序章Ⅰ(第2話)
初老の男は深く椅子に座りなおすと今一度ため息をついた。
皇帝がこのような姿を見せたとき、それは暫くここから離れる意思がないときであることを彼は実に良く心得ていた。理由は知らない、そして聞こうと思ったこともない。ただ彼はこのように雪と雪の精が舞い散る日は彼が窓辺に立ち、ただただその静かなる光景を、永遠とも思われる単調な時間を長いことその藍色の瞳に映しているのをこれまでに幾度となく目にしてきたのだ。
理由は知らない、聞こうと思ったこともない……否、それは聞くことは許されない空気が常に周りには立ち込めていた。それは皇帝、彼自身の過去を表しているかのごとく、誰にも知られてはいけない重大な秘密のようにも思えた。
しかしこの日は明らかにいつものこの時間とは違う空気が流れていた。
目に見える変化はない。ただ空気が違っていた。
「……どうかなさいましたか、陛下」
この静寂の時間を遮られることを酷く彼が嫌うことを初老の男は知っていた。しかし、今は状況が違うと彼は判断した。それは説明など到底できるものではない、しかしいつもと何かが違うのだ。言うなれば、常なら一分の隙なく閉ざされていた扉が何故か今日は微かにこちらに開かれている、そのような些細な感覚。
その先に待つのが果たして光か、はたまた暗黒か、それすら判断できないほどの微かな変化。
だから初老の男は常とは違い静かに皇帝へと声をかけた。そして同時に気づいたのだ、彼の肩が微かに震えていることを。しかしその震えは寒さによるものではないことは、何ものよりも明らかだった。
「君は……」
静かに大陸王が口を開いたのはそれから少し経ってのこと。その声は静かで、しかし聞く者に注意を向けさせるには十分な魔力を持っていた。
「君は、人を殺したことがあるのか」
しかしそう言葉を紡ぎだしたその声は酷くあっさりしたものだった。そしてその言葉は疑問ではなく、確認の色が濃く滲み出ていた。初老の男は微かにその顔を引きつらせた。
「……長いこと戦争がありましたから」
長い長い戦争。それはつい最近まで彼らの側にあった。決して忘れることなどできない悲惨な記憶。忘れようにも忘れる術のない記憶だ。
その側には常に死の影がうろついていた。
時には目の前の相手が、時には自らが死神になる毎日。命は常にその側にあり、そしていとも容易く消えていった。
「私は……言うまでもないだろう」
その皇帝の言葉は統一者として言ったのか、それとも彼の真の姿において言ったのか初老の男には判別がつかなかった。しかし、どちらにしても答えは同じ。
「想像はつきます」
面と向かって答える勇気など彼は持ち合わせてはいない。当の本人を目の前にして真実を口にするのは初老の男にとって何ものより酷なことだった。
しかし皇帝はその答えに気分を害する様子など一切見せず、瞳を窓の外へと固定したままだった。恐らくその藍色の瞳に映る表情もまったく変わっていないのだろう。血生臭い戦争の話も、殺人の話も皇帝にとっては乾いたものでしかないということは、ここ二年の内で十二分に悟っていたはずだった。
やはり怖いお方なのだ、この方は。
しかし再度、心の底から初老の男はそう思う。戦乱の只中にあったこの大陸を見事に統一したこの男は、到底今の自分に理解できるような世界には立っていない。確かに彼は大陸を統一した英雄で、国民から敬愛とそして畏怖の念を抱かれる存在である。だが、国民が、大陸の民が感じ抱いている感情はそれだけではない。
大陸の民は彼が始めてその姿を現し、底の見えない青の瞳が自らに向けられたとき見てしまったのだ。
完璧なる漆黒を。その背後に映る完璧なる死の影を。
彼の手はあまりにも血に濡れすぎたのだと全ては悟ったのだ。
彼は絶対的な恐怖の化身だった。
しかし、同時に初老の男は疑問に思うのだ。
絶対的であるはずのその存在は時として酷く脆く見えたのだから。
窓辺にたたずみ、深く瞳を閉じる皇帝の顔は、深い悔恨の念に苛まれているようにも見えるのだ。今にも崩折れるようにも見えたからだ。
皇帝陛下は全てに矛盾している。
それが初老の男の最終的な自らの主君に対して抱くものであった。
「雪の日の任務は、どうしても、何度やっても慣れなかった」
唐突な告白。静かに、まるで自分自身に言い聞かせるかのような呟き。
「雪?」
皇帝の言葉に彼は無様にも言葉を返すことしかできなかった。しかし、皇帝は構わずもう一度言った。
「そう、雪だ」
任務、と呟きながら初老の男は彼の背を見た。
「どうしてです」
「……色だ」
「色?」