オレンジジュースとカフェオレ
旅行鞄一つと寝袋しか置いてなかった作業部屋に、突然宅配便でベッドが届いた。俺の関知しない現象だ。だが誰の仕業かは容易に想像が付く。
「雹子、お前荷物取りに帰っただけだろうが。何でベッドが届く?」
宅配の兄ちゃんが帰った後、俺はこめかみに青筋を立てつつ、スーツケースを引っ提げて戻ったヤンデレ女に聞いた。
「ベッドも荷物ですよぅ。一人で運べないから業者さんに頼んだだけで」
「居座るのは昼間だけにしてくれねぇかな……。親御さんも心配すんだろ?」
半ば諦めながらも、もう一度交渉を仕掛けてみる。
結局昨日は押し切られてしまったのだ。かなり不本意だったが、商売の邪魔をしないことと、恋仲ではないというのを弁えて行動することを条件として、まぁ気の済むまでここを出入りする許可を出した。下手に突っぱね過ぎると、こっちが条件を出す前に、勝手に居座られる羽目になるからだ。それなら早いうちに譲れない境界線を決め、妥協案を出した方が良い。それにちょっと優しい?言葉をかけただけで食らいついてくるということから、雹子はかなり惚れっぽい性格と見た。ヤンデレメイド喫茶で客に優しくされたら、すぐに離れて行くだろう。そう踏んだのだ。
「大丈夫です。昨日帰ってから、好きな人と同棲しますって報告しました。そしたら心配どころか、"やっと雹子を恐れない男が現れたのか"って、父が泣いて喜んでましたよ」
「俺はお前の彼氏じゃないだろう。親父は誤解してんじゃねーか」
「嘘は言ってませんよぉ。勝手に誤解されただけです」
シレッと言った雹子は、さっさとスーツケースを作業部屋に運んだ。
「な……何なんですかぁぁっこれは!」
作業部屋から叫び声が響き、俺はしてやったりと鼻を鳴らした。
「何って、当たり前だろうが。お前の立場はルームメイトだ。プライバシーを守るために壁を作っただけだ」
「そんなぁ……これじゃ一つ屋根の下で王道、かつR指定なハプニングが起こせないじゃないですかぁ!」
「お前が起こすのかよ! やっぱり仕切って正解だったな」
雹子が荷物を取りに戻っている間、俺はぼうっとしていたわけじゃない。ゴミ捨て場にあったダンボールを持って帰り、それを広げて組み合わせ、入り口から丁度半分に部屋を区切るように壁を作ったのだ。窓側はもちろん俺のテリトリー。窓なしの方は雹子。届いたベッドをそっちに押し込むと、足の踏み場もロクにない。
「私の方、暗すぎますぅ……」
「蝋燭でも灯しとけ。その分家賃はまけといてやる」
しばらく不満げに頬を膨らませていた雹子だったが、俺がそんなぶりっ子に乗らないと悟ると、渋々スーツケースをベッドに上げた。
雹子の荷物整理が終わり、俺達二人は昼飯を食っていた。さすがにベッドの上に閉じ込めたままは可哀想だから、いつも客の注文を受けている広い方の部屋で、一緒に食っている。俺は朝からダンボールの壁を作って疲れていたから、軽めにサンドイッチとオレンジジュースを、下のコンビニで買った。
「お前、よくそんな組み合わせを平気で……うわ、見てるだけで気持ち悪りぃ……」
雹子が選んだ昼飯は、カツ丼とカフェオレだった。それを交互に口へ入れるのだ。たまにカツ丼を飲み込み切る前に、甘ったるいカフェオレを流し込む。味を想像してしまい、俺は顔をしかめて彼女から目を逸らした。
「そうですかぁ?まあ確かに混ぜて美味しくなる組み合わせではないですけど。カフェオレが好きなんで、別にカツ丼と混ざっても気にしません」
「美味くなるわけじゃないならやるなよ……」
「食事の時はこれしか飲みません。お茶なんて味気ないですよぉ。あ、そうだ、巧さんが今持ってるオレンジジュースを飲んだ直後にカフェオレを飲むと、どんな味になると思いますぅ?」
聞いてくる雹子の顔はニヤニヤしていて、ロクでもないことを考えていそうだ。とりあえず無視を決め込む。
「ええ~分かんないんですかぁ?」
「……」
「答えはですねぇ、カフェオレ飲む瞬間に"うっ"ってなった時の胃液風味なんですよぉ! ほれほれ……」
「……うぅっ!」
