そのいち
ぽっぽー、と気の抜ける鳩の鳴き声に顔を上げたカエリは、ひどく眠そうに目を瞬かせた。
いつの間にか増えていた鳩時計はおそらく館長であるフロウが持ってきたのだろう。日がな一日図書館にいるカエリの目に触れずに時計を設置する意味と技術が謎だが、元からある柱時計よりは音が出るだけ
重宝している。
書物の整理をしていたのだが、中々きりの良いところが見つからずに延々と仕分ける羽目になったのだ。
「火ネズミの冒険シリーズ多すぎだって……なんだよ六百七巻って」
体に炎を纏うことが出来るネズミが主人公だ。小さいが勇気に溢れる火ネズミが、洪水から同胞たちを救い、噴火寸前の火山を鎮め、悪者に攫われた人間の姫を単身取り返すなど、もはや勇者といってもおかしくないほどの活躍をする冒険活劇である。それを夜通し整頓していたのだから体の節々が痛んだ。
どうせ誰もこないし、と一眠りしようと立ち上がったカエリのつま先に、カウンターから落ちかけていた分厚い辞書が落下した。それをぼんやりと見送って、指先に激痛が走った。飛び上がったカエリがそのままカウンターの裏に積み上げられている本の山に背中から落下した。
山が崩され、さながら本の海である。
「……泳ぎたいなら町の外に湖があるけど」
「そういうんじゃないから!」
いつもどおり昼食を持ってきたアズが、冷たい目で見ていた。
切れ込みを入れたパンに、薄くかりかりに焼いた肉とチーズを挟んだ昼食を終えて、カエリが買い置きしている干した果物を切って水に入れた果実水をアズに差し出した。
ほのかに甘い果実水を飲んだアズがそこらに置かれていた本を引き寄せて退屈そうに捲った。
「なに、やることないのか?」
「ん? まーねぇ。ほら、この前の主教からなんにもないからさ」
「相変わらず戦闘狂だね」
「だってさぁ、あたしたくさん戦えるって言われたから“ここ”に入ったのに最近は全然じゃん。もう四日だよ?」
「僕には君が四日も大人しくしてることに驚きだけどね。……どこかの路地裏で誰か襲ったりしてない?」
「失礼な! これでも街中では大人しくしてますぅー!」
「それならいいんだけどね」
本業か副業かわからないが、仕事の性質上普通ではない行動はまずい。フロウに散々言い含められているのでアズも無茶なことはしないが、彼女の過去を知っている分不安になる。実際のところ、普段は不在のフロウがもっとも心配しているのはアズではなくカエリだったりする。普段は大人しく常識的な彼も、仕事中ではいわゆる悪人というカテゴリの人間を見ると殺してしまう癖がある。幸いにも、人目につかない時間帯が仕事の時間なので一般人に見られたことはない。万が一見られていても、顔を隠しているため人相はわからないはずだ。
使った皿をバスケットにいれ、店に戻る準備をしているアズをぼんやり眺めながらカウンターに置いた本を手繰った。
客からの評判が良いだけあって、こうして間近で見ると確かになかなか意匠を凝らしてある制服だ。金持ちの元商人が道楽に始めた喫茶店で働いているアズが制服を着ると、並の女性では比べものにならないほど可愛らしくなる。
フリルやレースなどを使っていない落ち着いた服だが、胸をやたらと強調するデザインが男心をくすぐる。とはいえ、カエリは見慣れてしまっているのでアズがどんな服を着ても驚くことはない。薄い肩が全開で、スカート丈もぎりぎり下着を隠しているような露出な激しい仕事着を何度も見ていればこれくらいは慣れてしまう。
「帰るなら僕も行くよ」
立ち上がったアズをちらりと見たカエリがそう言うと、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あ、送ってってくれるの?」
「まさか。大の男十人に囲まれたって平気だろ? そろそろ新しい本があるか見に行くんだよ」
「むぅ、冷たいなぁ」
ぷくっと頬を膨らませるアズだが、カエリの言った通り大人の男が束になってもどうにか出来るほど柔ではないのである。戦いの残り香が残るから、という理由で普段は武器を携行していないが素手でもなんら問題はなかったりする。
「……じゃあ、送っていくよ」
「本当!?」
溜め息を堪えながら言うと、アズは上機嫌になった。
揃って図書館を出た二人は飲食区画へ向かった。
商業で栄えた都であり、都市国家であるここ《ブロッサ》は、場所ごとに区切って管理している。
