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司書さんのお仕事  作者: 水島緑
死遭わせのクローバー
20/43

そのに

 昼前にはアズが喫茶店へ働きに出たので、カエリは一人で昼食の時間にした。


 ありがたいことに、出がけにアズは昼食を作ってくれたので、わびしい食事にはならなかった。


 出来たてで湯気の立つポトフを掬って口に運ぶと、腸詰め肉から漏れた旨味と野菜の素朴な味わいがじんわりと広がった。


 浮かんでいる腸詰めを掬って噛みしめると、焼いた腸詰めとはまた違った味が楽しめた。

 掌ほどの大麦パンをちぎって匙に落とすと、ポトフのスープに浸して噛まずに飲んだ。


 質素だが美味い昼食を堪能すると、カエリは図書館を開けた。


 扉を開けた途端、ひんやりとした風が吹き付けてきてカエリは上着の前を押さえた。


 向かいのアトリエから顔を出していた画家と目が会った。彼は道の先を仕切りに指差しており、そちらを見ると豪奢な馬車がこちらに向かっていた。


 普通の馬よりもふたまわりは体の大きい馬が引いている馬車は、幌馬車など道端の石ころも同然、といった具合な絢爛な箱馬車の両脇には数人の兵士が並んでいて、周りの人間を鋭く睥睨している。


 芸術品を求める貴族がこの芸術区画に訪れることは珍しくない。他の店と違って、芸術品は大通りで扱われることがないので貴族自ら足を運ぶことが多々あるのだ。


 だが、図書館を見ればわかるとおり、この辺りはありていに言って寂れている。奥まった路地ゆえ、場所に困った売れない芸術家が店を構えているくらいだ。


 そんな酔狂な人間の顔を拝んでやろうと、周囲の人間と同じように顔を出すと、ゆっくり進んでいた馬車が目の前までやってきた。


 と、なんと図書館の目の前で馬車が停止した。


 脇に控えた兵士が優雅な所作で扉を開けると、凝った意匠の内装など霞んでしまうほどの美麗さそのものがそこに座っていた。

 白い、上品なドレスは一切の装飾がないものの、それが却って楚々とした雰囲気を押し出している。華奢な肩にはケープが巻かれていて、腕には肘まであるシルクの手袋と、極力露出を押さえた姿だ。

 指を通せば滑らかに流れるであろう銀色の髪、前髪は瞳を隠すように長いが、むしろ謎めいた印象を与えている。目を隠していてもわかるほど、彼女の美貌はまぶしく輝いている。


「フィーリアお嬢様、お手を」

「ええ、ありがとう」


 どこから現れたのか、燕尾服を着こなした目元の涼しい青年に手を預け、彼女は馬車から降りた。


 それだけで空気が変わった。


 銀色に煌めく髪を押さえながら、そっと顔を上げた彼女に誰もが目を奪われた。


 しかし、彼女が降りたのは図書館に面していてた扉ではなく、向かいのアトリエ側へ降りたのでカエリは周囲の目の色が変わったことくらいしかわからなかった。


 せいぜい、場末の人間が知っているほどの有名人が来たのか、という程度である。


 フィーリアと呼ばれた美しい少女は、手を引かれたまま目の前のアトリエに入っていった。


 しん、と野次馬たちが示し合わせたように黙りこくり、一拍置いたあと、隣人と顔を突き合わせてざわめいた。


 カエリにもその気持ちはわかる。フィーリアはどうみてもやんごとなき身分の御方だ。それが、こんな寂れた場所のアトリエに入っていったのだから何かある、と勘ぐるのが当たり前だ。


 悪い冗談か悪夢か、そのどちらかとしか考えられない、と絶望的な表情を浮かべているのは他のアトリエを営む画家たちである。ただでさえ場末の生存競争は厳しいというのに、あそこのアトリエはこれで貴族との良縁が結べるかもしれない。そんなことになればこんなところからはおさらばであるし、一生金に困ることだってなくなる。


 ばたんとアトリエの扉が閉まると同時に、観衆のざわめきは更に大きくなって、カエリは喧騒のあまり図書館へ引っ込んだ。


 その騒ぎはあのお嬢様が帰らない限り延々と続くに違いない。ただでさえ客がこないような場所の図書館だというのに、表の騒ぎのせいで余計客が寄り付かなくなってしまう。


 当のアトリエからすれば人生最大の幸運なのだろうが、近隣で店を開いている他人からすれば妬ましくもあり迷惑でもあり、とっとといなくなってほしいというのが本音だ。


 それくらいひねくれてる人間が多いのである。


 どうにも集中できないので読書も本の整理も放り出してからしばらく経ち、外の喧騒が一際大きくなったことに気づいたカエリが二階の窓から顔を出した。


 お嬢様がお帰りになられるようで、執事らしい青年に手を引かれてアトリエから出てくるところだった。


 店主がその後ろからぺこぺこと頭を下げては目元を乱暴に拭っている。誰がどうみても泣いていた。よっぽと嬉しいことがあったんだろうな、とカエリ含めて周囲の店の店主が睨んでいる。


 アトリエの前に出来た人集りに、たおやかな仕草で驚いたお嬢様が何か執事に耳打ちした。執事は苦い顔をしたが、諦めたように頷いてお嬢様の背後に控えた。


「皆様、このようないらぬ騒ぎにしてしまい本当にごめんなさい。わたくしはすぐに立ち去りますから、ご安心してくださいませ」


 鈴の鳴るような声で、更に優雅に一礼されてしまえば誰も喋れる人間はいなくなる。


 集まっているのは平民ばかりで、やんごとなき身分の人間がこうも見事な所作で頭を下げるところなど生まれて初めて見るのだろう。全員が全員、ぴたりと硬直して動かなくなった。


 カエリとて驚いていたが、それはまた違う理由だ。

 どこからどうみてもあのお嬢様は貴族だ。そんな貴族がたかだか騒ぎの原因になっただけのことでわざわざ頭を下げた。カエリはそのことに驚愕している。


 確かに彼女のような、所謂良い貴族という者も存在するのだろうが、あいにくとカエリは悪い貴族しか知らない。例え良い貴族を知っていたとしても、あれほど礼儀正しく偉ぶらない貴族にまた驚いていたに違いない。


 なんというか、人間としての格を思い知らされたような気分である。


 同じことを野次馬たちも思ったのか、肩を落として散っていく彼らに、お嬢様は不思議そうな表情で見送った。


 かたや、妬みと無遠慮な好奇心こら集まった平民。かたや、自らが騒ぎの原因だと頭を下げる貴族。よほどの馬鹿でない限り、悪いのがどちらかわかるというものだ。


「さ、フィーリア様。このような薄汚いところで長居は無用ですよ」

「こらっシウ! そんな失礼なことを言ってはいけませんよっ」


 やはり、人間が出来ているお嬢様である。


 主人に叱られて嫌々ながら口を閉ざしたシウという執事に手を引かれて、フィーリアという名のお嬢様は馬車へ乗り込んでいった。


 なんともまあ、貴族という存在は台風というか、嵐というか、どんな些細な騒動でも種になりかねないものだな、とカエリは走り去っていく馬車を見送った。


 眼下ではアトリエの店主が我に返った同業者たちに詰め寄られているが、それには興味がなかった。

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