善悪の境目
利用者がいない図書館というのは、ひどく静かだ。
もともと騒音厳禁ではあるが、それにしても人気があるのとないのではずいぶんと変わる。
半年ほど司書をしてそれを学んだカエリは、いつものように眠そうな表情で年季の入ったカウンターに頬杖をついていた。
活気のある表通りから遠く、図書館は街の片隅で門を開けている。
利用者は極端に少ないものの、その蔵書数は近隣の街でも一番と館長が自慢げに話していたが、それだけは確かなようである。
しかしながら、利用者が少ないにもかかわらず、閑古鳥が鳴いているような図書館がちっとも閉館する気配がないのはなぜだろうか。カエリは常々疑問に思っているが、館長がやばい橋を渡っているとしか考えられない。
そんな事実はないと館長は笑っていたが。
数えるだけで一苦労な本は、未だに整頓されていない。それどころか、地下の蔵書室に無造作に積み上げられていて、本棚に入れられていない本の数のほうが多いくらいだ。
この図書館は建造されてから数百年は経っているが、慢性的な人手不足のせいで本は溜まる一方でまったく整理されないのである。たった一人の司書や館長が細々と整頓しているが、日々本の山は高くなる一方であった。
蝋燭の火がいくつも灯る蔵書室。やや埃くさいここには保管された本が適当に放り込まれており、客のこない図書館の司書をしているカエリの仕事はもっぱらここの整理であった。
うず高く積まれた本の山を切り崩し、背表紙を眺めてからジャンル別の籠に入れる。まとまった数が出来れば次はそれを本棚に入れていく。それを繰り返しながらあくびを漏らしたカエリは受付の向こうにある柱時計を見て作業の手を止めた。
ちょうど、昼時である。
「カエリーっ! ご飯持ってきたよ!」
「アズ、ここ図書館なんだけど」
開けっ放しの扉から元気良く飛び込んできた少女は、近くの喫茶店の制服を着ている。
カエリの小言を無視して手に持ったバスケットを押し付けると、適当な椅子に座った。
「いいじゃん、誰もいないんだしさ」
「図書館でうるさくするのはマナー違反だよ。まぁ、お昼にしようか。アズは食べた?」
毎日のように大声で入ってくるアズに頭を痛めながら、適当な注意だけして諦めたカエリがバスケットに目を向けた。
「ううん、まだだよ。一緒に食べよ?」
「そうだね」
薄暗い蔵書室から出て、二人はカウンターに向かい合って座った。アズが座る分の椅子を引っ張ってくると、彼女は既にバスケットを開けて底の浅い木皿を出していた。
「じゃじゃーん! 今日はミートパイです!」
「今日も美味そうだね」
「えへへっ、少し頑張ったんだ!」
四角いミートパイを手際良く二つに分けると、それぞれを皿に移し替えて早速食前の祈りを捧げた。アズの祈りを眠そうな表情で静かに眺めていたカエリだったが、祈りの言葉を続けるアズが責めるような目で見てきたので目を逸らした。
この街の住人は信仰深い人間が多いのである。よそから来たカエリはそうでもないが、他国の商人がよく出入りするここでは、旅と商売の無事を祈ることは当たり前のことで、それらに影響されたのか、信心のない人間はほとんどいない。
「もー、カエリもここにきて半年近いんだからそろそろ慣れないと」
「こればっかりはどうにも肌に合わないんだ」
とはいえ、アズが特別信仰深いわけではないことを半年の付き合いでカエリは理解している。むしろ、アズは一切神を信じていない。それはカエリにも言えることだが、アズが形だけとはいえ街の気風に合わせていることを不思議に思っている。
暖かいミートパイを突きながら、ふとカエリは口を開いた。
「そういえば、そっちはどうなの? この前痴漢されたって騒いでたけどさ」
「あ、あの件は解決したよ。店長がぶちのめして出入り禁止にしてくれたからねー。手間が省けちゃった」
感謝しないとねー、とお気楽なアズに呆れたカエリは、むしろそれだけで済んで良かったかも、と内心考えていた。
なにせ、
「店長が手を出さなかったらあたしが殺してたしねー」
などと平気で呟くくらいなのだから、その心根がよくわかるというものだ。
