囮のみかん
餓鬼の名前は藤間美夏。友達からはみかんと呼ばれているらしい。
彼女がビルとビルの間をふんわり飛び越え、スローな月面宙返りで着地したのが、どういったシンポテなのかは、本人もよく分かってないらしい。学校でふざけて遊んでいる時、誤って階段から落ちかけ、その時体が浮いて助かった。そこから自由に浮くことができるようになったという。
最近ハマっているのは、ラピュタごっこ。序盤にシータが飛行船から落ち、飛行石によってふわふわとパズーの所に舞い降りる、あのシーンだ。簡単に言えば、高い所から飛び降り、シンポテを使って仰向けになりながら、下にいる友達の所にゆっくり落ちていき、友達が腕を差し出したらシンポテを解いて一緒に倒れ込む、という遊びだ。さすがに女の子同士では、パズーのように抱えることはできないようだ。
そしてみかんが妙な技を使っても、大人と違って友達は気持ち悪がらないらしい。女子高生の適応力は半端ない。
「今から敵のボスに連絡する。さっき雹子が話した派閥と潜入の事情は、絶対に喋るなよ」
「分かってるって。アタシ、スパイごっこする時はめっちゃ口堅いで。難攻不落のみかんって言われてんねんから。今まで何回もこちょばし拷問に耐え切ってきてんでぇ」
餓鬼の癖にシュールな遊びをしやがる。胸を張るみかんは、絶対七佳と同じタイプだ。
「……先に言っておくが、ボスはすっげぇイケメンだ。しかも表向きの人当たりも良い。惚れ込んで寝返ったら、危険に晒されても放っておくし、行方不明になっても捜してやらねぇぞ」
「お、……男前拷問かぁ。それは未知の領域や……。鞭には強くても飴には……いやいや、頑張るわ。男は顔やないってお母さんも言ーてたし」
なんとも心許ないが、ぐずぐずしている時間はない。
七佳達にはさっき雹子から動くことを連絡させた。俺達が才田の部屋に行ったり街へ繰り出している間、あいつらは社長に携帯のGPSをキャッチする機械の手配をしてもらい、万が一に備えて待機しているのだ。
俺は逸る気持ちを抑え、通話ボタンを押す。
「…………、おぅ、見つけたぞ。……ああ、高校生だ。…………、知らねぇよ、年齢制限のことは言ってなかっただろ。その代わりやる気は満々だぜ。親の許可も取らせた。今からそっち連れてくからな」
後半畳み込むように喋り、返事も聞かずにブチッと切った。やはり才田は未成年のところで少し戸惑ったようだが、強引に押し切った。出来る限りみかんから目を離さないつもりだが、もし学校や親から苦情があった時は、ボスの才田に責任を取ってもらおう。
そうして俺達はみかんを連れて、富利異盟損のビルへと引き返した。
会社で才田と会い、一言二言交わしたみかんの反応は、拍子抜けするくらい薄いものだった。女子高生には受けないのかと思って聞いてみると、「顔はタイプでも、なよなよした標準語が気に入らない」と言う。俺の場合は上品な言葉遣いじゃないから良いらしい。褒められているのか貶されているのか、よく分からない評価だが、一応嫌われてはいないようだ。
社長は七佳から事情を聞いているから、本来はない短期の学生アルバイトとしてみかんを登録した。
因みに竹内力をパクった社長を見たみかんは、「ダサッ!」の一言で切り捨てた。餓鬼は正直過ぎて恐ろしい。ショックを受けて絶句する社長は、普通の情けないオッサンに見えた。
そしてそこからは、俺が想像するだけでも血の気が引く、例の検査の時間だ。俺は腕を押さえて出てくるみかんを必死で見ないようにした。
「はぁ~、採血って気持ちええなぁ。癖になりそうやわ」
「……」
「……血を抜かれたのにですかぁ?」
喉の奥がムカムカしてきたから、相手は雹子に任せ、だんまりを決め込む。
「抜かれたからやん。学校の先生に献血が趣味の人がおってな、授業中の雑談で、献血すると血が新しく作られて、結果自分の血が綺麗になるって言ーててん。何かさっき抜かれた瞬間、スカッとして生まれ変わった気分やったわ」
「そんなに早く血は作られませんよぉ」
「まーまー、物の例えや。献血って16歳からいけるやんな? 今度やってみよっかなぁ。先生は表彰状貰うくらいやってて、腕が注射の跡だらけやねん。だから毎年夏になって半袖着ると、覚せい剤打ってるって勘違いされて、警察に職務質問されるらしいで。薬中ちゃうけど献中やからしゃーないわ。アハハハッ……あれ、お兄ちゃんどうかしたん?」
