そのはち
クロエ・スレッタートの両親はフラッペン卿に殺された。
父は適当だが寛容で、体も大きくなにかと頼りにされていた。母は寡黙だが、優しくて気配りも出来て、まさしく淑女の鑑のような人だった。
他国から商隊を組んでやってきたスレッタート一家は、なかなかやり手の商人で自国ではその名を聞けば思い浮かぶほど有名だった。
クロエが商隊についていくのは初めてのことではなく、ブロッサにやってくる前から何度も両親の仕事に、旅行気分で同行していた。しかし、ブロッサに足を運ぶのは初めてのことで、商業都市と名高いブロッサには並々ならぬ期待を抱いていた。
実際に己の目で見たブロッサの盛況ぶりは、予想以上のものであった。流石は商業都市と謳われるだけあって、騒がしくも活発で、まるで商人たちの聖地であった。
両親の仕事も上手く行ったようで、この国の貴族と良い縁が結べたと大喜びであった。
しかし、この貴族こそがフラッペン卿である。
商談の際にクロエの母は気に入られてしまったのだ。
物静かで出しゃばることがなく、芯も強くクロエから見ても美人であった母は、買い物に出かけたきり帰ってこなかった。
ただ買い物が長引いているだけかも、とクロエは楽観的に考えていたが、一晩過ぎても母は帰ってこなかった。
翌朝、クロエの父はすぐさま行動を開始した。
金銭を惜しまず自らの妻の足取りを調べ上げ、たったの二日で居場所を特定した。
フラッペン卿の私兵たちが攫っていったのだ。
フラッペン卿の女癖が悪いことは以前からの調査で知っていた。仮にも商売相手だ。信用のおける相手か見極めることは大切だ。
ブロッサでも、気に入った女がいればすぐにかどかわして手篭めにしてしまうことで有名で、フラッペン卿の馬車や屋敷には近づかないことが町娘たちの間では常識になっているくらいだ。
クロエの父は商談相手を間違えたのである。
当然クロエの父は激怒し、フラッペン卿の屋敷に詰めかけたが兵士は気の毒そうな顔をするだけで決して主には合わせようとしなかった。
そこで、クロエの父は屋敷に侵入した。
クロエは必死に止めたが、父は愛する妻を奪われたことに怒り心頭で聞く耳を持たなかった。
翌日、クロエの泊まっている宿の前に、父の死体が捨てられていた。
兵士に囲まれて槍で突き殺されたのだろう。だが、傷はそれだけに留まらず両手の指は残らず落とされ、眼球はくり抜かれて口に詰め込まれていた。
それは警告であった。
商隊のリーダーだった父が殺されたことに、隊員たちはやり返してやると気炎を吐いていたが、クロエの涙ながらの制止にしぶしぶながら従った。
母が帰ってきたのはその翌日である。
たった数日、監禁されていただけであるのにクロエの母はまるで別人のようだった。丁寧に手入れをしていた髪はほとんど残っておらず、美しかった容姿はナイフで傷つけられたような跡が残り、片腕は折れて変色し、素足で駆けたせいでぼろぼろだった。
フラッペン卿の屋敷から逃げてきたのである。
しかしその翌日にはクロエの母は息を引き取った。
衰弱死だった。
「逃げて、クロエ……今度は貴女を狙っているわ。どうか、どうか生きて」
その遺言通り、クロエは隊員たちの力を借りて身を隠した。自国に帰ろうにも父が持っていた通行許可証は父が死んだときに抜き取られてしまったらしく、どこにもなかった。
通行許可証がなければ本来は入国出来ないため、国境を超える際には提示しなければならない。だが、許可証を持っていないのにブロッサにいる、ということは密入国となり牢に入れられてしまうのだ。
幸いにも、ブロッサの広さに助けられる形でフラッペン卿には一度も見つかることはなかった。
しかし、クロエの心は両親の死と隠れ暮らす生活に、いつのまにか擦り切れてしまっていた。
ぷつり、と糸が切れた。
心に圧しかかっていた重荷は心を潰したが、かえってそれが重荷を取り払うことになって考える余裕が出来た。