実際、アズの整った容姿と朗らかでのほほんとした言動は邪な心を持つ客に大人気なのである。そうでなくとも、同僚には可愛がられて小動物的な扱いをされているのだから、痴漢程度は頻繁に現れる。
容姿には無頓着のカエリも、セミロングの明るい栗毛は艶やかでよく手入れされているとわかるし、小さな輪郭に優しげな目鼻立ちは確かに美少女である。
が、アズの真の気性を知っているのは街の中でカエリくらいなものだ。
苛烈で残虐、敵対者には容赦しない少女。その容姿には似つかわしくないが、それが事実である。
しかしながら、平時は器量の良い女の子なのでカエリとしても適切な距離感で付き合うことは嫌ではなかった。
なにより、アズとカエリは同じ境遇であるのだから当然と言えば当然だ。
同族であれば互いを嫌悪するか気が合うかのどちらかだが、二人は後者であった。少なくとも、こうして昼食を届けてともに食べるくらいにはアズのほうも好んでいるということだ。
「館長さん、今日は一緒に来るんだっけ?」
「そう言ってたね。館長がわざわざ動くなんて珍しい」
カエリが司書をする図書館の館長のことだ。普段は図書館におらず、あちこちをふらふらしているので
名ばかりの館長であるが、その腕はカエリとアズの二人掛かりでも数分持つか、といったほどである。
「それだけ大物なんじゃないの? ほら、お貴族様のときはついてきたし」
「いや、ベレウス教団の主教だって話だよ。信者から集めた寄付金を使って豪遊してるとかなんとか。炊き出しすらもしないって有名だしね」
「そのくせ他の宗教は邪教、だもんね。出自は詐欺まがいで稼いでた商人なんだから、上手くやったもんだねー」
ベレウス教団は巷で話題の新興宗教である。教団の教えは至極単純で、善行に励めば死後は天国へ行けますよ、というものである。しかし、その実態は善行はつまり金銭や物品の寄付であり、宗教組織というよりも詐欺組織といったほうが正しい。
その上、金を集めるためならばどんな悪辣なことでもすると有名で、運悪く目をつけられてしまえば家
族を盾にされることから始まり、骨の髄まで搾り取られてしまう。
「その分たんまり溜め込んでるから、僕らに狙われるのは当然だよ。あれは外道だ」
カエリの目に憎悪の苛立ちが見え隠れして、アズがにんまりと笑った。
「んふふ、楽しみ」
篝火の灯りがぽつりぽつりと点在する夜の街を駆ける二つの影があった。
闇に溶け込むような真っ黒のローブを身に纏い、口元まで襟で隠してフードを被ったいかにも怪しい格好のカエリと、胸を強調するが露出が抑えられた可愛らしい制服から一転し、ノースリーブの極短ワンピースを着込んだアズが一路、ベレウス教団の支部へ向かっていた。
新興宗教ながらその資金集めの手腕は確かなようで、国中のあちこちに支部を設けているベレウス教団である。その主教がこの街に滞在することは願ってもないチャンスであった。
「館長さんはやっぱり現地合流?」
「うん、手紙にはそう書いてあったよ」
じゃら、とアズの腰元から聞こえてくる鎖の擦れる音を気にしながら、カエリは屋根から屋根へ飛び移った。
昼間話していた計画が実行されているところである。二人は現地で合流する予定の館長と共に、主教が宿泊している教団支部を襲撃するつもりだ。
別段、二人に緊張する様子は見られず、常人を超越した身のこなしは手慣れさえ見えるほどだ。
実績はある。二人はそれぞれ、数え切れないほど同じようなことをしている。その上で、カエリとアズのコンビはしっかりと連携が取れているという理由で二人一緒に仕事をすることがあるのだ。
「流石に昼と同じわけないか」
念のため偵察に行ったが、そのときは槍を持った僧兵の見張りが二人ほどしかいなかったが、いまでは十分な篝火を焚いた上でかなりの人数を揃えている。正面から突破することも不可能ではないが、わざわざリスクを侵す必要もない。
かなり大きい教会だ。高い塀に囲まれている。この街には他にもいくつかの教会があるが、それはこじんまりとした小さなもので、ベレウス教団のそれとはまるで違う。自らの資金力を見せつけるような教会だ。
だが、大きければ大きいほど隙間というのはできるものだ。
巡回中の僧兵をやり過ごした二人は、音を立てずに塀を飛び越えると教会の敷地に入り込んだ。
