至る所埃だらけで雑巾を握りしめ笑った。その坊ちゃんらしからぬ行動にアランは驚いた。
「君、坊ちゃんじゃなかったっけ……掃除は召使いとかがやってくれるもんなんじゃないの」
奇妙だ。床も棚もそこそこピカピカになっている。こうして逃げる前までは日常的にやっていたのかと疑ってしまう。
「そうなの? いつもぼくが当番だったけど。みんな自分でしないのか」
「うーん、掃除助かるし良いんだけど、怪我には気を付けてね」
「はーい」
別れる前少し落ち込んでいるようだったから気に掛けていたが自分の思い過ごしだったらしい。張り切るニコルを少年は改めて不思議そうに見つめ、夕食はちょっぴり豪華にしようと心に決めたのだった。
――夜が明けて――
まだ薄暗い部屋の中、忙しなく動き回る影がひとつあった。カーテンを開けた音、隣の寝室の戸の開閉音、カチャカチャと食器の当たる音……。
何かが火にかけられじゅうじゅうと熱せられて美味しそうな匂いが近くまで漂ってきた時分になって、子どもはもそもそとベッドを降りた。
「……おはよう。君、起きるの早いね」
寝ぐせのついた茶髪を懸命に撫でつけ片手間に料理する少年の背後から声がする。
少年が振り返ると、眠たげな様子のニコルが欠伸をして席に着いたところだった。
「おはよう。起こしちゃったか……ごめんね。これでも時間ギリギリなんだ」
「ふうん。もう行くの? バイト」
「朝に来るお客さんも一応いるからね」
「立ち読み客でしょ、それ。君何にもすることないじゃん」
寝起きのニコルは多少拗ねることがあるが、今日は一段と酷かった。いつまでもぐちぐちとごねるのはまだ数回しか見たことがない。
「ちゃんとすることだってたくさんあるよ。おじいさん腰痛持ちだから重いもの担当は僕だしね」
だから、そんな目でこっちを見られても困る。じっと、明らかに探るような眼で見られてアランは少しばかり傷ついた。
(何で。僕思った以上に信用されてないの?)
「……ふうん」
「あのねえ、僕だって――……もういいや、説明しても納得しないときのニコルだ」
「うん」
こくんと頷くニコル。何言っているんだ、当たり前だろうとその顔には書かれていた。
「とにかく、もう行くから。朝と昼の分は冷やしてあるから時間になったら食べるんだよ」
「うん」
皿を洗い、エプロンを外し畳もうと思うものの時間に焦って上手く畳めない。すると。
「ぼく、畳んどくよ。遅れないうちに行くんでしょ」
あれ程ねちねちしていたニコルが横からエプロンを掻っ攫い、行けと言う。そのテキパキとした動きにお坊ちゃんらしさは微塵もなくて苦笑いした。
まあ、ここはこの子に任せてしまおうと上着を羽織りアランは玄関へ向かう。靴を履いているとまた声がかかった。
「…………なんじに、帰ってくる」
心なしか不安そうな声。
「んー、夕方、かな。えっと、じゃあ行くね」
「いってらっしゃい」
後ろ髪がひかれる。が、しかし時間も押していた為彼の方は見ないでそのまま外へと駆け出た。もしほんの少し振り返ってその顔を見てさえいたら出勤日を変えてもらっていたのかもしれない。そのまま少年は仕事場へ向かった。
*
アランを見送り堪えていた本音が口から零れる。
「――ひと、り……は、こわい……よ」
そのまま崩れ落ちるようにしゃがみ肩を縮こまらせてぎゅっと膝を抱く。
はやくかえってきて。祈るように呟くニコル。目を固く瞑り震える。
床が冷たい。のろのろと寝室へ向かう。毛布も一人だと暖めてはくれないようだった。
一人だと、思い出しちゃうよ。
気を抜くと恐怖の渦に呑まれそうになる。吐き気がこみ上げる。もう終わって反芻しなくて良い記憶なのに。
(きもちわるい……どうしたら、いいの)
ここが完全に安全で、あれはもう目覚めることもない。平和な世界。そう理解しているのに頭が痛い。悪夢のようなあの感覚が感触がふとして蘇り、現実ではない痛みが身体中を駆け抜ける。呼吸さえもまともに出来なくなる。
宿屋でも、馬車でも、この家でも、眠ると悪夢を見る。過去の事象が再現される。繰り返し再生され脳に焼き付けられる。
(眠りたくない)
今までは隣にアランがいたからマシだった。でも昨日から距離が出来た気がして、そう思うと悪夢もひどくなっていって。どんなに必死で抗ってみても、睡眠は生理現象。いつの間にか眠りショーが始まる。
気が狂いそう。
視界の隅に本棚が目に入る。間違えてアランの部屋に入ってしまったことに気づき、退こうと思うが力が出なかった。ゆっくりと瞼が降りてゆく。もしかしてベッドが違えば悪夢も見ないのかもしれない。
そうしているうち本当に睡魔が襲い掛かり、哀しい眠りへ引き摺り込まれていった。