表情がなくなったと同時に、クロエは復讐を思いついたのである。
彼女が思いついた復讐は実に単純である。
のこのこフラッペン卿の屋敷に出向いて、毒を盛ってやればいい。
幸いにも、フラッペン卿はクロエを欲していたので屋敷に入り込むことは容易だった。
商隊のみんなには内緒にして実行したが、毒草を煎じた粉を持っていたことがばれてしまいクロエは捕まったが、一瞬の隙をついて逃げ出すことに成功した。
その後は指名手配されることになり、また商隊のみんなの手を借りて隠れていたが『夜会』に捕まり、『木陰』が奪ったのである。
クロエが『木陰』に入った理由は二つ。
彼らの手を借りて復讐を果たすこと。そして、商隊のみんなを自国に帰してやることだ。
それを『木陰』に加入する条件としたところ、首領たるフリステンはあっさりと頷いて、実際に商隊を国に返してくれた。
クロエとしてはそれだけで十分だったのだが、フリステンは復讐の手伝いもしてくれると言って、同年代の少年少女に同行するようにと言い残した。
二人の歳はクロエよりも下で、男の子のほうは毒草を探すために立ち寄った図書館の司書だったことに驚いたりもしたが、二人との関係は良好だと自覚している。友達になれるかもしれない、と潰れた心の残骸が囁いたが、クロエの表情は戻らなかった。
そして、いま。
ついに復讐の時だ。
鷲を象った取っ手を捻ってのっべりとした扉を開けると、しん、と清涼な空気が漂ってきた。
「……いない」
「え?」
「ここ、寝室なのにいないね。もしかしてまだ寝てないの……?」
フラッペン卿の寝室には誰の姿もなかった。ベッドシーツは整ったままで一度も使われていないことがわかる。では、どこに行ったのか、という話になったのだが、カエリはなんとなく予想がついて苦々しい表情を浮かべた。
「こんな時間になってもベッドが使われていない。つまり、フラッペンは別のところで寝てるんだ」
「別のところ? あ、もしかしてキッチンとか、書斎とか? カエリ、よく地下で寝てるもんね」
「あ……そういうことですね」
ズレたことをのたまうアズに諭すように、何か気づいた様子のクロエが説明した。
「……フラッペンは女好きです。こんな時間に寝室にいないのであれば、女性のところに行っているのではないでしょうか」
「あ、そっか! ……でも、どこにいるかわからないけど……」
「いや、それは簡単だよ。この屋敷の地下には牢がある。見取り図にあったろう?」
「そっか、そういうことね。わかった、行こ?」
「……気は進まないけどね」
音を立てぬように寝室から出て、三人は気絶したままの兵士たちの脇を通り過ぎて地下へ向かった。
一階に地下への階段を見つけた。まるで隠す様子は微塵もなく、地下への階段は剥き出しだ。
地下に蝋燭は置かれていなかった。暗闇の中を手探りで進むが足元がまったく見えないため、少し手間取った。
目が闇に慣れてくるころには階段を降り切っていて、なにやら黴臭さが鼻についた。
念には念を、ということで、唇を一文字に閉ざした三人が簡単なハンドサインでカエリを先頭に歩いていく。
不測の事態にも対応できるよう、最後尾をアズが守り、素人のクロエは二人に挟まれている。
クロエは自分一人の足音しか響かないことに驚きながら、無言で歩いた。
黴の臭いが薄れてくると、次は生臭さが漂ってくる。
心底嫌そうに顔をしかめたカエリとは対照的に、アズはけろりといつも通りだ。
クロエも顔をわずかにしかめていて、三人ともこの先の光景を予想していた。
啜り泣く声が聞こえる。
ぼんやりと光る燭台が角を曲がった先に見え、カエリたちは足を止めた。
蝋燭の火に照らされた先は、そこそこに広い部屋だ。小さく区切られた小部屋がいくつもあり、照り返す格子が嫌に目立っている。
牢屋だ。
牢屋の中から、いくつもの声が聞こえてくる。
