第二章B
第二章B
その日の夜も、まだ月は確かに欠けていた。
いと高き天井に響き渡った怒号は、宵も更けた王城内に不快な程に響き渡る。愚にもつかないたわごとを繰り返すその男は、間もなく駆け付けるであろう憲兵の姿を闇の中に探しながら、それでも声高に言を発し続けることをやめなかった。
「この扉を開けろ、狂王よ。貴方のしていることは天使に歯向う愚かな行為でしかない」
言葉は王の寝所を守る分厚い扉によって跳ね返される。しかし、そのようなことはこの男の気にするようなものではなかった。軍服に袖を通す彼は、しかしまだ兵士としては先月任官したばかりの新参兵。
彼は、強大な隣国であるラスウェル帝国との勝ち目のない戦争を迎えようとしている王国を救いたいなどという、極めて甘ったるい正義感を唯一の真実として掲げ、声高に至上の存在を愚弄する。
「狂王よ、あなたは変わられた。あの日から貴方は変わられたのだ」
「我が敬愛なる国王陛下は何一つ変わられてなどいない」
男の背後から響いた、氷のように冷たい声に彼は思わず声を失った。今までの饒舌さは息をひそめ、しきりにあたりを見回すも、彼の眼はあたりの暗闇を宿すばかりで一向に声の主を見つけられずにいた。
「誰だ」
「王国を汚す輩に名乗る名などない」
透き通る女の声。凛として揺るぎのないその声は、男をさらに追い詰めていく。姿が見えない、声だけの女性。そんなはずはない、必ずどこかに隠れているはずだと思えば思うほど、彼は闇に眼を走らせる。
「姿を現わせ卑怯者」
その言葉にめいいっぱいの嘲りの色を乗せる。これが彼が今とることのできる最良の方法だった。彼の正義の形だった。しかし、それに対する返答はくすりと笑う音。
「反逆者よ、そうそうにここから立ち去るがよい」
「姿を現わせ!!」
その時だった。
分厚い雲に覆われていた欠けた月が、ほんのわずかに姿を現した。硝子張りの回廊にたたずんでいた彼は、その細く差し込む月の光のおかげで長く伸びる影の出所を探り出す。一瞬身じろぎしたその影は、更に闇の奥へと逃げ込むかのように見えた。だから彼は、素早く女の腕をとった。しかし……
「無礼者!!」
女の声は怒りに滲んでいた。ぶつけるようなその怒りに一瞬瞠目した彼は、しかし次の瞬間自らが犯した罪を悟った。
「あ、あ、貴女様は……!!」
「去れ」
「あ、あ……」
「去れ!!」
目を見開き立ちつくしていた男はその言葉でまるで呪文が溶けたかの如く一目散に逃げだす。靴音は、荒々しさとともに遠ざかり、その遠ざかる音を耳に入れ確認している女の肩に、ごつごつした手が乗せられた。
「このような夜更けに貴女は一体何をなさっておいでですか」
「月明かりに照らされる花を見に来たまでです」
そうですか、と冷静に答えた胸に輝く国章と勲章を飾った軍人は、それ以上深く追求することはしなかった。静かに踵を返し、背後に控えていた憲兵に先ほどの男の処罰を命じて去らせると、依然その場を動かない女の頭を無遠慮にもなでた。
「何も気に病むことはありません。あなたはあなたです」
「私は花と常に共にいます」
「……そうですね」
軍人は真摯に応じると、硝子越しに庭園を見そして重ねてつぶやいた。
「しかし、あの方は薔薇よりも百合を好まれた」
血のような深紅の薔薇ではなく、清廉な白百合を。
はたして花は今でも、あの時と変わらない清らかな御心をお持ちなのだろうか。
しかし、そうつぶやいた時にはもうその女の姿は闇の奥へと消えていた。