そのご
「うー! 物足りないよっ!」
「一晩寝たら収まると思った僕が間違ってたよ……」
一眠りしたカエリを迎えたのは不満を全身で表すアズである。
寝ぼけ眼をこすりながら離れの自室から図書館へ顔を出すと、しっかりと施錠したにもかかわらずカウンターに頬杖をつくアズが退屈そうに足をばたつかせていた。
「きみの戦闘狂はどうでもいいんだけどさ、どうしてここにいるのさ。鍵も締めたのにさぁ」
「今日はお店がお休みだから暇なの! だいたい、あんなの鍵なんて呼ばないし……」
「閂でもつけようかな……」
利用者がいないとはいえ、こうも易々と侵入されてはいつ本物の泥棒がやってくるかわからない。もっとも、一般人とは言い難いアズやフロウの侵入技術と比べてはどうしようもないのだが。
「店が休みならこんなところにいないで遊びに行ったらどう? そっちのほうが気も紛れると思うけど」
「んー、みんなと遊ぶのも楽しいけどこの前行ったばっかりだもん。今日はカエリと一緒がいいな」
「……はいはい」
無邪気な笑顔を向けられたカエリはぷいと顔を逸らしながら頬を掻いた。戦いから離れると途端に純朴な町娘の顔になるのだから、この娘は極端だ。
「ねえねえ、お買い物にいこうよ。今日はあたしがご飯作ってあげるからさ!」
「今日はというか、今日も、なんだけどね。特に用事もないし、お願いするよ」
そう返事をすると、アズはぴょんと飛び上がりながらカエリを急かした。
普段よりも長く眠ったので朝食を摂らないままの中天である。
軽く身なりを整えたカエリを引っ張って図書館から出たアズは、露店区画ではなく大通りへと足を運んだ。
「うわ、すごい人数だ」
思わずといった風に呟いたカエリの言葉通り、ほかの区画とは比べものにならないほどの人だかりがひしめきあっている。すれ違うだけでも互いの肩がぶつかりそうなほど密集している上、怒号のような声がそこかしこから上がっているせいでひどい熱気だ。俯瞰すれば蟻の行列にも劣らない光景になるだろう。
ターバンを頭に巻いた男に、やたら露出度の高い踊り子風な衣装の女が瑞々しい果実を勧めている隣で、恰幅の良い夫婦が巨大な肉塊をその場で切り分けては小型かまどで焼いている。誰もが異国情緒溢れる服装だ。
これが、商業都市ブロッサの中心である大通りである。
国を越えてやってくる商人や旅人など、見慣れない姿の異国人が多く出入りするブロッサでは多種多様な人種はある種見慣れているものだ。時折、理解できない言語が耳に入ってくるのもここならではだ。
ただし、ブロッサにやってくる人間が全て善人だとは限らない。特に、このような人混みはスリにとって宝の山に見えるだろう。他人に紛れて財布を抜き取り、見つからないうちに遠ざかる。ときには商売をしている商人の背後で売り物を盗んでいくのだから困りものである。
とはいえ、手癖の悪い一般人程度であれば、カエリたちの懐に手を伸ばしたところでするりと避けることが出来る。よっぽど極めていなければ無理だろう。
人混みを掻き分けるようにして前に前に進んでいくと、未だカエリな手を引いたままのアズが顔だけを向けた。
「まずはお野菜からね。生ものは帰るときに買っていこ」
「いや、その辺は任せるよ」
家事に関しては素人もいいところのカエリが言うと、アズは嬉しそうに笑った。
必要な物を買い揃えて大通りから逸れた二人は、やや息を荒らげながらベンチに腰掛けていた。
カエリの脇には袋いっぱいに詰め込まれた戦利品がこぼれ落ちんばかりに積み上げられており、いささか以上に買い込み過ぎている。道中、なかなかに重量のあるこの籠を運んでいたのはカエリで、重さもさることながら荷物が落ちないように、潰されないようにと気を張っていたため終始楽しそうであったアズとは正反対に疲れ切っている。
「ごめんごめん、あんまり楽しかったからつい」
