ああ、そうか。この感情の名は
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「殿が、戦で」
沈痛な表情を浮かべながら報せを持ってきた侍女は、ある事実を口にした。しかし、言う前に何が起こったのか想像するのは容易い。
そうか、逝ったのか、あの男は。
政略結婚としてあてはまったのが私と、もう死んでしまった旦那様だ。見目麗しい容貌をしていたが、正室である私に愛を囁くこともなく、初夜を迎えることもなく、夫婦仲はよろしくなかった。私も今になっては彼の人のことを好いていたのか、分からなくなっている。相手が嫌っていた、ということならばよく分かっているのに。
毎晩、毎晩、飽きることなく側室の元へと出向いていた。その事実だけが、私を好いていないということを暗に言ってたので、顔も声もぼんやりとしか思い出せない。
しかし、殿が死んだとなれば私は城から出なくてはならないだろう。ここは私たちの居場所ではなくなり、討ち取った者へと譲られる。故郷に戻って隠居生活を送ることになりそうだ。今までと変わらない生活だから、あまり不自由だと思うことはないだろう。
私だけが冷静で、静かに彼のいなくなっていた現実を見据えていた。一等、辛いのは側室の彼女だろう。かといって、正室の私が出る幕でも何でもない。ここでしゃしゃり出ても、傷口に塩を塗り込めるだけだ。
「奥方様」
「平気よ、出ていかなくてはね」
「そうではなくて、いえ、それもありますが、その」
歯切れ悪く、言いにくそうにする侍女の話の続きを待つ。意を決したように彼女は私を真っ直ぐに見詰め、ある一言を言い放った。
「殿の室へと、その、お辛いでしょうが」
ああ、そうか、遺品をどうにかしなければ。けれど、それは私よりも側室の彼女の方が相応しい気がしてしまって、素直に頷くことができない。あの御人も可哀想に、彼女に預かってもらいたかったものを私に見られてしまうなんて。
そういえば、戦に赴く何日か前、久しぶりに話をしたような記憶がある。何の話までかは忘れてしまったが、他愛のないものであったのだろう。
本当に、つくづくついてない男だった。
「そうね、行くわ」
記憶の奥底を手繰り寄せて、確かここを曲がって、と彼の室へと近づいていく。ようやく見つけられた瞬間、襖が勢いよく開いたのだ。そこには側室であった彼女の姿があった。顔色は悪く、目と鼻が真っ赤に染まっている。
殿を想って泣いていたのだ。しかし、何と声を掛けたらよいものか。
いろいろと思考を巡らせている間に彼女は私の元へと近づき、ぎゅう、と力強く私の手を握り締めた。真っ赤な目で、唇を噛みしめながら。
「早く、中へお入りになられて下さい」
「え?」
「私はいつも、貴女様が羨ましかった」
何故、と問いかける間もなく彼女は行ってしまった。まだじんじんと残る手の痛みに、私は彼女の言った通りに室へと入り込んだ。
殺風景な室には必要最低限のものしかなかった。茶器もなければ、掛け軸も、屏風も見当たらない。あったのは、枯れそうな梅の花と文机。私の好きな花ではあったが、彼も好きだったとは思いもしなかった。もっと濃い色合いの花を好むとばかり思っていたから。
文机の上には何枚もの紙が無造作に置いてあり、箱の中にもいくつか入っていた。きっと彼女が見たのだろう。気は引けるが、一つ、置いてあった文の一つを手に取った。
それは恋文だった。驚くべきなのは、そこに私の名が連ねてあったことだ。悪戯か、と思い他の文も手に取るが同じく私の名が連ねているのだ。私はこんなものを貰ったこともないし、筆跡は全て同じ人物のように思える。おもむろに箱にあった包みの一つを開けてみると、簪一つに、またもや私の名が書かれていた。
胸を押さえるように手を当て、現実味を帯びない状況に混乱する。手先が痺れたようにじんと痛み、少し落ちつくために目を閉じた。単純に考えればこの差出人は全て旦那様になる。他に考えられるのならば、誰か私に懸想をしてくれた相手がいて、それを全て旦那様が取り上げてしまった、とか。
けれど、きっとこれは全て。
その場から動くことができずに私はじっとこの室で座り込んでいた。私を捜しにきた侍女を返し、暫し、ここにいると口が勝手に言葉を紡いでいたのだ。恋文には全て違うことが書いてあったが、内容は全て愛おしいと惜しげもなく綴られていた。聞いたことなんて一度もない、優しい言葉を掛けられたこともない。だが、ここに綴られている言の葉はどれも優しく、温かみのあるものばかりだった。
彼が私に話したかけたことは何だったろうか。あのとき、彼は何と言っていたのだっけ。何も思い出せぬまま、徐々に日は暮れて、私の瞼も重くなっていく。夢で思い出せるのならば、と何の根拠もないのにすとんと私の意識は引きずられていった。
* * *
「久しいな」
「ええ、そうですね」
縁側へ出て花を愛でていたときだった。庭に見事な梅の木があるものだから、私はそれを近くで見たくて室から出ることが多い。ばったりと出くわしたのは旦那様で、私は正直、縁側に出たことを後悔した。戦に出るから支度で室に籠っているだろうという私の読みはあっさりと外れ、こうして顔を突き合わせている。
その挨拶が終われば無言が私たちを包み、自然と梅の方へと視線を向けるほかない。早く行ってくれればよいものを、と八つ当たりの如く考えていると、不意に彼が口を開いたのだ。
「今年もよく咲いたな」
「ええ、見事なものです」
「……俺はもう直に出るが、後のことは任せる」
「はい、かしこまりました」
「よしの」
私の名を初めて呼び、そのまま踵を返してしまった。よく見ると耳が真っ赤に染まっている。ただそれだけのことで、どうしてそんな風になれるのかしら。すぐに視線を逸らして梅へと向けた。
けれど、どうしても先ほど呼ばれた私の名が耳について離れず、結局、私もそのまま自分の室へと戻ってしまった。
どうしてなのかは分からなかった。名を呼ばれたことに抵抗があったわけでもなかった。居心地の悪さを覚えたわけでもない。むず痒いような、そわそわするような、そんな感覚に囚われてしまったから。
だから私は早く忘れてしまおうと思ったのだ。そうすれば、こんなわけの分からない感情に振り回されることもないと思った。
* * *
眩しい光が私を照らす。夜は明け、もう朝方になってしまっていた。いつの間にか私宛の恋文を抱きかかえるようにして寝ていたようだ。
気だるげに上半身を起こすと、梅の花がはらりと一枚散っていった。
「よしの」
呼ばれた気がして振り返っても、誰もいない。あの声は誰だ、なんて思い返さずとも覚えている。
本当は覚えている、誰かの声も、顔も。
初めて掛けられた言葉も、態度も、本当は全部、覚えている。
けれど、思い出さないようにしていた。嫌われていると思い込んでいたから。きっと、私は最初から。
「ああ、そうか」
この、感情の名は。
不意に書きたくなって書いたものです。勢いのまま書いたため、文章がおかしくなっているかもしれません。