そのさん
分厚い曇天が完全に空を覆い隠してしまっていて、まだ昼を少し過ぎたばかりと言うのに辺りは薄暗くなっている。
図書館の蝋燭に火をつけて回ったカエリがカウンターに戻ると、読みかけの本を開いた。
軍式格闘のノウハウが書かれた写本である。ひと昔前の技術なので、流出してしまっても特に咎められることはなく、カエリもつい興味を引かれて買ってしまった一冊だ。
確かにひと昔前というだけあって、技術的な武術ではなく、精神論を多分に盛り込んだ喧嘩術のようなものである。
関節を極められたら自ら折って不意をつけ、などという目を疑うような記述もまれにあるが、受身の取り方や拘束時からの反撃など、ためになる内容もあったが、よくも悪くも昔の本であった。
特に目を引いたのは、現在も利用されている捕縛術である。末端の兵士から彼らに指示を出し街を守護する騎士まで習得している技術である。
町の外から派遣されてくる騎士には帯剣が許されているが、兵士は町周辺から徴兵された農民や町民なので木の棒くらいしか持たせてもらえない。そのため、緊急時や武器が手元にない場合に捕縛術が大切になるのだ。これを習得しているだけでもだいぶ違ってくる。
カエリがこれを読んでいる理由はひとえに、捕縛術を習得出来ないか、目論見があるからだ。
カエリが習得した技術は殺すためのものだ。捕縛術は生かして捉えるための術なので、仕事内容によっては有用かもしれない。
殺人に忌避がないとはいえ、無闇に殺したいわけではない。勢い余って殺してしまうことが多く、フラッペンの私兵たちも数人殺してしまったくらいだ。
得物を選ばないという特性上、徒手空拳のカエリでも学べば扱うことが出来る。
しばらく読み耽っていると、窓を叩く音がした。どうやら雨が降ってきたらしい。
慌てて立ち上がったカエリが出入り口を閉めようと駆け寄った。
道ゆく人々も慌てて走っていくのがよく見えた。
ふと、目の前を通り過ぎた女性の首元に花の模様が見えた気がして、カエリはその背中を見送った。
身長は女性にしては高めだ。髪は長く、バロウズが話した事件関係者の特徴と合致する。ただ、彼女の首元にあった花の模様。意識の外にあったせいでかろうじて花の絵柄だということは判断出来たが、スズランかどうかはいまいちわからない。
とうに見えなくなってしまった女性の行き先をじっとみつめ、しばらく考え込んだカエリは図書館に戻った。
関わるべきではない、と理性が囁いている。無闇に騎士に近づくのはやめておいたほうが良い。そう判断した。
ただ、見極められなかった花の絵柄がしこりのように気になり続けている。
雨に降られた。
盛大に舌打ちをしたカエリは、懐に紙袋を突っ込むと軒下を駆け抜けていく。
せっかく晴れたというのにすぐにこれだ。ここ一週間は雨が降っていない時間のほうが珍しい。そんな珍しい時間に、カエリは本を買ったのだが、帰り道で雨に降られたのである。
不幸にも、本を買って露店区画を抜けた直後に降ってきたため、図書館にはまだ遠い。到着するまでに本が濡れてしまうことを危惧して服の中に避難させたが、この雨の量では全身びしょ濡れになって本もダメになってしまう。
そこで思いついたのは、アズの働く喫茶店『カフェ・キャニオン』に雨宿りすることであった。
ちょうど飲食区画を通りかかっていたこともあって、多少服が濡れるだけで到着することが出来た。周囲の店には、カエリと同じ考えの買い物客が軒下に駆け込んでいる。
ふと、彼らの中に昨日の女性がいないか確認してしまったが、そう都合良くはいかなかった。
もうすぐ大通りに移転するという話の通り、『カフェ・キャニオン』は大盛況であった。この店の売りはそこそこの値段で美味しいお茶が飲めることと、何故か可愛らしい店員がよく集まっていることなのだが、リピーターの大半が男性客ということから鑑みると後者が最大の理由なのだろう。
山をイメージしたらしい外装は思いのほかファンシーで、まったく険しくは見えない緩やかな山、というイメージである。ブラウンの屋根の半ばを山頂に見立て、屋根のてっぺんは白く染められている。雲と雪を表しているようだ。ごてごてしい装飾はないが、シンプルで可愛らしい店の作りが、器量の良い女の子を集める一因なのかもしれない。
なお、店長は店に似つかわしくないほど厳めしい大男である。髪も眉を剃っていて、近づきたくない風貌をしている。独身である。
「いらっしゃいませー!」
と、華々しい声に出迎えられてカエリはがちがちに固まった。ほとんど毎日顔を付き合わせているアズが働いている場所だが、片手で数えるほどしかここには足を運んでいない。加えて、普段静かかつ人のいないところで生活しているせいか、やや人見知り気味になりかけているカエリからしてみれば、年若い女の子からにこやかな笑顔を向けられるだけで意味もなく焦ってしまうのである。
「お一人様ですかー?」
「え、あ、はい」
「それではこちらへどうぞー」
忙しなく動いている店員たちを見て、アズに会いにきた、とはいえなくなった。案内されるままに一人用の席に腰掛けたカエリは、手渡されたメニューを眺めるふりをしてアズがいないか探した。
やたらもこもこした椅子に驚きながらアズの姿を探すが、どうやら今日はキッチンのほうで調理担当をしているらしい。