「まあ、いいけどさ」
元気そうなアズが謝りながら差し出した木のコップを受け取って、一息で呷った。
近くの屋台で売られている果実水だろう。汗だくの体は知らずのうちに水分を求めていたようで、柑橘類の果物を浮かべた水は温かったが染み渡るような美味さだった。
アズは取り出したハンカチでカエリの汗を甲斐甲斐しく拭っている。普段なら振り払うであろうカエリも、いまはそんな気力も残っていないのか、されるがままである。
そんなカエリを内心、可愛いと密かに思ったアズの笑顔が増した。
「……本当に楽しそうだね」
「うんっ。だってカエリ、いっつも図書館から出ないから」
「僕まで遊び回っちゃいつまでも片付かないよ」
どこにいるのか、昨夜別れたっきり音沙汰のないフロウを思い浮かべた二人は揃って苦笑した。
「でもさ、ちょっと楽しくなかった?」
「どうだろう。ああでも、僕一人じゃ楽しくなかったことは確かだよ」
そっぽを向いて呟いたカエリに、アズは一瞬きょとんと目を丸くした。いつもならつっけんどんに返されるか、邪険に追い払われるかのどちらかのでそんなことを言われるのは珍しい。一層深くなるアズの笑顔を横目で見ながら、カエリはやはり戦闘狂の気さえなければ、と妙な気持ちになった。
「じゃあ、帰ろうか」
「うんっ」
離れにある、普段カエリが寝起きしている小さな家に戻ってきた二人は、手早く食材を洗うと調理を始めた。といっても、カエリはキッチンに立つアズをぼんやりと眺めているだけだ。
忙しそうにしているアズのエプロン姿は見慣れたものだが、飽きてくることは一向になかった。快活な少女が楽しげにエプロンのフリルをはためかせる光景は、カエリの心をつかんで離さないのである。
早い話が、カエリはエプロンフェチであった。
家庭的で明るく、人付き合いも得意なアズを見ていると、こういった人間こそ引く手数多であろうに、と出会ってから未だに男の気配を見せないアズを心底不思議に思っていた。
カエリも、人並みには恋愛といったものに興味がある。しかし、興味があるだけで気後れして実行しようとする気にはなれない。それに、『木陰』にいる間はそういったことに無縁でなければならないと彼は思っていた。
失うものがない人間はなんだって出来る。
村を焼かれ、友人も家族も陵辱の果てに灰となって消えたからこそ、カエリはよく知っている。
仮に、恋人でも作ってしまえばそれが弱点になる。弱点がある人間はひどく脆い。だからこそ、カエリはそういった関係になる相手を求めることはしなかった。
だが、こうして鼻歌さえ漏らしながら料理に勤しむアズを見ているとなんだか心が暖かくなるような、
少し気恥ずかしいような気持ちが湧き上がってくる。それはアズが心底楽しそうにしているからなのか、エプロンが揺れるからなのかわからないが。
肉の焼ける香ばしい匂いと油の跳ねる音に期待しながら、カエリは空きっ腹を抱えて待った。
アズが運んできた皿には、湯気を立てるロースステーキがほどよい焦げ目をつけて肉汁を溢れさせている。脇には柔らかい骨まで食べられる小魚を少量の油で揚げたフライと、胡麻と塩を振りかけただけのシンプルな野菜サラダが盛り付けられている。
せっかくなので、と奮発した柔らかく甘い白パンもバスケットいっぱいに積み上げられており、カエリの口内は唾液でいっぱいになった。
オレンジとブルーベリーを煮詰めたジャムの瓶をテーブルに並べながら、カエリの様子に苦笑したアズが席につくのを待ってさっそく食べ始めた。
流石に、これ以上待つのは難しい。食前の祈りを口にしているアズに目もくれず、カエリはさっそく白パンを手に取ると何もつけないまま噛みちぎった。
しっとりと柔らかい生地を噛むだけでほのかな甘みがじんわりと広がった。飲み込み、次はジャムをつけて食べる。