例えば、カエリが生活している図書館は芸術区画。ここには絵描きのアトリエや彫刻家、陶芸品などを主に取り扱っている店が立ち並んでいる。アズが働いている喫茶店は飲食区画にあり、そろそろ大通りに進出するのではと噂されている。
区画ごとに管理された店と違って、大通りには多種多様な店が並んでいる。しかし、大通りはいわば一等地であり、並の店では土地を借りることすら不可能だ。大通りに軒を連ねる数々の店は、その全てが有名店であるといってもいい。多額の土地料を支払うことで一月借りることが出来、凄まじい活気の大通りに店を構えることが出来るのである。
さて、飲食区画でアズと別れたカエリは、そのまま区画を抜けると露店区画へ入った。
ここは格安で場所を借りることができるが、その分立地が悪い。だが、町の人間は何かと重宝しており、飲食区画の奥だということも相まって人気は多い。
カエリはいつもここで新しい本を調達しているのである。流れの行商人が激しく出入りするブロッサにはあらゆるものが入ってくるといっていい。よその町ではめったに見ることが出来ない他国の書物も簡単に手に入るので、カエリとしてもありがたい。
が、この収集癖、司書としては優秀なのだが、図書館がいつまで経っても片付かない原因の一つである。一番の原因は人手が足りないことで、二番目の原因は館長のフロウがいつの間にか新しい本を蔵書室に入れていることである。
馴染みの露店に顔を出すと、髭面で武骨な、本とは無縁そうな親父がカエリを見て嬉しそうに笑った。
「よう、いらっしゃい。今日も兄ちゃんが来ると思って新しいのを仕入れてきたんだ。見ろ、こいつは北国で人気の英雄譚だ。ジェロームってぇいやあピンとくるだろう?」
親父が差し出した本の表紙を眺めるが、生憎カエリは他国の文字は読めない。元々、カエリは長閑な農村の生まれで自分の名前も読めず、書けず、というほどの文盲であった。しかし、図書館で司書として働くようになってからは周りが本だらけのために自然と自国の言語は理解しているのである。
「原作、かな?」
「おう、そうだぜ。ご要望通りってことだな。兄ちゃん、他国の本も集めてるんだろう?」
「それはそうだけど、よく揃えられたね」
「まぁな。おっちゃんも捨てたもんじゃねえだろ?」
「そうだね。じゃあ全巻買うよ。いくら?」
「お、太っ腹だねぇ。そうだな、お得意様ってことで重銀貨六枚のところ、五枚と軽銀貨七枚だ」
流通する硬貨の中で二番目に価値のある硬貨だ。持ち合わせはあるものの、他国の本ということを差し引いてもかなり高い。確かに外国のは入手から輸送まで何かと掛かるため、値段がつりあがるものだが、流石に吹っかけられているような金額である。
「ああ、待て待て、言いたいことは分かる。でもまず、こいつ見てくれ」
親父がずりずりと引きずってきたのは、一抱え以上はある木箱だ。蓋のないそれを覗き込むと、先ほど見た表題の本がずらりと、ざっと六十巻ぎっしり詰まっている。
あの火ネズミシリーズとは比べものにならないが、それでも普通の娯楽書物にしてはかなりの量である。
「だから重銀貨かぁ」
「そうそう。これでも赤字ギリギリまで安くしてるんだぜ?」
「んー、じゃあ買うよ。しばらくは来れなくなるけど、まあいいかな」
「毎度ありぃ!」
放蕩館長のせいで図書館の運営を押し付けられたカエリはその見返りとして月の生活費と本代を渡されているため、今月は使い切ってしまったが自由に出来る金は意外と持っている。
図書館まで運ぼうか、という親父の親切を断り、“英雄槍ジェロームの救国譚”の原作がぎっしり詰まった木箱を軽々と抱えて、露店区画から出て行った。
訳本は買わなかった。この国で手に入る本であれば、いつでも買うことが出来る。だが原作は違う。司書本人が読めない本を置くのはどうかと思うが、あらゆる本が集まる場所が図書館だと、カエリは気にしていない。
飲食区画で有名な《カフェ・キャニオン》で忙しそうに動き回っているアズをしばらく見守ってから図書館に戻ったカエリは、早速買ったばかりの本を棚に並べてはじめた。
三階層もあり、広さだけは一等な図書館には空きっぱなしの本棚が数多く残されており、カエリはそれを国別で分け、更にジャンル別に分けている。おかけで虫に喰われたようにスカスカだが、少しずつ本棚が埋まっていく様子はなかなか満足感が得られるものだ。
北国ベルロームの棚に買ったばかりの本を詰めて一人満足感に浸っていたカエリだったが、しばらくすると蔵書室へ入って篭ってしまった。
日が傾きだした頃に出てきたカエリは、両手のカゴに山積みの本を抱えて図書館を回っていった。
