そのに
意識の覚醒とともにひどく脇腹が痛む。
霞がかった視界で見回せば、どうやらここは治療院のようだった。
読んで字のごとく、医者の手が必要なときに運び込まれる場所である。
基本的に、切り傷や擦り傷で治療院に運び込まれるようなことはなく、軽傷であれば自宅療養が常識である。
というのも、医者が圧倒的に足りないのである。医学を学んだ人間は少数で、治療院で働く彼らもまた少ない。なので、重傷を負った人間がいざというときに順番待ちになんてならないよう、腹が割かれた、腕が千切れた、なんて重傷でないと治療院には行かないことが半ば暗黙の了解であった。
ひどく痛む腹を抱えて起き上がると、サイドテーブルには果物の入った籠や、色鮮やかな花が生けられた花瓶など、見舞い品と思われるものが置かれている。
果たして何日寝込んだのだろう。
音を立てて開いた扉の向こうに白い前掛けを身につけた女性が現れて、しばらくカエリと見つめあったあと、彼女はぱたぱたと駆けていった。
間をおいて、医者が入ってきたので色々と聞いた。
なんでも二日眠っていたそうで、小柄な女の子と眼鏡の女性が見舞いに来ていたらしい。
十中八九アズとフロウであろう。
幸いにも、ナイフは内臓を傷つけずに隙間に入り込んだらしく、痛みはするがすぐに退院出来るとのこと。
去っていく医者に礼を言って、刺された場所を撫でさすりながらベッドに転がった。
意識を失う寸前、焼けた村を見た。
あの娘を害することにもはや躊躇はない。父娘ともども殺す。
が、怪我が治るまでは動かないほうがいい。
しばらくは安静にすべきだ、と逸る気持ちを抑えながら、カエリは天井を眺めた。
驚くほどの回復を見せたカエリは、わずか一日で治療院を出た。これも執念のなせる技である。
朝の早い時間に出たためか、まだ人通りは少ない。どうやらこの治療院は行政区画の近くに存在するらしい。
痛みの残る腹になにか入れておきたい、と考えたカエリは、ちょうどいいとアズの働く喫茶店に向かうことにした。
結局あの日は行かなかったし、アズの顔も見ておきたい。
大通りに到着すると、浮浪者が飛び出してきた路地裏に差し掛かって、自然とカエリの表情が険しくなった。
もしまた出くわすことがあったらついでた。あの男も同じ目に遭わせてやる。
が、同時に感謝もしている。
あの男の口が軽かったおかげで吹っ切れたのだ。大総統補佐にまつわるものはすべて、壊してしまえばいい。
だから、あの浮浪者には感謝しつつナイフを腹に突き立ててやる。
「うわ、すごい混んでる」
アズの働く喫茶店『カフェ・マウンテン』に到着すると、カエリは思わず顔を引きつらせた。
店内は全席埋まっていて、店の外にも列が出来ている。
窓張りのテラスから見える店内はずいぶんと盛況なようで、可愛らしい制服を着たウェイトレスたちが忙しそうに動き回っている。
「アズ……」
小柄な、しかし妙に存在感のある愛らしい少女が早足で通り過ぎていくのを見かけて、カエリは行列に並ぶか迷った。
列はざっと二十人以上はいるだろうか。店内の男性客はどうせ可愛らしい給仕が目当てであろうし、長く居座ることを考えると日が落ちる頃になってもまだ並ぶ羽目になりそうだ。
アズには心配をかけた謝罪と、見舞いに来てくれた礼をしたかったが、この調子では無理そうだ。
肩を落として踵を返したカエリの目の前を、見覚えのある馬車が通り過ぎていった。
芸術区画にある御用達のアトリエからの帰宅だろうか。
カエリの表情がいびつに歪んだ
街中ではそう速度を出せないのか、追いつくのは簡単だった。
物陰に隠れながら、がらがらと車輪の立てる音を追うと、行政区画へと入っていった。
区画を守る衛兵に御者が身分証明しているうちに、カエリは彼らに見つからないように路地裏に入り込むと器用に壁を駆け上がって屋根のへりを掴んだ。
屋根に登ったカエリが衛兵に見つからぬよう、まんまと行政区画に入り込むと同時に身分証明を済ませた馬車も入ってきた。
あれだけ立派な箱馬車なら遠くからでもよく目立つ。
行政区画は常に巡回の兵士がいるため、歩き回ることはしないほうがいい。なので、カエリは屋根から去っていく馬車を追いかけることにした。
まさか、屋根から屋根へ飛び移る人間を警戒してはいまい。
兵士の頭上を飛び越えながら馬車を追っていくと、ある門前で馬が止まった。
広大な庭である。
大きな噴水は絶えず水を噴き上げ、周囲の花壇に水を撒いているようである。