アズの料理の腕前はカエリがよく知っているため別段心配はしていないのだが、彼女が裏方だと会いに来た、という建前はこの盛況ぶりの中では無意味だろう。唸りながら別の理由を考えていると、胸を強調する制服を着た店員が近寄ってきた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「え、あ、あーっと、じゃあ今日のオススメで」
「かしこまりました」
咄嗟に店前のボードに書かれていた文字を思い出した。
カエリが頼んだのは店長がオススメする料理と飲み物の組み合わせである。日替わりや店長の気分で組み合わせが変わり、値段も幾分か安いセットなので困ったらこれを頼めばいい、とアズが言っていたのを思い出したのである。
今日は確か、パンケーキと紅茶だったはずだ。
ちょうど小腹が空く午後の時間ということもあって、雨宿りを兼ねた客もどんどん増えている。
しばらく待っていると、店の奥からトレーを抱えたアズが出てきた。どこにいくのだろう、とカエリが見つめていると、彼女はまっすぐにカエリの元へ向かっていた。
「お待たせ致しました。本日のオススメになります」
普段の快活な様子とは違う、楚々とした仕草である。あの無邪気はどこへやってしまったのか、とあんぐり口を開けっ放しにしてしまうほど、カエリの衝撃は大きかった。
呆然とアズを見上げるカエリにウインクのサービスまでして、アズは笑った。
「もう少ししたらお客さんも減って休憩になるから、ゆっくりしていってね?」
「あ、うん」
「それと、見惚れるのは構わないけど、冷めないうちに食べてよね!」
去っていくアズの後ろ姿をぼんやりと見つめていたカエリは、あそこまで変わるものなのか、と普段とのギャップに驚いた。
冷めないうちに、とアズが、いっていたのを思い出してカエリはぼんやりとパンケーキにナイフを入れた。
甘いパンケーキはすぐに食べ終わってしまった。やや口に残る甘さだったが、濃い目の紅茶を飲むことで綺麗に洗い流すことが出来る。むしろそれを狙ってセットにしているのなら狙い通りだ。
もっちりとした歯応えに腹も膨れ、つい食べるほうに夢中になり、すっかり冷めてしまったカップの中身を飲み干してポットから新しい紅茶を注ぐ。
かなりゆったりと食べていたのだが、未だに喫茶店の中は盛況だ。しかしそろそろ夕飯の時間ということもあって、新しく入ってくる客はいないようだ。
店内が落ち着きはじめると、遅い賄いを交代で食べ始める店員たちを遠目で眺めながら、カエリはアズを待った。
そろそろ紅茶も飲み終えてしまう。
と、思った矢先に目の前に新しいポットと、カエリが食べたパンケーキが置かれて視線を上げると、少々くたびれた笑顔のアズが椅子を引きずってやってきた。
「お疲れ」
「うん……疲れたぁ」
くたっ、とテーブルに突っ伏してしまったアズだったが、どうやら店は休憩の時間らしく、店長が表の看板を仕舞い込んでいる。
頬杖をついてアズの後頭部を眺めるカエリに、上目遣いのアズが元気のない声で言う。
「……撫でてくれてもいいんだよ?」
「はいはい、よく頑張りました」
髪が乱れないように優しく叩いてやると、アズはだらしない笑みを浮かべてくすぐったそうに震えた。
「今日はキッチンのほうだったんだ」
「そうだよ。料理出来る子はみぃんなキッチンでお仕事。ずっと料理だったから疲れちゃった」
「随分と繁盛してるみたいだけど、アズを見てる限り忙しいことがあんまり良いことだとは思えないね」
「図書館が人で溢れてもほとんどやることないと思うよ……?」
「まあ、料金受け取って説明するだけだしね」
もっとも、その説明部分に手間取るのだが、それは言わなかった。
ふるふると頭を振って撫でることを要求するアズに応えながら、カエリは店内を見渡した。店員は皆休憩を取るようで、アズの知り合いかつ、何度か店に顔を出しているおかけでカエリがいても特に言われることはなかった。皆が皆、くたびれた様子でテーブルに突っ伏して呻いている姿は、彼女たちを目当てにやってくる客には到底見せられないものだった。
「みんな、お疲れ気味だ」
「うん、今日は雨宿りのお客さんも多かったからねぇ。ようやくみんな休憩だよ」
身を起こしてもそもそとパンケーキを頬張り始めたアズだったが、一口飲み込んだところで力尽きてテーブルに頬をくっつけてしまった。
「ううっ、お腹空いたのに動きたくないよぉ」
確かに、ナイフとフォークを持つ手がふるふると頼りない。ひたすらに調理し続けていたのか、いまにも取り落としてしまいそうだ。偽りなしに辛そうなアズをみて、カエリは苦笑を浮かべながら彼女の手からナイフとフォークを抜き取った。
小さくパンケーキを切り分け、皿の隅に盛られているクリームを少量塗りつけると、カエリの行動を不思議そうに見つめていたアズの唇に突きつけた。
「ほら、口開けて」
「え……」
「腕が上がらなくても食事は摂らないと。ますます疲れちゃうよ」
「う、うん」
ぎこちなく頷き、恐る恐るアズは口を開いた。差し出したフォークの先のパンケーキがアズの唇に隠れると、ゆっくりフォークを引き抜いて次のパンケーキを切り分けた。
二人は、周囲の視線に気づいていたが、どちらもやめようとはしなかった。
生温かい視線を集めるなか、カエリはアズにパンケーキを食べさせていった。食べ終わって紅茶を飲み干しても、二人の顔は真っ赤だった。