そのご
カビ臭さに顔をしかめたアズは、苛立ったように石畳を蹴った。
月明かりもほんのわずかにしか差し込まない牢獄は日中でも冷たい風が吹き込んでくる。
ここはブロッサ唯一の大監獄。逮捕された犯罪者が例外なく放り込まれる陰気臭い場所だ。
出来心でスリを働いた一般人から、頭のイかれたキチガイ犯罪者まで、罪の重さによって入れられる牢屋が変わるが、アズが目指しているのはそのマジキチ犯罪者が脱獄の機会を窺う地下牢である。
牢の前を通るアズに、騒ぐ囚人はいない。むしろ、彼女を女として下卑た目をねちっこく向ける囚人ばかりである。
国家転覆を図った国敵、街の住人を殺し尽くした殺人鬼、目的はそんな人間ではない。
仕事柄、見られることには慣れているアズでも、この視線の多さと気持ち悪さには苛立って鬼のような形相で睨み返すことがあった。だが、睨まれた囚人は心地良いとばかりに笑って、より下卑た目を向けるのである。
人間っていうより、畜生と見たほうが正しいかな。
同僚の少年はそんなことしないのに、と違いを噛み締めていると、アズは目的の格子の前に到着した。
「はぁい、ご機嫌いかが?」
「やあ、良くも悪くもないかな。しいていえば、眼鏡がほしいくらいだね」
聞き覚えのある声に安堵すると、今度は笑いがこみ上げてきた。
我慢する必要はないとくつくつと肩を震わせると、鉄格子の向こうから憤慨した声が届いた。
「好きでこんなところにいるわけじゃないからっ! そんなに笑わないでもらえるかな!?」
「だって、フロウさんが牢屋ってそんなの、誰だって笑いますよ」
「むぅ」
カエリが研究所を破壊していたとき、別の場所で違う作戦が行われていたのである。作戦は成功したが、おびただしい死体のそばで立っていたせいでフロウはしょっぴかれたのである。
「じゃあ、いまからあけるよ」
フリステンから渡された鍵で牢屋を開けると、フロウが体をほぐしながら出てきた。
「いやいや、手間をかけさせてごめんね。助かったよ」
「いーえ、無事で良かった」
「ぷぷっ、ああいや、ご無事で……ふっ」
「我慢せずに笑ってくれていいよもう!」
囚われのお姫様、いや麗しのお姉様を助けたあと、アズはカエリの待つ図書館へやってきた。
というのも、フリステンから直接のお願いをされてアズはフロウを助けに行った。
フロウにはフリステンの住居へ案内してもらう必要があったのだ。
カエリやアズからの、フリステンへの用事はない。これは、フリステン自らにお願いされたことなのだ。
おかしいとは思う。
わざわざ呼び出されることなどいままでなかった。しかも、フリステンが住む場所はルクスやフロウ、その他数人と、功績を上げているものしか知らない。にもかかわらず、カエリたちを呼び出したのは一体何故なのか。
それをフロウに伝えると、彼女は一瞬だけ寂しそうに笑うと、いつものように丸眼鏡を押し上げた。
「わかった。そういうことなら案内するよ。あまり遠くもないから、いまからでもいいかな?」
「体のほうは大丈夫なんですか?」
「なーに、ほんの数日日の当たらないところに放り込まれていただけだよ。それじゃあいこっか」
変わらず溌剌としているフロウの言葉に嘘はないようで、すぐに図書館を出た。
夜のブロッサをするすると抜けて、三人は郊外にある掘っ建て小屋に到着した。
この小屋の他にも、都市国家となるまえの土地の名残がちらほらと存在しており、どれもが朽ちて崩れるのを待つばかりの建物であった。
どうやらこの辺りは元々大きな農村だったらしい。
壁に掛けられた農具の錆具合を眺めていると、フロウはおもむろに床の一部を引っぺがした。
三人が揃って覗き込むと、そこには梯子が掛けられていて、上り下り出来るようになっていた。
フロウ、アズ、カエリの順番で下りると、朽ちかけの小屋と繋がっているとは思えないほど、清涼な空気が流れていた。