どうやら、留守にしている間に館長のフロウがやってきて本を置いていったらしい。片付けたはずの場所に本の山が再び出現していたときは気が遠くなったものだが、黙々と本棚に詰めていく。
両手のカゴがすっからかんになったとき、図書館の扉が開いてベルが鳴った。
またアズか、と思ったカエリが視線を遣れば、見たことのない少女がそわそわと落ち着かない様子で図書館の中を見回していた。
「うわ、人だ……」
驚愕に思わず呟いたカエリである。それほどに寂れているのだ。
カゴを揺らして全速力で階段を駆け下りると、客らしい少女が驚いた顔でカエリを見た。
「りょ、料金は軽銀貨一枚になります」
「あ、司書さん……これ」
「確かに。閉館まではまだまだ時間がありますから、ごゆっくりどうぞ。本館は国別に棚が分かれているのでご所望の本があればそちらから、それか僕に声を掛けてくれれば探しますので。写し用の紙はこっちのカウンターから。鉛筆も同じところにありますから」
あまりに久しぶりな利用者だったため、怪しい接客でまくし立てたカエリはカゴを戻しに奥へ引っ込んだ。
赤毛の少女はそれを不思議そうに見送ってから、言われたとおりに紙と鉛筆を持って本を探しに行った。
ここの図書館はそれこそ、図書を納めておく場所だ。国営ではないため入場料は高いが、閉館まで何時間でも、粗悪ながらも紙も無料で受け取ることが出来るのでどんな本でも書き写すことが出来るので悪くないのでは、と司書は思う。
蔵書室の扉からこっそりと赤毛の少女の様子を窺うと、壁に取り付けられた分類プレートを見上げて本を探している。どうやら本当に図書館の利用者らしい。
「……すごいな、何ヶ月ぶりだ?」
半年前にカエリがここで働くようになって、来館した利用者の数は両手の指で数えられるほどである。
束になるまで書き写して売ろうとしていた学者崩れ、好奇心でやってきた子供、本を盗みにきた泥棒、他にもいたがろくな人間ではなかったはずだ。それを考えると今回の利用者はかなりまともに見える。
燃えるような赤毛は南国の人間によくみる特徴だ。足首まである長衣は上質そうで、例えるなら南からきた商隊のお嬢さんといったところだ。
純朴そうな顔つきは真剣に据わっており、じっと手に取った本を読んでいる。
書き写すための机はあっても椅子はないので、中腰にならなければいけないのがこの図書館の欠点だ。館長には何故か椅子を仕入れることを拒絶されるので司書としてはどうすることも出来ない。
しばらく赤毛の少女を物珍しげに眺めていたカエリだったが、我に返ったようで蔵書室の整理に戻った。
煩雑にまとめて木箱に押し込まれている本の背表紙をさっと確認して、それぞれのジャンルごとに分けていく。時たま、図鑑サイズの書物が紛れていて、重く大きいものだから分別するのにも一苦労である。
そうして分けた本をカゴに積んで、蔵書室から出て本棚に入れていく。赤毛の少女はカエリにも気づかずよほど集中している様子だ。それを好ましく思いながら黙々と手を動かしていると、鳩時計が鳴った。
驚いて顔を上げた赤毛の少女が時計を見ると彼女は大慌てで本を棚に戻した。
カウンターに歴史書を広げているカエリに声を掛けた。
「ご、こめんなさいっ。夢中になってしまって……」
「大丈夫ですよ、閉館時間も少し過ぎただけなので」
「そうですか……あ、私帰りますね」
「またどうぞ」
ばたばたと慌ただしく走り去る少女の後ろ姿を見送って、カエリは図書館の扉に鍵を掛けた。
翌朝のことだ。
いつもと同じ、太陽が中天より手前になる頃に図書館の扉を開けたカエリは、目の前に立つ人影に大層驚いて危うく殴りかかるところであった。
落ち着いてみれば、昨日の赤毛の少女が立っている。どうやら開館を待っていたらしい。そわそわと落ち着かない様子は昨日と変わらず、カエリは思わず苦笑した。
「昨日の。ちょうど開けるところなんで、どうぞ」
「あ、はい」
ごそごそと懐から銀貨を取り出してカエリに渡すと、少女は急ぎ足で昨日と同じ本棚の前に立った。
ずいぶんと熱心なので、一体どんな本を読んでいるのか気になったカエリは、両手のカゴに本を積んで彼女の後ろを通った。
植物図鑑であった。書き写すための紙には幾つかの植物の絵が描かれていて、数行ほど文字が書き込まれている。
ほんの一瞬のことだったために詳しいことはわからないが、通り過ぎたカエリは眉を顰めている。
――あの植物は確か、全てが毒草だったはず。