横でダラダラ血と注射の話をするな! と叫びたかったが、吐き気がして叶わなかった。
「みかんさぁん、人にはそれぞれ苦手なものがあるんですぅ」
「へ? もしかして注射? 先端恐怖症?」
「さぁ、どうでしょう。とにかく、ナイーブな人なんで、巧さんの前でこの話は遠慮してくださぁい」
「難儀なお兄ちゃんやな。しゃきっとしぃ! 別の取り留めのない話したるわ」
背中をみかんにバチッと叩かれ、自分のヘタレさ加減を再確認する。
結果が出るまでの間、俺達は社長室で待つことになった。社長は今、隣の部屋で遺伝子を調べている。
みかんは言ったとおり、かなりぶっ飛んだ馬鹿話を、"取り留めのない話"と称して喋り続けた。登場人物はみかんの周りの人間や、通りすがりの他人なのだが、こいつらのやる事成す事話す事が、コント並に弾けている。それでも作り話でも芸人でもなく、一般人のノンフィクションだというから驚きだ。雹子なんか笑い過ぎて引き付けを起こしそうになっていた。
そうして1時間程経ち、俺の気分もすっかり回復した頃、社長が検査結果を持って出て来た。
自分に掛かる重力を自在にコントロールする。これがみかんのシンポテだった。
「えー! じゃあこれからダイエットせんでも、身体測定の時、体重軽くできるやん」
「……嬉しいか? 実際肉が減ったわけでもねぇ、見た目も変わらねぇっつーのに」
「ううっ、それもそうやな。よぉ考えたら、そないに嬉しないわ……」
別に痩せる程太ってねぇのに、この辺の感覚は東京の女子高生と同じらしい。
興奮気味のみかんに待ったをかけたのは、「ダサッ!」と言われた社長だった。
「重力ってぇのは一歩間違うと命取りや。体重軽するとか、飛び降りる衝撃を軽減するくらいやったら何ともないやろうけどな、お嬢ちゃんの皮膚や骨、内臓には何の強化機能も付いとらへん。極端な負荷の増減でどんなことが起きるか、儂もよう分からんねや。使うんやったら慎重にな」
「……? うんうん、分かった分かった」
絶対分かってねぇ……。話の後半、退屈そうに目がキョロキョロしてたぞ。遊びたい盛りの餓鬼には右から左の興味なしな内容だったか。
社長から受け取った結果の紙を持ち、次は才田の部屋に移動した。
「任して。がっつりアピールして、派閥の内部事情を報告したるから」
廊下を歩きながら、みかんは意気込んだ。
「あのな、内部事情を調べて報告するのは俺達の仕事だ。囮は余計なことしねぇで、馬鹿っぽく見せてりゃぁ良いんだ」
「それも任しときぃ。女子高生の特権的最強用語、"分かんなぁ~い♪"があるから」
「……ああ、そうだな。それを連発してれば、才田もお前を警戒しないだろうな」
ふざけたドアの前まで来ると、例の儀式を思い出し、うんざりした俺はみかんにノックさせることにした。
「え? そんなウザイん?」
「格好はイギリス紳士ぶってるけどな、儀式は幼稚園児のお遊戯レベルだ」
「ふぅん、イギリスね」
コンッコココンッコンッ……コンッコンッ!
お菓子のおっとっとのCMみてぇなリズムで叩いたみかんに、雹子にさせれば良かったと思った。ドア越しに泉堂と思わしきオッサンが小さく噴出す音が聞こえる。
「あーぶく立った~煮え立った~♪煮えたか……」
そして例の儀式が始まった。
コンッコココンッ!
「何の音?」
「雀が駒鳥を殺した音」
「あー良かった」
な、何が良かったんだよ!? 縁起でもねぇ。イギリス気取り相手だからって、マザー・グースを出してきやがった。みかんの奴、侮れない……
ココンッココンッ!
「何の音?」
「蝿が駒鳥を看取った音」
「あー良かった」
いや、ちょっと待て。確かこの童謡は、かなり長かったような……
コココンッコン!
「何の音?」
「魚が駒鳥の血を受けた音」
「あー良かった」
コンッココンッコンッ!
「何の音」
「甲虫が…」
「長過ぎるだろ! 省略しろ馬鹿っ!」
みかんを遮ると、ドアの向こうから泉堂の舌打ちが聞こえた。……この野郎、マザー・グースを楽しんでやがったな。
「……むぅ。せっかちやな。お化けの音っ!」
「きゃー!」
…………、ガチャリ
「ようこそ、才……がふぅ!」
初めて訪ねて来た時と同様、俺はのこのこ顔を出した泉堂を、垂直に殴りつけたのだった。