そのご
バロウズが追いかけている女性を自分も追いかけてみよう、と考えはしたが、具体的な手段はなにもない。なので、基本的には待ちの姿勢でなんらかの情報が入るまで大人しくしていることにした。
そうしているうちにスズランの女性が捕まり、処刑されてもそれはそれで仕方が無い。是が非でも結末を知りたいというわけでなく、今日も止む気配のない雨を睨みつけながらカエリは窓を閉め切った。
雨が降るとカエリの仕事が増える。本の整理の他に、本が黴びていないかの確認作業もしなければならない。基本的に閉め切っている蔵書室の本は平気だが、本棚に入っている書物は一冊ごとに確認する必要がある。もし黴びていれば隣の本にうつらないうちに処分する必要がある。が、なにぶんこの確認作業が大変なのだ。
本棚に空きがあるとはいっても、本の数は膨大だ。表紙、背表紙、裏表紙、とそこだけを確認しても時間は掛かる。本の中身まで確認するとなると倍以上だ。
休み休み確認して、それだけで一日過ぎてしまった。
結局誰一人として利用客のこない図書館を閉めて、わびしい夕食を終えると、カエリは仕事着に着替えた。
単なる思いつきだ。昨日の女性に会えれば御の字だ、と気分は散歩がてらである。
仕事着の上から雨具を被って、カエリは外へ出た。
流石に連日連夜復讐しているとは思えないので会うことは期待していない。
屋根に飛び乗り、ぽつりぽつりと明るい貴族区画を見遣ってカエリはそちらへ向かう。明かりの下だと見つかる可能性が高まるが、わざわざ雨の中を見上げる酔狂な人間はそういないだろう。
地面を歩くよりも早く貴族区画へ到着したカエリは、巡回中の兵士を見つけた。
「でよ、例の連続殺人あるだろ? 俺、犯人見ちゃったんだよね」
「ばっかおめえ、それを俺に話してどうするんだよ! 騎士様方に話さないと意味ねえって!」
「落ち着けって。もうとっくに話した後さ。だからこうして飲みに連れていってやってるんだろ」
ブロッサでは現在、子供を狙った連続殺人が起きているということは以前から知っている。特に気にすることはなかったが、どうにもその件に昨夜の女性が関わっているようだった。もしかすれば良い話を聞けるかもしれないと、カエリはその二人の兵士を追いかけることにした。
手の中で銀貨を弄びながら歩く兵士はどうやら素行が良くないようで、巡回中にもかかわらずこれから飲みに繰り出すらしい。
「おう、ごちそうになるぜ。で、で、どんな奴だったんだ?」
「それがよ、俺もすっげえ驚いてさ。なかなか綺麗な姉ちゃんだったんだ。まだ若くて、正直信じられなかったけど、首に刺青があってよぅ。騎士様に話したら間違いないって大喜びだったぜ」
「へえ、じゃあもう捕まるんだろうな。どこの騎士様でも手柄が欲しいみたいだし、こぞって追いかけるんじゃあそのねーちゃんもおしまいだわな」
「俺もそう思ってたんだけどよ、これがまったく見つけられないみたいでよお……正直、さっさと捕まってくれねえと騎士様がおかんむりで近づけねえよ」
「あー、だから俺んところの騎士様も顔真っ赤にして怒鳴ってたのか」
その後も騎士への愚痴が続き、二人が酒場に入るまでカエリは屋根から二人を追い続けた。
「まだ捕まってないか……」
どれほどの人員が投入されているのかはわからないが、兵士から逃げ続けることは一般人では難しい。あのスズランの女性はどうも、同業者に似た匂いがする。そうでなくとも、身のこなしは素人ではない。
出来れば彼女の行方を知りたいが、そう簡単に見つからないだろう。
貴族区画から芸術区画へ戻る途中、必死の形相な兵士が十人ほど駆けていくのを見かけて、急遽追いかけることにした。
気づかれないように追いかけながら耳を傾けると、兵士たちは人目をはばからずに怒鳴りあっている。
「どうして見過ごしたんだ! どやされるのは俺なんだぞ!?」
「言っただろう!? 首の刺青を隠してたんだよ! お前こそ勤務中に酒なんぞ煽りやがって! どうせあの女が目の前を通っても気づかなかったんだろう!?」