それは許しを乞う言葉であったり、ただただ泣く声だったり、怨嗟の言葉であった。
――胸糞悪くなる場所だ。
奥歯を噛み締めたカエリは、嫌悪感を堪えて目を凝らした。
牢屋の中には、 全裸の女性が閉じ込められていた。全員、体のあちこちに青痣や縄の痕がついており、中には顔がわからないほど腫れ上がっている女性もいた。
ずらりと並んだ牢屋の奥、鉄製の扉の向こうにフラッペンはいるのだろう。ときおり、くぐもった男の呻き声が響いてくるので間違いないはずだ。
こんな地下だ。少しばかり騒がしくしても誰かがやってくることはない。というよりも、日常的なあまり、この屋敷の人間は誰一人として気にしないだろう。であれば、忍ぶ必要はない。
すっと牢屋の前を横切ったカエリに続いてアズと、挙動不審なクロエが続く。途端に牢の中から悲鳴が響くが、三人は足を止めることはなかった。
幸い、鉄の扉には鍵は掛けられていなかった。
ちらりとクロエに視線を向けると、彼女は短剣を取り出して握り締めていた。一寸も変わらない表情であるが、囚われた女性たちには他人事ではない何かを感じているようで、目には怒りが灯っている。
静かに扉を開けると、線の細い優男の尻が見えた。激しく前後に振っている様は滑稽極まりないが、むっとするような情事の臭いに、嘲笑さえ出ない。
寝台に横たわった女性を責め立てることに夢中で、三人が部屋に入ってもフラッペンは気づかない。無防備すぎる背中にこのまま短剣を突き立ててやっても良かったが、クロエはカエリの目配せに首を横に振った。
「……こんばんは」
「うわぁっ!? なな、なんだ!? 貴様ら、どこから!?」
慌てて振り返ったフラッペンは、当然裸で振り返ることになり、股間のモノがぶらりと揺れてクロエは顔を真っ赤にした。
「両親の仇、です」
もはや、フラッペンを見ることも耐え難いのだろう。混乱の極みにいるフラッペンに一言だけ告げると、鞘から抜き払った短剣をまっすぐに突き出した。
素人の、対して早くもない刺突だ。多少鍛えている人間であれば、対処は簡単だ。だが、フラッペンの胸に吸い込まれていった短剣は、あっさりと心臓を貫いた。
悲鳴なのか罵声なのかわからない言葉をしばらくわめき散らしていたフラッペンは、すぐに死んでしまった。
「わたしの両親は、こんな、こんな男に……」
ずるりと短剣を引き抜いたクロエは、それだけ呟いて俯いてしまった。
こんな男に。
か弱い少女にさえ殺せてしまう人間に怯えていた今までは一体なんだったのか。
「復讐なんて、そんなものだよ」
唇を強く噛み締めたクロエに、カエリは呟いた。
「復讐にかけた時間が長ければ長いほど、終わったあとに虚しくなるんだ。劇的な復讐なんてない。きみみたいに、胸の中の憎しみを吐き出せないうちに終わるんだ」
「……すっきりしないものだよ。クロエちゃんは余計に、ね」
沈黙。
この胸の内に燻る憎しみは、怒りは、いったいどこにぶつければいいのか。
フラッペンを殺して、復讐を果たして、しかし、まるですっきりしない。あまりにもあっけない死に様だ。
「でも、何も一個人だけが復讐の対象じゃないよ」
ぽつりと呟かれた言葉に、クロエは勢いよく顔を上げた。
「例えば、きみのお父さんを殺した兵士。それに、見ていたのに助けなかった町の人間、この屋敷の使用人。こんな具合にね。だから、満足するまで復讐すればいいんだ。クロエさん心が晴れるまで、何度も何度も何度も何度も、殺して殺して殺して、すっきりしたら復讐の終わりだ」
「いいんですか、それで」
普通じゃない。普通の考えではない。だが、クロエには甘美なその誘惑が、唯一の正解にしか見えなかった。
カエリは何も言わなかった。
「いいもなにも、決めるのはクロエちゃんだよ。あたしもカエリくんも、自分で決めて続けてる」
これ以上誘惑しないで。そんな抵抗は一瞬で消え失せた。
「……そうですね」
クロエ・スレッタートの復讐はまだ終わっていない。