そのに
「やあ、奇遇だな。図書館の少年」
「あ、昨日の騎士さん」
背後から声を掛けられたとき、カエリは文字通り飛び上がるほど驚いた。
今日は久しぶり晴れたので買い出しに大通りに足を運んでいたのだが、突然声を掛けられたので振り返ってみれば昨日ぶりのバロウズ・グルスリッドが軽く手を上げていた。
「今日もお仕事ですか?」
「いや、今日は休暇なんだ。鎧を脱いで町を歩くのは少し久しぶりで妙な感じだよ」
どれだけ仕事漬けなんだ、と危うく漏らすところだったが、目の前の青果店の野菜を手にとって堪えた。
まさかこんなところで遭遇するとは思っていなかった。自分の運の悪さを呪いながら、隣に並んで果物を眺めるバロウズにちらりと目を遣る。
と、あれだけ混んでいたのに周囲に人の姿はなくなっていた。誰もが遠巻きにバロウズを眺めていて、決して近づこうとしない。
いつもこれなのか、と驚愕し、一般人にも感じられるほどの威圧感を常時撒き散らしているバロウズに呆れた。と、そこまで考えてカエリは気づいた。
バロウズの近くにいて平然としているのはおかしいのだ。現に、周囲の人間はバロウズの隣にいてなんともないカエリをじろじろと見ている。
さっと血の気が失せた。
これではかえってバロウズの気を引いてしまうじゃないか!
おそるおそるバロウズを見ると、彼は爽やかな笑みを浮かべている。その表情に、カエリは下手を打ったと眉を寄せた。
しかし、よく考えてみればカエリはバロウズに対して疑われるようなことは一切していない。むしろ、昨日のやりとりでバロウズの心象はだいぶ良くなっている。
騎士を前にして少しの動揺も見せなかった。あまつさえ、雨に濡れた騎士を招き入れて布さえ渡している。やましいことがあれば騎士を招き入れる、なんてよほどの度胸がなければ出来ない。大半の人間ではぼろが出るようなことばかりカエリはしてきたのだ。
つまり、いま現在のカエリは、身の潔白を示した司書なのである。
そのことに思い当たったカエリは、いまここで怪しげな行動をするのはまずいと感じてすっとぼけることにした。
特になにも感じてないですよ、という顔でバロウズにうそぶく。
「騎士さんも買い物で?」
「せめて休暇くらいは自分で食事の用意がしたいからな」
「あれ、ご結婚はなされていないんですか? 騎士さんなら引く手数多だと思うんですけど」
「はは、残念ながら独り身だよ。いまは仕事のほうが大切だし、しばらくは一人かな。そういうきみこそどうなんだい? 昨日の彼女とは?」
「あはは、あの子は最近知り合ったばかりですから特にはなにも。というか、僕では釣り合いませんよ。喫茶店の看板娘ですしね」
さきほどまでの言葉とは違って、これは本心だ。色恋沙汰にうつつを抜かすつもりはない、という本音もあるが、アズに関してはただの友人として接している。
「そうか? なかなか似合っていたようだが……。む、話し込んでいるうちに品切れになってしまうな。どうだろう、これも何かの縁だ。一緒に飯でも食べないか? 手作りになるが、ご馳走するよ」
「あー……嬉しいんですけど、僕は図書館を見ていないといけませんから、また今度ということで」
「む、そういえば一人で回しているのだったか。ならば無理は言えないな。では、またの機会に」
「はい」
すっかりと打ち解けてしまった様子にカエリは拍子抜けした。やはり、普通に話してみれば気の良い好青年という印象だ。それが鎧を着ればがらりと変わるのだから、人間は不思議だ。
「いや、それよりも何やってるんだろうな、僕」
慌てて買い物を再開したが、欲しかったものが数点、手に入らなかった。
おのれ狡猾な騎士め、などと八つ当たりしてもなんにもならなかった。
買い物を終えて、カエリは図書館に戻ってきた。
思いのほか、バロウズとの会話は精神をすり減らしたようで、知らずに溜め息が漏れた。
ここ数日は毎日のようにアズが遊びに来ていたため、自分一人だけの図書館は久しぶりだった。連日の雨のせいでアズが働く喫茶店ももれなく営業休止になっていたが、今日は透き通るような快晴なので無事喫茶店は開いていることだろう。忙しくなるから今日は来れないかも、と朝一番に律儀にも告げにやってきたアズの言う通り、昼を過ぎても図書館にはカエリ一人しかいない。
なんとなく物足りないのは、連日朝から夜までずっとアズと共にいたせいだろうか。寂しがっている自分に気づいて、カエリは少しばかり身悶えした。
気を取り直して、カエリはまたしても増えている蔵書室の本を片付け始めた。
連日の雨は季節が変わる合図だ。温暖期と寒冷期との変わり目にはよく雨が降る。雨が止めば次第に肌寒くなっていき、雪こそ降らないものの、吐く息は白く染まり、氷点下を下回ることもある。
約半年ブロッサで暮らして来たカエリに、やってくる寒冷期は始めてだった。西の隣国セブリナは一年を通して温暖期だったため、暑さには慣れているが寒さには耐性がない。一年の半分以上が寒冷期で、辺境には雪も降るという東の隣国アルタスに一度だけ足を運んだことがあるが、寒さというものはなかなか厳しかった覚えがあった。
寒くなってもアズの仕事服は変わらないのかな、と考えながら、カエリは静かに手を動かし続けた。
「あ、洗濯物干してたっけ」
日が落ち始めて蝋燭に火をつけていたカエリがふと呟いた。ちょうど図書館を閉めようとしていたので鍵を掛け、離れの庭の物干し竿にぶら下がったままの衣服を回収した。
「アズがいたら怒られてたかな」
共に暮らしているわけでもないのに、家事全般を任せっきりにしてしまっていることに反省しながらカエリは離れに戻った。
今晩の夕飯はカエリ自ら作ったが、どこか味気ないというか、食べなれないというか、あまり美味しいとは感じられない微妙な食事だった。