「ちょ、ちょっと止めてくださいよ! これで逃がしたらそれこそ大目玉喰らいますって!」
険悪な雰囲気漂う兵士たちは今にも殴り合いでもはじめそうな空気だった。年若い兵士がなんとか諌めようとするが、ヒートアップした兵士たちには届かなかった。
それを眺めながら彼らを追いかけていくと、進行方向に明かりが見えてきた。カンテラの灯りのようで、このまま進むのはまずいと懸念したカエリは一旦屋根から降りると建物の影に身を隠して兵士たちを見送った。
「なっ……お、おい、しっかりしろ! 何があった!?」
「あ、あの女だ……俺たちは足止めに来たんだが、あの女、とんでもなく強え……」
カンテラの灯りのなかでは、数人の男たちが地に伏しながら呻き声を上げていた。慌てて抱き起こした兵士たちは、胸元をざっくりと斬られたらしい男に顔をしかめた。
「くそったれっ、俺たちでどうにかなる相手じゃなかったんだよ!」
男の傷の具合を見ていた兵士が泣きそうな表情で叫んだ。
「うるせぇ! それでも男か! 勝てなくで俺たちが捕まえなきゃ、罪のねぇ子供たちが殺されるんだぞ!? わかってんのか!」
年長の兵士が叱咤し、続けて他の兵士に指示を出す。怪我人と同じ人数を手当てのために残し、他の兵士には辺りの警戒を命じた。
「女はどこへ向かった!?」
「あ、あっちだ……」
男の指差す方向を睨んだ年長の兵士は周囲を警戒していた兵士たちを呼び戻すと追跡を再開した。
それを見送って、残った兵士に見つからないように迂回しつつ追いかける。屋根に飛び乗り、兵士たちを追いかけていく途中で街のあちこちに灯りが浮かび上がっているのが見えた。
おそらく、兵士の大部分を動員しての捜索なのだろう。にわかに騒がしくなった夜の街に、住人たちも何事かと家の明かりをつけて外を気にしているようだった。
「いたぞー!」
という叫び声が遠くから響き、カエリは足下の兵士たち同様にそちらへ視線を向けた。
カンテラの灯りの中には、髪の長い女が一人、多くの兵士と一人の騎士に囲まれている。
目を凝らしてみれば、あの女は間違いない。スズランの女だ。
騒ぎの中心ぎりぎりまで近づいて見下ろすカエリは、どこか焦燥のようなものを感じた。
もう、捕まってしまうのか。
もしかしたら、カエリは彼女に自分を重ねはじめたのかもしれない。
復讐者という同じ立場。そして、復讐の途中だという彼女に。
こんなところで終わってしまえば、自分も同じように志は半ばで朽ちてしまうのではないか、そう考えてしまう。
いまの彼女とカエリの場所を入れ替えても違和感はないのだ。それだけに、カエリの共感はもっとも高まっていた。
しかし、カエリに彼女を助けることはできない。その行動が『木陰』の露見に繋がってしまうかもしれない。それを思うと、カエリは一歩も動けなくなった。
彼女はただの他人だ。奇妙な出会い方こそしたが、関わりはない。だが、『木陰』は違う。あそこがなくなってしまえばきっと、カエリの復讐は果たせなくなる。首領の持つ情報網が頼りなのだ。
歯噛みするカエリの内心に関係なく、事態は動いた。
次々と増援が集まって自らを囲う輪が大きくなっているのに、彼女はまったく顔色を変えなかった。
自然体のまま、彼女はふらりと足を出す。すると、いつの間にか兵士の包囲の一部に、スズランの女が割り込んでいた。彼女はそのままふらりふらりと進んで、ついには囲いから逃れてしまった。奇妙なことに、兵士たちは誰もいない包囲の中心を睨み続けている。
「すごい……」
俯瞰していたカエリだからこそわかる。あれは幻惑の一種だ。方法こそわからないが、兵士たちの目にはいまも自然体の女が微動だにしていないように見えているはずだ。
感情を変化させず、それこそただ道を歩くような何気ない感覚で、彼女は兵士たちを欺いたのだ。
腕力任せも良いところのカエリには決して真似出来ない熟練の技である。
みるみるうちに遠ざかっていく気配はカエリでは追えないほどの速度で消えていった。
彼女が捕まらなかったことに安堵しつつ、カエリは引き返した。