ようやくアズも食事に手をつけ始めたのを眺めてながら、カエリは黙々と皿を空にしていった。
ずっしりと重い腹を満足げに摩るアズの隣で、カエリはカウンターに頬杖をついていまにも眠ってしまいそうなほど大きなあくびを漏らした。
これでもかというほど食べたのち、カエリとアズの二人は図書館に戻ってきた。
普段よりもずいぶんと遅い開館だが、どうせ利用者はこないだろうというカエリの判断に間違いはなかった。
お腹いっぱいになり、眠たげにぼんやりとしているカエリの横顔をにこにこと幸せそうに眺めているアズの視線にも気づかず、カエリはまた大きなあくびを漏らした。
「あれ、おねむかなー?」
「うわっ」
「うひゃあ!」
突然、足元から恨みがましい声が響いてきて、二人は慌てて飛び退いた。その衝撃で本の山が崩れたが、カウンターの下で横たわる人影のほうがよほど大事である。
「……なにしてるんですか」
「うわぁ、全然気づかなかった……」
よくよく見てみれば、その人影はフロウであった。扉が開く音も気配もない。ましてや、いまのいままで鍵を掛けていた。カエリとアズの察知能力も並ではない。にもかかわらず、いつの間にか足元に忍び込んでいたフロウに呆れるやら驚くやら感心するやら――大半は呆れであったが。
あまりに常識外れな場所に身を潜めていたフロウにこれでもかというほど引いているカエリが、口の端を引きつらせながら崩れた本の山を直しはじめた。
「ふふん、まだまだ修行が足りないねぇ。これくらい気づけないと心臓一突きだよ?」
「館長と同じくらい強い人間がごろごろしてるとは思いたくないですよ」
「そうだよ、館長さんにはあたしたち二人掛かりでも勝てないのに」
理不尽なほどの実力を持つフロウに諦めたように言うと、当の本人は立てた人差し指を左右に振ってわざとらしく溜息を漏らした。
「まったく、若者はもっと高い目標を持たないと。実現不可能だろうとも目指すのが若さの特権なんだよ?」
言いながらカウンターに腰掛けたフロウが一変して、真面目な顔つきになる。
「さて、お仕事のお話になるよ。クロエちゃんは無事私が首領のところへ送ったからね。それで、あの子の今後がこれから決まるわけだけど、二人にも来て欲しいんだよね」
「なんでまた」
「んー、これは首領の命令なんだよ。私にも理由がわからないけど、首領が二人を呼んでるんだ」
「嘘……」
疑わしげに顔を見合わせるカエリとアズは、自らが所属している組織の頭に一度もあったことがないのである。なにか裏があるのではと疑うのも無理なかった。
「言っとくけど、二人は首領のお気に入りなんだよ? 私がこうして足繁く通ってるのも首領から様子を見ろーって言われてるからだし」
過保護なくらいにね、とフロウが言うが、二人は怪訝な表情を浮かべるばかりである。
「まあ、真相は本人に会ってからでってことで。今日の真夜中にクロエちゃんと首領がここにくることになってるからねー。ちゃんとお掃除しておくんだよ?」
じゃあねー、とカウンターから降りて図書館から出ていったフロウの後ろ姿を見送って、カエリとアズはまた顔を見合わせた。
「……掃除するか」
「あ、あたしも手伝うよ」
「助かるよ」
普段から清潔に保っているおかげで、掃除はすぐに終わってしまった。お茶を入れてくると言ったアズが離れに戻り、カエリは書物の整理をすることにした。
まだまだ棚は空いている。国ごとにまで分けているせいでいつまで経っても埋まらないのである。
都市国家かつ、商業都市として名高いブロッサ近くの国々――特に東西の隣接した国のもので気軽に遊びに来れる距離の本が多い。以前露店区画で買った北国の本のような遠く離れた国の本は一部を除いて両手の指の数で足りてしまうほどだ。
活発な商業都市とはいえ、流通にはまだまだ難ありのようである。