道なりに進んでいくと、いくつか明かりが見えた。どうやら扉があるらしく、フロウが扉を叩くと、中からくぐもった声が聞こえた。
「ん、早速来てくれたのだな?」
カエリとアズは驚いて、床に臥したフリステンを見つめた。
彼女はひどく衰弱していて、人形のような美貌こそ損なわれていないが、やつれた様子で苦しげな表情を浮かべている。
「ああ、これは心配しないで。一年に一度はこうなってしまうんだ。少し体が痛むだけ。とりあえず、好きに座ってくれ」
なにかの持病だろうか、とアズは思っていたが、カエリは違った。彼は恵まれし子供たち(メタリカ)を見ているのだ。
フリステンはただ発育が遅れているだけ、とは考えられず、あの女の子のように何かあったのだろう。
その考えはたぶん、間違いじゃない。
心配そうな面持ちのアズは、フリステンのそばの椅子へ。フロウはその隣へ座り、カエリは部屋に入ったすぐそばの壁に背を預けた。
「世間話をするには辛い。呼び出した理由を話そうか。妾の仇が見つかった。それをお主ら三人に殺してほしい」
「あたしたちが、ですか?」
「うむ。見ての通り動ける体ではなくてな。奴はいまブロッサに滞在している。が、それも時間の問題だ。カエリ、主はあの研究所を見ただろう?」
「……研究員の一人ってことですか」
「ああ」
研究員が集まってなにをしていたのか、なんて予想はつく。
「研究所を崩したとき、結構な数の研究員が巻き込まれたみたいですけど、そいつも一緒だった、ってことは」
「その可能性を見たが、奴は大通りで買い物をしていたよ」
「わかりましたっ、そいつら殺せばいいんですね!」
「うむ、頼めるか?」
「まっかせてください! って、あ……あの、いいかな?」
フリステンに憧れているらしいアズが、カエリたちの意見を聞かずに了承してから我に返ったようで、おずおずと聞いてくる姿にフロウが吹き出した。
「はぁ、笑った。私はいいよ」
「……散々手を貸して貰ったのに断るほど厚顔無恥じゃないつもりなので、僕も」
「そうか。すまないな」
「でもまあ、人手が三人だけっていうのは厳しいね。そこのところはどうなの?」
「心苦しいが、三人だけだ。この前の二面作戦でおおくの怪我人が出てしまったからな。傷を負っていないのはきみたちくらいなんだ」
僕もまだ体が痛むんだけど、とは思ったが、言わなかった。
「んー、まぁそういうことなら仕方ないね。三人でやってみる」
話が纏まって、雑談へと流れていった。
しきりにアズがフリステンに話しかけ、それにフロウが茶々を入れる。きゃいきゃいと姦しい空間に、気まずさを覚える。
ふと、疑問が浮かんだ。
些細なことだったが、聞かずにはいられなかった。
「あの、首領」
「ん?」
「首領にも仇がいたんですね。首領の指令はいつも、罪人を裁くものばかりでしたから、個人的な事情を聞くのは初めてで」
「……そうだな。ことさら隠すつもりはなかったけれど、ね。この体、明らかにおかしいだろう? きみが潰してくれた研究所と同じところにいたんだ。だから、そういう人間は許せないし、許されていいはずがない。そう思ってきみたちを集めた。だが、そう。妾にも仇はいるんだよ」
はじめて、フリステンの目に感情が浮かんだような気がした。
底無しの沼のように、濁り淀んだ黒い感情。
カエリのそれが燃え盛る真紅だとすれば、フリステンは昏い黒だ。
少なからずフリステンの憎悪に煽られて、皆が息を呑んだ。
カエリは人知れずに安堵していた。
首領は正義の味方ではなく、人間だということをはじめて実感として知ったような気がする。
怒りもすれば悲しみもする。
ただただ罪人を裁き続ける人形ではなく、憎しみに囚われた人間であることは、決して悪いことではないのだ。
納得を得られたカエリたちは、仇を探すべくブロッサに戻った。




