そのなな
「驚きました。まさか貴方が……いえ、今日はよろしくお願いします。そちらの方も」
「あ、うん。よろしく」
「よろしくねー」
別人になっていた。
いや、燃えるような赤毛も、足首まである長衣も、顔立ちだって変わっていない。だが、クロエ・スレッタートは別人のようだった。
無表情。
カエリとアズはフリステンたちが帰った後、クロエを待った。
今日中に、ということなので準備を整えていた。
日が暮れる少し前に図書館の扉が開いて、クロエはやってきた。
彼女は少しだけ話したことのある司書、カエリが協力者だと知るとやや驚いたように目を丸くしたが、表情は一寸も動かなかった。まるで、どこかに感情を置いてきてしまったかのように。
だが、カエリもアズも、そのことについては一度も触れなかった。それは二人が既に経験しているからだ。
こういうとき、気を遣われるとかえって辛いことを知っている二人は普段通りにクロエに接した。クロエはなにも言わなかったが、空虚な表情をほんの少しだけ和らげたような気がした。
「それで、早速なのですけどいつ出発するのでしょうか? あと、必要なものも教えてもらえれば用意しますので」
「いや特に必要なものはありませんよ。ああでも、短剣のひとつはもっておいてください。僕たちが守りますけど、万が一ということもありますから護身用に持っておいてください」
「わかりました」
素直にうなずいたクロエには言わなかったが、カエリはクロエ自身の手で復讐を遂げさせるために武器の携帯を言いつけたのだ。仮にカエリやアズが貴族を殺したところで彼女の胸中は晴れないだろう。
吹っ切るためにも、己の手でケリをつけなければならないのだ。
「出発は夜明けと同時にしましょう。貴族ともなれば真夜中の奇襲なんてことには慣れていそうですから。アズは?」
「ん? んー、あたしもそれでいいと思うよ」
「そうですか。では私は仮眠を取ることにします」
そういうとクロエはすたすたと背を向けて立ち去ろうとした。それに慌てたアズが身振り手振りを交えて引き止めた。
「ちょっとちょっと、仮眠ならここでしていけばいいじゃない! クロエちゃん、一応指名手配されてるんだから気をつけないと!」
実際、図書館にバロウズという騎士がやってきたことから、まだクロエの捜索は続いているようで、依然として手配書は貼り付けられたままだ。
「……そうでした」
今気付いたといわんばかりの態度に、アズは脱力した。ここまで自分に無頓着であるといつヘマをするかわかったものではない。もしこれが潜入中だったらと思うと身震いしてしまう。これはよく見ておかないといつ死んでしまうかわからない。密かにアズはクロエの面倒を見ることに決めた。
「それじゃあ時間も決まったことだしさ、ちょっと早いけど晩御飯にしよ? 朝に買った食材がまだ残ってるから、それで簡単に作っちゃうね」
「料理ですか? それなら私も手伝います」
「ほんと? 助かっちゃうなっ」
と、早くも親睦を深めたようなアズたちの背中を見送って、カエリは置きっ放しだったがカゴを掴んで本棚へ向かった。
夜が明ければ人を一人殺すというのに、普段通りの生活だ。いまから逸っても疲れてしまうだけだ、と短い経験ながらも理解している。それに、激情は溜め込めば溜め込むほどぐつぐつと煮える。いまのうちに溜めておく、というわけではないが、爆発させるのは後でいい。
黙々と本を入れ続けていると、アズが呼びに来たので離れに向かった。
昼食にも劣らないほど豪勢な料理の数々がテーブルには並べられていた。確かに山ほど食材を買い込んでいたので、多少料理の腕に覚えがある人間が数人いれば作れるであろうが、たった二人でそこそこ広いテーブルを埋め尽くすほどの皿を並べるのは少し難しいのではないだろうか。
唾液を飲み込んでそんなことを思った。
いそいそと席についたカエリをよそに、アズとクロエは楽しげに、ときには笑い声さえ漏らして話していた。相変わらず片方は無表情だが、喜怒哀楽の激しいアズがいるのでバランスは取れているように思う。
湯気の立つ料理を目の前にしておきながらアズたちの談笑を聞かされるのはかなり酷だった。幸い、アズたちはすぐに席についてくれたので、二人が食前の祈りを終えるのを今か今かと待ち侘びて、ようやく食事にありついた。
カエリが真っ先にフォークを入れたのは、皮ごと炙られた鳥肉だ。軽く塩をかけられただけの肉だが、香ばしい匂いが席についたときから鼻腔をくすぐって仕方ないのである。
