そのなな
グレイフルの亡骸の影から、バロウズが滑るように姿を現して未だグレイフルの首をへし折った状態のカエリの腕を切り上げた。
間一髪、腕を引っ込めることに成功したが、前腕の肉がピラーで削られたようにすっぱりと切り落とされてしまった。
吹き出す血液を無視して、カエリはバロウズの鎧を蹴り飛ばして距離を取った。
鎧は重く、わずかにバロウズが揺れるだけで、仕方なくカエリは自ら後方に飛び退いた。
だが、即座に反応して追従してくるバロウズの剣が、カエリの額を薄く裂いた。
振り下ろしからの切り上げ。剣が霞むような速度のそれを辛くも紙一重で避け、カエリは鎧で覆われていない部分、つまり関節辺りを狙った。
厄介なのは剣術だ。
伸びきったバロウズの肘を取ろうとするが、即座に斬り下ろしに移った剣にカエリは一歩下がった。
わずかな攻防で実感した。やはりバロウズは普通じゃない。
超人的な反応速度と、それについていくことの出来る強靭な肉体。およそ、人間として最高の性能を持っているのではないだろうか。
一方、カエリはまだ肉体的に成熟していない。細身の体躯に似合わぬ怪力こそ、大人が束になっても叶わないものを持っているが、近づけなければ意味がない。
お互いに自分の間合いをよく理解している。だからこそ、カエリはより近づこうとして、刀身の分だけ広いバロウズの間合いに阻まれてしまうのだ。
攻めあぐねるカエリに対して、バロウズは銀線の嵐もかくやといった具合に攻め立ててくる。
かろうじて致命傷は躱しているものの、傷が増えるにつれ、出血は増える。そうなればカエリの体力は削られていく一方だ。
――腕を捨てる。
決断したカエリは、無謀とも言える突撃をした。
剣身が煌めくのが見えたが、カエリは構わずにバロウズの間合いに飛び込んだ。瞬間、振るわれる刃がカエリの首を落とそうと迫るが、バロウズの手ごと柄を掴もうとした。
バロウズの武器は、そのおそるべき判断力だ。
首を落とすことが無理だと判断したバロウズは、カエリに手を掴まれる前に腕を引き、横から縦への軌道へ変えた。
中途半端に伸ばしていたカエリの腕の上腕が半ばまで断ち切られて、目の奥が激痛にまたたいた。
肉は当然として、骨まで切断されていた。皮一枚でかろうじて繋がっている右腕がぶらりと揺れて、カエリはバロウズの懐に入り込んだ。
この距離ならば、剣を振るうよりも手を出すほうが早い。
自らの体の影に隠していた左腕をしならせて、バロウズの右眼窩に指をねじ込んだ。
流石に呻いたバロウズだったが、カエリの行動はこれで終わりではない。腕と同時に振り上げていた足で、バロウズの右膝を砕いたのである。
片側の視界の消失と、足の骨折によるバランス感覚の崩壊は重い鎧を着たバロウズに耐えられるものではなく、彼は仰向けに転倒した。
同時に、カエリも倒れ込むように後を追う。バロウズが倒れるということは、距離が開くということだ。適切な判断を行えるバロウズに取って、目と足を奪っただけで満足するのは愚の骨頂だ。
眼窩に指を突っ込んだままのカエリをなんとか引き剥がそうとバロウズは身をよじるが、地から足が離れている状態では無理だ。
ずぶり、と眼窩にねじ込まれたカエリの指が、転倒の衝撃でより深く押し込まれてバロウズの脳は破壊された。
「ああ……終わった」
動かなくなったバロウズの上に倒れたまま、カエリは溜め息を漏らした。
安堵の溜め息ではない。疲れたような溜め息だった。
カエリもまた、動けない。
バロウズの剣が腹を貫いて、柄までめり込んでいるのだ。背中きら剣先ぐ飛び出していて、縫い付けられている。
カエリの呟きは、果たして誰に向けたものだったのか。
「もうっ、安静にしてなさいってお医者様に言われたでしょっ!」
「いや、もうずっと寝てたし、背中が痛くてさ……」
言い訳がましく目を逸らしながら言うカエリの手には、分厚い辞書のような本が握られていた。
長時間寝たままの体勢でいたため、背中と腰がずいぶんと痛むのである。
家事の一切が怪我のせいで行えないカエリに代わって、アズが洗濯物を干している隙をついて図書館のほうへ出たのだが、すぐに見つかってしまった。
ミイラもかくや、といわんばかりにぐるぐると包帯を巻かれたカエリの右腕は骨まで断たれたせいで未だ動かず、かろうじてくっついてはいるが、元通りに動かせるようになるかはあまり期待していない。
そんな腕だから本を読むにも不便で、新しく仕入れた他国の辞書を開くのに四苦八苦しているうちにアズに見つかってしまったのである。
表情険しく、ぐっと眉を釣り上げるアズだが、いかんせん迫力に欠ける。
再び開こうとした辞書をカエリから取り上げると、アズは彼を無理やりに立たせた。
「いっ、いたた、痛いってアズ!」
「だから安静にしてろって言われたんでしょ! ほら、おとなしく寝てなさい!」
腹の傷が猛烈に痛むなか、カエリは自室に押し込まれた。
ばたん、と扉が閉められて、アズの足音が遠ざかっていった。
このままベッドで寝ていてもまた背中ぎ痛んで飛び起きる羽目になる。ここはやはり、読書しかない。
足音を立てぬようにして扉に近づき、そっとドアノブを捻ってゆっくり開けていく。
よし、誰もいない。
部屋の前にアズはおらず、意気揚々と部屋を出て、扉を閉めたカエリの首根っこが掴まれた。
アズは壁に張り付いて死角に隠れ、待ち構えていたのである。
無言のままアズに部屋へ放り込まれたカエリは、おとなしくベッドに横になった。この調子では部屋の前にずっとアズが待機していそうだ。
復讐を果たして何か変わったかというと、別段なにも変わっていない。
カエリの心は晴れたが、所詮は自己満足だ。劇的に変化することはなく、いまはフリステンに療養を言いつけられている。
ブロッサの街も、多少の騒動はあったが、いまは概ね元通りになった。
住民からの反乱を恐れた貴族たちは行政区画を一般開放することにし、すこしでもリスクを減らそうと努力しているようだったが、正直なところカエリに興味はなかった。
つまるところ、復讐を果たすと心が軽くなる。
いままで見ていた景色が色づくとか、明るい性格になるとか、そんな変化はない。
ただの自己満足で、そう変化はしない。
しかし、余裕ができた。他のものに目を向けることが出来るようになって、そこに楽しみを見つけられるようになった。
それはたぶん、良いことだと思う。
変わったのは、それだけだった。
これから先のこと。仕事のことや『木陰』のこと、のんびり考えようとカエリは思った。
こうして、少年の復讐は終わった。
終わって、それから。ここから彼が何をするのか、カエリはこれから考えていくことになる。
ひとまずは、そう。
完全に臍を曲げてしまったアズに謝ることから始まる。