序章Ⅰ(第3話)
あまりにも唐突すぎるその答えは、彼に真意を掴み損なせた。しかし、それに対する答えはひどく簡潔なものだった。
「真っ赤な血が真っ白な雪の上に広がる」
「……」
「赤は白地には映える」
不気味なほど。
呟くように言ったその言葉に表情はなかった。
むしろ不自然なまでに。
「何が正しいのか、正しくないのか。何が悪で何が善なのか。わからない……わかりたいとも思わない」
「陛下……」
ダン、と鈍い音が響く。それは皇帝が力任せに窓を叩いた音だった。
そうなって初めて初老の男は気づいた。ガラスに映る皇帝のその顔が、ほんの微かだが歪んでいるのを。それは苦悩の表情に似て非なる表情、いまだかつて彼はこのような悲痛な表情をみたことがなかった。なにがこれほどまで皇帝を、孤高で何者も自らと相対する者のいない世界に身を委ねる彼を苦しめているのか。彼には見当もつかない。
「少しお休みになられた方がよろしいかと……」
「“雪の中で死んだ者の魂はこの大陸を離れることができない”」
滔滔と紡ぎだされたその歌うような低い旋律にのせた言葉は、大陸に住まうものならば誰でも知っている、もちろん初老の男も知っている古い一種の伝承だった。
「“その魂は雪の精として蘇り永遠に大陸を彷徨う”」
大昔からこの伝承は信じられてきた。「雪の精」とは冬、とくに初冬に雪とともに天から舞い散る、淡い光を放つ極々小さな光の珠のこと。この大陸独自の現象である。
昔はこの光の珠は「死んだ人の魂」とみなされ、多くの伝承に、物語に残されている。しかし、今では自然現象であると証明され、広く大陸の民にも認知されている。しかし、淡い光を放ちながら真白き雪と共に天から舞い降るその幻想的な風景は神聖で、いくら雪の精が自然現象と判明した今であっても、死んだ人の魂、と結びつけてしましたくなる。
初老の男は皇帝の言葉の後を続けた。
「“雪の精として蘇った者は七年目の命日に当時の姿そのままに”」
そして消え入るようにひっそりと、まるで自分自身に言い聞かすかのように皇帝は呟いた。
「“想い人の前に現れる”」
暖かいはずの室内は、すでにその暖かさを失っていた。寒さを感じることなどありえないはずにもかかわらず、そこは最早温度を失っていた。
皇帝も初老の男も、続く言葉を口にはしない。ただ空気に冷たい静寂が訪れ二人の間に流れ込む。幻想的な窓の外の世界は一行に変わる気配を見せず、それは不安という感情を沸々と初老の男に湧き上がらせた。
「……ただの伝承、作り話にしか過ぎません」
そんな不快な感情を消すために、初老の男は口を開いた。皇帝がそうだと肯定しさえすれば、全ては気のせいで済ますことができる。しかし、彼に返された言葉は到底彼が予測できたものではなかった。
「本当に、そう思うか?」
皇帝の言葉には自嘲の響きがあった。驚いたように顔を上げた初老の男が認めたのは、窓辺に立ち、こちらに顔を向ける歳若い男。その姿には常の偉大なる皇帝としての影はない。皇帝としての権威もなにもなかった。
「人が蘇ることなどありえません……神が存在するならまだしも……」
動揺を必死に隠し、答えた初老の男の的確な答えは更に皇帝の自嘲を誘うものだった。
「そうだな。僕が言ったんだな……」
神など存在しないのだと。
初老の男は初めて間近にみる皇帝の藍色の双眸を静かに見据え黙答する。皇帝はまるで何かを待つかのように雪を、雪の精を見遣りそして深く目を閉じると言った。
「今日が七年目の命日だ」
と。それは全ての答え。
それが全てのことの始まり、そして結末。
「……どうせ暇だ」
話をしよう。
もう償うことができない罪の物語の。
再び初老の男を捉えた皇帝の深い深い青、藍色の瞳は静かに初老の男の答えを促す。その瞳にもはや悲しみも焦りもない。そこに映るのは真実だけ。
自らが犯した悲劇のありのままの姿だけ。
「お話しください……セト様」
皇帝の名はセト・カーライル。
彼はその答えに満足したかのように頷くと、ゆっくりとその重い口を開いたのだった。