「さてと、館長はどこだ?」
「やあ、お疲れさん。時間通りとは感心感心」
辺りを睥睨していたカエリの肩がぽんと叩かれた瞬間、飛び退きながら身構えると、長身の女がにこやかに手を振った。
丸眼鏡に色気のない普段着の上下、更には裾が擦り切れた外套と、とても図書館の館長には見えない格好だが、れっきとした館長である。
名は、フロウ。
溜め息を漏らしたカエリがフロウの切れ長の目を睨みつけると、その隣で肩を震わせるアズの鼻を強く摘まんだ。
「気づいてたなら言ってくれよ……!」
「いたたたた、ごめっごめんって!」
フロウがいることに気づいて隠していたアズの鼻をダメ押しとばかりに弾いて、カエリは肩を落とした。
「バレたらどうするんですか……」
「まぁまぁ、カエリくんはそんなヘマをしないだろう?」
「嫌な信頼のされ方ですね……!」
にやにやと笑って丸眼鏡をくいと押し上げると、フロウは一変して真面目な表情を浮かべた。
「ざっと見て回ったけど、中々警備が厳重でね。僧兵も多いから主教の部屋に一直線っていうのは難しいかな」
既に敵勢力の分析を目で見て終えているフロウだが、カエリもアズもまず疑わない。なにせ、いままでだってそうだったのだ。フロウ一人でも警備を突破し主教を殺すことが片手間で出来る。少なくとも、フロウはこの一件をカエリとアズに経験を積ませるためのものとしか思っていない。
「だったら、陽動かな? 館長さん、お願いしてもいい?」
「ああ、もちろん。正面で暴れてくるけど数が多い。手早くね」
「うん」
まるで買い物に行くかのような足取りで去って行ったフロウを横目に、カエリとアズは教会へ向かった。
直後、何やら遠くが騒がしくなって、二人は木の裏へ身を潜めると教会へ目を遣る。すると、泥だらけになった二人の僧兵が教会へ駆け込み、しばらく経つと槍や棍を抱えた僧兵たちが数十人ほど駆けてフロウの元へ走っていった。
これで大部分の僧兵はいなくなったはずだ。最低限の警備は残っているだろうが、主教の護衛程度だろう。
無人の教会へするりと侵入した二人は礼拝堂のベンチの背に隠れて辺りを窺った。やはり、誰もいない。
慎重に、しかし素早く奥へ走り、居住スペースになっている教会裏の建物に繋がる廊下を駆け抜け、一気に三階へ。
やはり炊き出しすらせずにせっせと金を集めているというのは本当のことらしい。装飾過多な内装は悪趣味の一言だ。それだけ金があるのなら、信者を獲得するために使えば今よりも資金が手に入るかもしれないのだが、どうやら主教は商人としても落第のようである。
「三人だ。アズ、きみは二人を」
「任せて」
階下から見上げ、三人の僧兵がやたら豪奢な扉を守っているのを確認すると、カエリが囁いた。
十分な下見と教会の間取りを覚えた二人に主教の寝室を特定することは難しくない。
じゃら、とアズが腰元から外したのは小柄な彼女の腕ほどの太さがある鎖だ。鋼鉄製の鎖の先端には、同じく鋼鉄製の分銅が取り付けられており、振り回せば相当な破壊力を撒き散らすことが出来るが、その分扱いは難しい。
しかしアズはそれをまるで己の手足のように操ることが出来た。
階下から目標まで五十メートルほど。アズは手元で何度か分銅を回転させ、勢いをつけたところで手を離した。
鋭い風切音と共に、鎖がまるで遠隔操作されているかのように階段を舐めるように低空で飛んでいく。これだけ低空であれば僧兵たちに気づかれることもなく、一直線に向かっていった。
まずは足を狙うのか、と思いきや、アズが軽く鎖を引くと分銅の軌道は大きく変わり、ぐっと上を向いて逆放物線を描くと僧兵の顎を粉砕した。驚くほどの技量にカエリは好戦的な笑みを浮かべた。
その瞬間、カエリが階段を駆け上っていく。
アズは続けて二人目の僧兵に分銅の軌道を曲げると、くずおれる同僚に目を剥く僧兵の首に巻きついた。
素早く鎖を引いて頚椎をへし折ると、アズはのんびりと鎖を手繰りながらカエリを眺めた。
しかし、カエリをゆっくりと眺めている間はほとんどなかった。