一面の芝はしっかりと整えられており、生垣は動物の形に見えるようカットされている。
庭の奥に鎮座する屋敷は、まさに貴族の豪邸と呼ぶに相応しい風格と巨大さであった。
朱色の屋根が目立つ屋敷の扉が観音開きに開いて、中から数十人のメイドたちが出てきた。出迎えだろうか。大げさだと思うのはカエリが庶民だからなのだろう。
徒歩では広すぎる庭を馬車が進んでいく。
辺りに建物がないため、ここからは直接塀を乗り越えて屋敷入るしかない。周囲に人の気配がないことを確認すると見上げるほど高い塀に指をかけて一息で飛び越えた。
生垣に身を潜めながら進んでいくと、馬車から青年執事に手を惹かれる娘が降りてきた。ビンゴだ。名前は確か、フィーリアと言ったか。
輝くような美貌こそかわらないが、どこかやつれた雰囲気だ。
御用達のアトリエで気分を晴らそうにも、以前のことを思い出してしまうのだろう。
肉を刺す感触は嫌でも手に残る。
きっと、苦悩のあまり夜も眠れないのだろう。目元の隈を化粧で隠し、頬を赤く塗っているため傍から見ればいたって健康そうに見える。
屋敷の中に入っていくフィーリアを見送って、メイドと馬車が撤収していくのを待ってからカエリは屋敷に近づいた。
何故か兵士はいない。これだけの規模の屋敷となれば、金目当ての不届き者も現れるだろうに、それらを取っ捕まえる私兵の姿が一つも見当たらない。
外見だけ取り繕って、その実中身は空っぽだ。
おそらく、父娘の関係も同じなのだろう。
が、関係ない。もはや敵だ。邪魔する者は力ずくでもどいてもらう。
まだ日も暮れていないため、どこかの窓くらいは開いているだろう。
屋敷に近づいたカエリは、窓枠の下に身を潜めて指一本だけ伸ばすと窓に触れて横へずらしていく。
わずかに開いた窓から中を見れば、どこかの廊下のようで真っ赤な絨毯と絵画ばかりが見える。幸いにもメイドの姿は見られず、窓枠を越えてカエリは侵入した。
上等な絨毯なのか、足首まで沈んでいってしまう。やや動きにくい絨毯が屋敷中にあると思うとすこしばかりげんなりした。
が、逆に良いこともある。毛が長いおかげで自主的に足音を殺さなくとも良いことだ。他のことに神経を集中できる、というのはありがたい。
長い廊下を角まで進むとこちらに向かって歩いてくるメイドが見えた。
掃除を終えたのか、はたきを片手に廊下の窓を閉めて回っているようだ。
ここで騒がれるのは不味い。
衝動的にフィーリアを追いかけてきたものだから、顔は隠していないし今日治療院を出たばかりで傷も痛む。兵士を呼ばれでもしたら最悪死ぬことも考えて、カエリは先に顔を隠せるものを探すことにした。
それにはまず目の前のメイドが邪魔だ。庭園から拾ってきた小指の先ほどの石を取り出して、メイドの目に映らないよう、かつ天井や壁に当たらないよう力加減を気をつけながら、廊下の天井に沿うようにして小石を投げた。
毛の長い絨毯のおかげで音は出なかった。あとはメイドがあの石に気づけばそれでいい。
しばらく待って、メイドの影が角から覗いた。
楽しげに鼻歌を奏でていたメイドが角から姿を現すと同時に足を止めた。
「やだ、石? お掃除したばかりなのにどうして……鳥が窓から入れたのかしら」
少々メルヘンなことを言って石を拾うため身をかがめたメイドの背後を静かに通って、壺が飾られている棚の陰に身を潜めることに成功した。
小石をえーいと外に投げ捨てたメイドが、角の向こうに消えていくのを見届けると、カエリは立ち上がって探索を再開した。
とりあえず、布がほしい。顔を隠すには紙袋でもいいが、貴族の屋敷に置いてあるとも思えない。
長い廊下を進んでいくと、焦げ茶色の扉を見つけた。部屋に誰の気配もないことを確認してからドアノブを回した。
鍵はかかっておらず、すんなりと開いた扉から身を滑り込ませて部屋を見回すと、そこは小部屋であった。
使用人が止まる部屋なのか、ベッドやクローゼット、小さなソファなど最低限の家具が置かれた小さな部屋である。
内装は華やかではないが貧相でもなく、おそらく客人の使用人を止めるための部屋なのだろう。
真っ白なベッドシーツに目をつけたカエリが素早くシーツを抜くと、手頃なサイズに裂いて半分より上の位置に横一文字の裂け目を作り、顔に巻きつけた。
ちょうど目だし帽のようなものになったシーツの具合に頷くと、残ったシーツをクローゼットに放り込んでカエリは部屋を出た。