さっそく口に運んで咀嚼すると、わずかに焦げた鳥皮がぱりと歯ごたえよく割れ、柔らかい肉まで噛み切ればどっと肉汁が溢れ出す。
パンがなかったので、にんにくと少量の香辛料で和えたパスタを素早く巻いて口に放り込む。ややくどい油と少しばかり辛味のつよいパスタがお互いにマッチして、いっそう味がよくなった。
カエリとしてはこの二品でも大満足だったのだが、テーブルにはまだまだ料理が並んでいる。
まるで気づかなかったが、アズとクロエも美味しそうに顔を綻ばせて料理を口に運んでいた。
――なんだよ、笑えるんだ。
本人は気づいていないようだが、クロエの口元はだらしなく緩んでつり上がっていた。美味しい食べ物には勝てないのだ。
口休めにオニオンスープを飲んで、次はサラダを。次に鳥肉、次にパスタ、次は燻製魚肉をほぐしてチーズと一緒に焼いたものを。
気づけば、テーブルに並べられた料理はなくなっていて、三人は満足げに余韻を満喫していた。
「あははっ、お腹いっぱいだから眠く……ふあぁ」
「寝てきなよ。どうせ仮眠しないといけないんだし」
僕は図書館を閉めてくるよ、とカエリは一足先に離れから出て行った。また、自分は蔵書室のほうで寝るから、と言い残した。
「食べてすぐ寝ちゃうのは女の子的に良くないけど……ふわあああ」
「私も寝ます」
手早く食器を片付けて、クロエに普段使われていない予備のベッドのある部屋を案内するとアズはカエリの部屋は入った。
ばたん、と扉を閉めて、鍵を掛けるとアズは溜め息を漏らした。食後の満足げなそれとも、疲れてからくるそれとも違う、なんとなく気恥ずかしい溜め息だ。
「うう、仲良くない人に部屋を使われるのは嫌かと思ってクロエちゃんには別の部屋を案内したけど、逆のほうがよかったかなぁ」
おずおすと振り返って、普段カエリが眠っているベッドを見た。すると途端にアズの頬は赤く染まって、恥ずかしげに呻いた。
「ね、ね、ね、寝るんだよねここで……」
いつも仲が良く、異性として意識することはあまりないアズだが、いまは状況が違う。自分とは違う、男の子の匂い。照れたアズは一思いに、とベッドへダイブして、余計に身悶えるのであった。
行政区画はブロッサでもっとも警備の厳しい場所である。一般人はもちろん、外からきた貴族も面倒な手続きを経てからでないと足を踏み入れることができないブロッサの心臓部である。その行政区画を囲むように、貴族区画はあった。
普段カエリたちが生活している区画とはまるっきり違う町並みを見渡して、アズは感嘆の溜め息を漏らしたあとにあくびを漏らした。
朝霧のおかげで視界は悪く、街灯も遠目では薄ぼんやりとしかわからない。
何もかもが違う。掃除の行き届いた石畳はずいぶんと歩きやすいし、立ち並ぶ建物に使われている石材は上質なものだとわかる。
警備の兵士が眼下を過ぎていくのをしっかりと見送ったカエリとアズは屋根から屋根へと飛び移った。
が、そこで問題が起こった。
クロエが飛び移れないのである。
ある程度訓練を積んでいるカエリたちとは違い、クロエは一般人だ。身体能力は並で、とてもではないが二人の真似はできなかった。
屋根に登ることは出来たため、カエリたちは気がつかなかったのだが、飛び移った二人に目を丸くしたクロエが屋根と屋根の広い隙間とアズを交互に見遣って戸惑っている。
「んー、どうしよっか」
「飛べないなら……そうだな。アズ、その鎖を巻きつけて引っ張ってみたら?」
「えっ」
「うんっ、それいい! よっし、クロエちゃん、気絶しないでね!」
戸惑うクロエを他所に、腰に巻きつけた鎖を素早く解いて手に持つと、ふっと鋭く息を吐いて分銅を投げた。
器用にも、クロエの体に直撃する寸前で分銅が方向を変え、体を掠めるように曲がるとそのまま巻きついた。
「うわ、すごい」
これから引っ張られるというのにアズの技量に感嘆の声を上げたクロエは、すぐに悲鳴を上げる羽目になる。
「冗談のつもりだったんだけど……」
「ん? そうなの? まあでもいいじゃん、ちゃんとこっちに来れたんだしさ」
「お前、いまのクロエさんを見てもそう言えるんだもんな。すごいよ」
無表情はそのままだが、顔面蒼白にして屋根に膝をついてうずくまるクロエを罪悪感から見ないようにしつつも、カエリは呆れ返った。
「え、そう?」
「そうだよ」
けろっとしているアズはよくわからないとばかりに首を傾げると、クロエさんの胴に鎖を巻きつけたまま彼女を立ち上がらせた。