いまはこうして他国の本を気軽に読める立場ではあるが、元々カエリは文字もろくに読めない農村出身だ。畑をいじくるだけの生活とは違って、都市で生きるには文字を知る必要があった。まるで文字が読めず、フロウに逐一説明してもらっていた昔を思うと感慨深いものがあった。
カエリは西の隣国セブリナの農村の出身だ。しかし、日々の糧を得るために子供の身ながらせわしなく働いていたため、村周辺しか見たことがない。
同じように、フロウに連れられて東の隣国アルタルへ足を伸ばしたこともあったが、あのときは『木陰』の仕事だったのでのんびりと観光とはいかなかった。こうして他国の本を集めているのは多少なりとも旅に憧れがあるからに違いないとカエリは自己分析している。
カゴの中から取り出した本がセブリナで有名らしい冒険活劇のものだった。
読んだことはないがどうしても故郷のことを思い出してしまう。いささか憮然としつつ、心なしか力を入れて本棚に押し込んだ。
「失礼、邪魔をするぞ」
よく通る声が聞こえて、カエリは立ち上がった。
「すまない、どなたかいらっしゃるか!」
「いますよ。いまいきます」
表面上は冷静に、しかし内心では短期間で二人も利用者が来たことに慄いている。
階段を降りると、カウンターの前で佇む鎧姿の男がカエリを見た。
騎士の格好をした男は、カエリよりも幾つか年上だろう。少なくとも五つは上だ。目元の涼しい精悍な容姿で、背丈は見上げるほどある。がっしりとした体格はカエリと正反対で、鎧を纏っていると安心感が増すようである。使い込まれた鎧は街中で見かける騎士とは違う模様が入っていた。右肩から腰元に掛けて、三本の獣の爪痕の刻印が刻まれている。
「きみが司書か?」
「そうですよ。利用料金は軽銀貨一枚です。紙はそこのカウンターにありますが……」
「いや、本を読みにきたんじゃないんだ。聞きたいことがあるんだが、構わないか?」
「なんですか?」
本を読みにきたわけじゃない、という男は、腰のポーチから一枚の紙を取り出して広げた。
「この子に見覚えはないか? 先日、ここに足を運んでいたという情報があってな」
丸められた紙はクロエ・スレッタートの手配書だった。
訝しげな表情を浮かべたカエリだったが、男は見た目通りの騎士のようで、クロエの行方を探している最中なのだろうと結論付けると一つ頷いた。
「そうですね、確かにその手配書の子がえっと、二回かな。それくらい来ましたよ。そういえば、あれから見てませんね」
素知らぬ顔でうそぶくカエリの表情は至って真面目だった。だが同時に、目の前の騎士があまり相手にしたくない手合だと直感的に理解していた。
おそらく、彼は普通の騎士ではない。
「そうか。……一応聞いておくが、彼女の行き先に手掛かりは?」
「いえ、話すこともありませんでした」
「なるほど。では他の司書にも話を聞きたいのだが、大丈夫だろうか?」
「ああ、そういうことならここの司書は僕一人ですから」
なんでもないようにカエリが言うと、男は驚きに目を見開いた。しばらく図書館を見回すと、真剣だった瞳に柔らかいものが混じって笑みを浮かべた。
「きみ一人でこの広さの図書館を? それはすごいな」
心底感心したという様子の男に、カエリは面映くなって顔を背けた。素直に感心している風な男は元から性格が良いのだろう。カエリを子供だからと軽んじることなく賞賛していた。
「しかし、そうか。協力に感謝する。邪魔をしたね。これはとっておいてくれ」
「あ、ちょっと!」
カウンターに三枚の重銀貨は置くと、男は肩越しに手を振って図書館から出て行ってしまった。
なんというか、驚くほど好青年である。当初のしかつめらしい顔は真摯に仕事に打ち込んでいる故であろうし、嫌味なところのない珍しい騎士だった。
それでも、だ。
それでもあの三つ爪の鎧の存在は予感めいたものをカエリに絶えず与え続けていた。