残った僧兵に一息で接近したカエリは、鳩尾に拳を叩き込んで僧兵が思わず前屈みになったところを、顎先に渾身の一撃を叩き込んだ。その衝撃は凄まじく、僧兵は体勢を崩すどころか吹き飛ばされ、あげく首が半回転している。
「ひゃー、すっごい馬鹿力」
「はいはい」
何度も見ているだろうに白々しい、とカエリは取り合わず、さっさと目的の部屋へ入ってしまった。慌ててアズが追いかけると、すぐに成金趣味極まりない部屋に辟易とすることになった。
金に物言わせて買いあさったであろう高級調度品の数々、壁には大金を積んで描かせたであろう己の肖像画が掛けられている。
「ねえカエリくん、こんなに格好良かったっけ?」
「まさか。多少“盛って”描くのが絵描きだよ。まあ、多少どころではないけどさ」
二人は確認のため本人を見たことがあるのだが、肖像画に描かれている人物とはまるで似ていない。
たるんだ顎の線はすっきりとしているし、突き出た腹はどんなマジックを使ったのか引っ込んでいる。
肖像画が体格の良い美中年といったところであるのだが、実物は醜く肥え太った豚が二足歩行しているようなものだ。
声を我慢して肩を震わせているアズに呆れた目を向けた。
「いつまでも笑ってないで行くよ。外も静かになってる」
「くふふっ……はぁー、おもしろ。さっ、行こっか」
陽動のフロウが引き上げたのだろう、外は騒ぎは落ち着きを取り戻している。こうなれば僧兵たちが戻ってくるのも時間の問題だ。笑いを引っ込めたアズが表情を消して寝室の扉を開けた。
ぐっすりと眠っている。
いくら教会から離れているとはいえ、まるで我関せずで眠っている。危機感がないのか豪胆なのか、どれだけ人に恨まれているのかも知らずに呑気なものである。
腹を出して寝ている男の元へカエリが足音なく近づくと、そっと右手を脂肪の塊のような首に添えた。
寝室の出入り口にはアズが待機しており、万が一のために控えている。だが、ここまで来てカエリがヘマをしないであろうことはコンビを組んで長いアズがよく知っている。
悪人には鉄槌を。そこに慈悲はなく、確実にその命を奪い取る。
ごきり、と生々しい音が腕を伝う。
今まさに、目の前で悪徳宗教の主教が死んだ。
カエリの指が首を握り潰したのである。
死んだ主教を一瞥すらせずに、カエリは寝室を漁り出した。
アズもそれに続くと、間も無く大金の詰まった袋がいくつも見つかった。ほんの数日滞在する予定にしてはずいぶんと持ち込んだものである。本部のほうにも相当額溜め込んでいるであろうと、他の人間が回されているという話を思い出して、カエリとアズは呆れ返った。まさに金の亡者である。
金で重い袋を抱えたカエリを後方に、アズが先を歩いて危険を潰す。が、まだフロウの陽動が効いていたので二人は苦もなく教会から抜け出すことに成功した。
主教の突然の死に、お零れを受けて手を貸していた構成員たちはあっさりと教団から姿を消した。もとより、信者など存在していないベレウス教団は急速に廃れていった。
神の名のもとに金を集めていた不届きものの集団であるベレウス教団が消えたのは神の裁きだと敬虔な信者は声高く叫んでいた。しかし、現場検証した騎士によれば、明らかに人の手で殺されていたとのことで、恨みを買った誰かに殺されたのだろうと決着がついた。
ベレウス教団は悪であり、それを裁いた人間は善だ。市井の民はそう思う。だが、騎士からすれば主教を殺した人間は悪で、騎士たちは善だ。しかし、教団に対して何もしてこなかった騎士は果たして善と呼べるのだろうか。
カエリには関係ないことだった。
廃れたべレウス教団の教会は打ち壊され、アフターケアを兼ねた歴史のある宗教が後釜に座ったのは予定調和に似ていた。
ベレウス教団を崩壊に導いたカエリとアズの二人は、変わらず過ごしている。
カエリは司書として。アズは喫茶店の人気店員として。
神出鬼没に現れては暗殺者よりも先に始末する。それこそ、どこにいても、だ。
そんな彼らを同業者たちは密かにこう呼んだ。
ありとあらゆる場所に現れる、まるで場所を選ばない木のようだ。そして、その裏に潜む奴らは『木陰』だ、と。
各章ごとに投稿します。
章が終わるまで毎日更新し、一旦更新をやめて次の章が完成したら投稿を再開します。
気長にお待ちいただければ幸いです。