聞いただけでも気持ちが悪いのに、雹子は面白がって俺の鼻先にカフェオレをチラつかせた。今まで飲んでいたオレンジの爽やかな香りに、突きつけられたカフェオレの匂いが混じり、本当に胃液が込み上げてきた。
「あれ? 匂いの特殊能力持ってるのに、匂い自体には弱いんですかぁ?」
「ひょぉぉこおおぉぉ!」
ふざけたヤンデレ女の顎を、俺は怒りに任せてガッシリ掴んだ。
「うががっ!いはい、いはいれそ~(痛い、痛いですぅ~)!」
「……お前も……味わえぇっ!」
俺は空いた方の手で飲みかけのオレンジジュースを構える。
「ああ! ほんあ、あんへはげひいかんへふきっふ~(そんな、なんて激しい間接キッスぅ~)!」
「黙れ!胃液に塗れるがいい!」
そしてペットボトルのオレンジジュースを、間抜けに空いた口へ流し込み、間を置かず雹子の手にあったカフェオレも同様に流し込んだ。
「うげらぉわぁ!むぉげぇ!」
顎を離してやると、口の中が胃液風味なのだろう、雹子は意味不明な叫び声を上げて、のた打ち回った。気分は昨日漫画喫茶で読んだ、除霊のシンポテを持つ主人公だ。
「ふん……思い知ったか」
「ゲフゲフッ……初キッスはレモンの味らしいですけど……初間接キッスは胃液の味なのですね……ぽっ」
こ、懲りてねぇ……。強すぎるぞ、こいつ。
「……もういい。今後食事の時に胃液話は一切禁止だ。分かったな?それから、ここにいる間は、俺やお前の能力のことを、シンポテと呼べ。」
「し、しんぽてぇ?」
「特異な潜在能力、シンギュラリティ・ポテンシャルの略だ。お前さっき、"匂いの特殊能力"って言っただろ?そうじゃなくて、匂いのシンポテと言えってことだ。お前の場合は気配のシンポテだな」
「……なんでまたそんなことを?」
不思議そうに聞き返した雹子に、俺は胸を張ってニヤリと笑った。
「異能とか特殊能力とか、ありきたりな言葉を使うのはつまらねぇ。ただのこだわりだが、ここは俺の住処で、お前は後から入ってきた新参者。ここのルールは俺が決める。今決まったのは、食事の時の胃液話禁止と、シンポテの活用だ。文句あるか?」
「まあなんて……俺様なのぉ! またキュンと、しぃちゃぁいましたあぁぁ!」
また妙なところでスイッチが入ったらしく、雹子は青白い顔で寄って……いや襲ってきた! 慌てて逃げる俺!
「うわっすぐ興奮すんな! 気配がでかくなってるぞ! 」
「そぉれぇもぉル~~ルですかあぁぁ?」
「そ、そうだ! 今すぐ気を静めろ! 無になれ!」
ヤンデレ怨霊はそこでようやく気配を収めた。また壁際まで追い詰められた俺は、危機一髪だった。
「酷いですぅ。無になったら幽霊みたいじゃないですか」
「いや、今のはまんま怨霊だったぞ……。とにかく、今日決まったルールは3つ。言ってみろ」
「えっとぉ、ご飯の時に胃液の話をしないぃ、シンポテを使うぅ、やたらと興奮しないぃ、ですか?」
「そうだ……」
胸をなで下ろそうとしたその時、コンコンコンッとドアがノックされ、外に人の気配を感じた。
「すいませーん。」
聞こえた呼び声は、イントネーションが少し訛った女のものだった。今日の予約は夕方からだ。一体誰だろう。
「はぁい、どちら様ですかぁ?」
俺より先に雹子が答えた。
「新聞いりませんかー?」
やっぱり微妙にイントネーションがおかしい。標準語を無理矢理使っているように感じられる。
「今主人が出かけててぇ、分かりませぇん」
おい、お前と結婚した覚えはねぇぞ。何勝手に言ってやがるんだ。
「……そーですかー。ほなまた来ますー」
雹子のセリフで危うく聞き逃しそうになったが、新聞屋の営業らしき女は最後に、完全な関西弁を使って去った。
「怪しいな……」
「え?さっきの人ですか?」
「ここは標準語圏だぞ。関西弁の新聞屋なんて怪しすぎるだろ。頑張って標準語喋ろうとしてたみてぇだが……」
「うーん、転勤してきたばっかとか?」
新聞屋の営業は地元の個人委託がほとんどだ。転勤なんて聞いたことねぇ。
雹子はあまり気にしていないようだが、関西弁の女に、俺は思い当たることがあった。