ルネの心配
低い天井は、一日中灯されたランプの炎で煤けている。
窓もない部屋の三方の壁際には本棚が組まれ、数百冊の本で埋め尽くされていた。
本棚に囲まれるように置かれた古い机に向かい、ルネはじっと目を閉じている。
眠っているのではない。
考えているのだ。
天の渦から落ちてきた男のことを。
アオシ・チグサという男のことを。
アオシは、魔法のない世界から来たという。
だから、魔法はろくに使えない。
ろくに筋肉もついていない身体をし、年齢は42才。
アオシの世界とこの世界の1年はほぼ同じらしいから、ルネより15も年上だ。
そんな男が冒険者を目指すという。
無謀だ。
無謀すぎる。
ルネもクリムトも、そしてカシルまでもが、そう言ってアオシを翻意させようとしたのだ。
だのに彼は、気弱そうな笑みを浮かべながら、ついに意志を曲げることはなかった。
この世界の人間は、誰でも一種類だけの属性魔法を使うことが出来る。
そこに例外はなく、二種類以上の属性魔法を使った者は、有史以来存在しない。
ただ、属性魔法以外の特殊な魔法を使える者が、数百人に一人の割合でいる。
遠くの物を見るとか、姿を消すとか、その内容は様々だ。
ルネがアオシに使った魔ヶ珠も、そんな魔法で加工されたものである。
魔ヶ珠に知識を刻む魔法――――。
使いどころは限られるが、とても有用な魔法だ。
そして、天の渦から落ちてきた者は、全ての者が特殊魔法を持つという。
アオシは、何か戦闘に有利な特殊魔法を持っているのかも知れない。
だったら、彼が冒険者になるのを、少しは安心して見ていられるのだが。
特殊魔法についてアオシにカマを掛けてみたのだが、何も分からないって表情を返されただけだった。
まだ、ルネやクリムトを完全に信用していないのかも知れない。
たった1人で見知らぬ世界に紛れ込んだ者としては、当然のことだろう。
ルネにしてみれば、魔力の強さが権力に直結するこの世界において、自分と同じように闘争とは無縁そうなアオシに強い親近感を覚えている。
が、それをアオシに分かれと言うのも、また無理な話だ。
実は、ルネはある大貴族の長男である。
将来を嘱望されて生まれた彼であったが、5才のときに水魔法の使い手であることが判明してしまった。
他者を倒すことに適さない水魔法の持ち主は、強くなることがとても難しい。
それでも、ルネを愛する両親は、部下たちを使って、あらゆる努力を惜しまなかった。
槍、弓、剣の鍛錬を強いたのはもちろんだが、部下にケモノを捕獲させてきて、ルネに殺させまくったのだ。
それは戦闘ではなく、ただの屠殺だった。
四肢を荒縄で拘束され、抵抗できないケモノたちを槍で突き刺して屠る毎日。
幼いルネは心を磨耗させながら、その日々に耐えた。
全ては、両親の期待に応えるために。
強力な水魔法の使い手となるために。
が、弟の誕生により、全ては崩れ去る。
ルネ9才、弟が5才のとき、弟の所持魔法が火であると判ったのだ。
火魔法とて、よほど強化を積まないと、ネズミ1匹焼き殺せるようにはならない。
しかし、自分の筋力の強化に使えば、ごく短時間とは言え、もともとの数倍のパワーを発揮することが可能なのだ。
これは、戦闘の際には大きなアドバンテージとなる。
水魔法だって、身体強化に使えない訳ではない。
心臓や肺の働きを高め、血流を良くし、疲労しにくい状態を保つことが出来る。
が、戦闘に役立てるには弱い。
農作業等の長時間労働に向いた能力と言えよう。
弟が火魔法の使い手と判るや、ルネに向けられていた労力の全てが、あっさりと弟に向けられることになった。
ルネは用なしとなり、野に下される。11才のときだ。
その日より、親元からの捨て扶持を頼りに、彼はカシルに育てられてきた。
「4年間、来る日も来る日もケモノを殺してきた僕だって、まだ水魔法だけでケモノを殺すことは出来ないんだ。
治癒だって、切れた指1本をつなぐのが関の山だ。
この世界は甘くないんだぞ、アオシ――――」
片や、当の青志と言えば、ドキドキしながら初の狩りに出たところだった。
その姿は、見かけだけなら冒険者らしく、丈夫で分厚い布地の上下を着、革の軽鎧が胸から腹、股間をカバーしている。
籠手は剣道の道具そのままの形状で、ケモノの牙を通さぬよう、堅い革製だ。
そして、その手には1本の手槍。長さは2メートルほどで、鋭い穂先がついている。シンプルだが、殺傷力の高そうな一品である。
青志の身を案ずるクリムトが同行を申し出てくれたが、やんわりと断った。
他人の目があると、ゴーレムを使えないからだ。
北門をくぐると、いよいよ狩りの始まりである。
今日の一番の目的は、新たなケモノの魔ヶ珠のゲットだ。
手駒は多い方がいい。
門から離れると、鷹とネコのゴーレムを呼び出す。
鷹は上空から、ネコは地上で獲物を探し始める。
ゲームのように、そこいら中を獲物がウロウロしている訳ではないのだ。
実際のところ、初心者なら1日でウサギ2匹ぐらいの戦果があれば上出来らしい。
そして、それぐらいの戦果が平均的にあれば、一応食べていけるようだ。
鷹ゴーレムがウサギを見つけた。
ひとけのない草原をピョコピョコ跳ねる姿は、地球のウサギとまるで変わりがない。
ちなみに門の北側は、ゴブリンが出る可能性が高いせいで、冒険者たちの人気は低いそうだ。
だからこそ、青志が狩り場に選んだのだが。
知識として覚えたばかりの身体強化を使い、ウサギに近づいていく。
身体が少しばかり軽くなると同時に、視力も良くなったようだ。もしやと思ってメガネを外してみたら、ちゃんと見えた。
「おお?もしかして、メガネいらず?」
中学時代から手放したことのなかったメガネから、ここで卒業だ。青志は10秒ばかり、感動に打ち震えた。
「てな事ばかりも、やってられないからな」
手槍を構えたまま、ウサギのいる場所に小走りを始める。
と。
ピクッと身を震わせたと思うと、ウサギが猛ダッシュで逃げてしまう。
「あれ?」
ゲーム感覚で無造作に近づいてしまったが、現実の動物は人間が近づくと逃げるものだということを失念していた。
「これって、思った以上に難易度高いんじゃ・・・?」