「いちいち巻きつけるのも手間だから、このままあたしが引っ張っていくね」
にっこりと笑ったアズに、とうとうクロエは震え出した。
カエリが止める間も無く、アズはクロエに鎖を巻きつけたままさっさと屋根を飛び移っていく。余ってクロエの足元でとぐろを巻く鎖はさながら、死刑囚の余命のようで、それがじゃらじゃらと音を立てて伸びていく光景はたいへん心臓によろしくないのである。
刻一刻と人間ジェットコースターの時間が迫るなか、クロエは縋るようにカエリを見たが彼は目を逸らすばかりで助けてくれない。
半ば、死にゆく覚悟のようなものを持って、クロエは空を飛んだ。
完全にグロッキー状態のクロエがとぼとぼとついてくるのを確認しながら、カエリとアズは屋根から飛び降りて目的の貴族――フラッペン卿の屋敷の中庭に侵入した。
鎖をロープ代わりに使って具合の悪そうなクロエを地面に降ろすと、彼女はほろりと一粒の涙を零したのであった。
「んもうっ、大袈裟だよ!」
「きみは楽しそうだったもんね」
「いまなら聖書のいう、母なる大地という言葉に共感できます」
すっかり弱気になってしまったクロエを励ましながら、カエリたちは鍵のかかった屋敷内の扉をこじ開けていよいよ気を引き締めた。
「ここから無駄話は無しだ。いいね?」
強く頷いたクロエから視線を逸らし、蝋燭のぼんやりとした炎を避けて三人は進んでいく。既に屋敷の間取りは頭の中に叩き込んである。迷うことなくするすると足早に駆けていくと、巡回の兵士が辻を曲がっていくのを確認した。
しかし、すぐに別の兵士がこちらへやってきた。おそらく、常に複数人がすれ違うように配置されているのだろう。そうすれば一人が不審なものを見逃しても、別の兵士が発見することが出来る。予想通り警備は厳しくなっているようであった。
が、この程度の警備は既に経験済みである。カエリはまず、アズにクロエを任せると、壁にぴたりと張り付いた。
火のついた蝋燭が等間隔に設置されているため、暗闇を移動することは難しい。だが、夜勤の兵士たちはちょうど眠くなっている頃合いだ。ただただ巡回するだけの仕事は楽だが、絶えず歩き回る必要があるため疲労がたまりやすく、そのせいで集中力も散漫になりやすい。そこをついて、カエリはあっさりと廊下を突破した。
先行するカエリを待つアズとクロエだったが、クロエは焦れてきたのか、しきりにカエリが向かった先へ視線を向けている。
ふと、そこでひとつおかしなことが起こっていることに気づいた。巡回の兵士がやってこないのである。もしかして、とクロエが訝しむと同時にカエリが廊下の向こうから手招きしているのが見えた。
「さ、行くよ?」
「え、あれ……」
呆然とするクロエを連れて、アズはカエリと合流した。
「あ、あの、どうして……」
極力声を出すことは避けていたクロエが、思わずカエリに聞いた。すると、カエリはなんでもないかのように呟いた。
「近くの兵士を気絶させただけだよ。事が終わるまでは起きないと思う」
それだけを言うと、カエリは身を翻して先頭を進んでいった。
彼の言葉通り、それから巡回の兵士を見ることはなく、あっさりとフラッペン卿の寝室に到着した。
「兵士がいない……?」
貴族の寝室にしては、誰一人として警備の人間がいないことが疑問だったが、アズの言葉で氷解した。
「寝るときまで武装した人たちに囲まれてるのは嫌でしょ?」
「わからなくもないけど、危機感がないな……」
「……他の警備を厳しくしているので、安心したのでしょうか」
てんで素人なクロエが失敗したとはいえ、懐にまで潜り込んでいるのだから、フラッペンという貴族はなんと危機感が足りないことか、とカエリは呆れ返った。毒殺されかけたのであれば、直接暗殺にくることも考えられるだろうに、などとアズも微妙な表情を浮かべている。
「ま、こっちはやりやすいから大助かりなんだけどさ」
「そだねー。うん、それじゃあクロエちゃん、気をしっかり持ってね」
いよいよ本番ともなると、クロエの鉄仮面じみた表情も強張った。ぎゅっと両手で武骨な短剣を握り締め、緊張に手が震えている。
「アズ、僕たちは見てるだけだよ。クロエさん、あまり時間は掛けられない。やるなら手早く、やれないならすぐに言って。僕が代わりに殺すから」
「……はい」
どこか虚ろなカエリの表情に瞠目しながら、クロエは神妙に頷いた。




