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眠りの底で

まえがき

会えない二人が、それでも会おうとすること。

声も顔も知らない相手を、ただ言葉だけを頼りに、この世の誰よりも近くに感じてしまうこと。

そういう、淡くて、けれどしぶとい願いのことを書きたいと思いました。読み終えたあと、雨あがりの土の匂いがほんの少しだけ、あなたのなかに残ってくれたら嬉しいな。


 もう四十年も前のことになる。

 それでも、夏のはじめに雨を含んだ土の匂いを嗅ぐと、私はいつでも十一歳のあの夏へ引き戻されてしまう。背中の下にあった粘土のひんやりした感触、まぶたの裏で揺れていた水色の光、そして——あの声。誰にも話したことのない話を、いまになってようやく書いておこうという気になったのは、約束を果たした者には、それを書き残す義務のようなものがある気がするからだ。


 その夏、私たちの遊び場は町はずれの雑木林だった。林のへりには、前の年の暮れに何かが落ちたという噂のある荒れ地が広がっていて、大人たちは「あそこは地面がゆるいから入るな」と言っていた。子どもにとって、入るなと言われた場所ほど魅力的なものはない。だから私たちは、夕方になるときまってその荒れ地の縁でかくれんぼをした。

 あの日も、私は鬼から逃げて、雑木林の奥の、草の深い斜面に身を伏せていた。膝まである夏草が、汗ばんだ腕にちくちくと刺さった。鬼の数える声が遠くで聞こえて、私はもう少し奥へ、と思って身を起こした。その拍子に、雨あがりの斜面で足がすべった。

 声をあげる間もなかった。私は斜面を転がり落ち、思っていたよりずっと深く、ずっと遠くまで運ばれていった。世界が空と土とにめまぐるしく入れかわり、最後に肩からどすんと、何かの底に落ちた。

 穴だった。

 大人ひとりがかがんで入れるほどの、丸く、奇妙になめらかな穴。あとで知ったことだが、それは前の年に落ちたという小さな隕石がえぐった穴だった。隕石そのものはとうに掘り出されて持ち去られていたが、それがえぐった窪みだけが、草に隠れて口を開けていたのだ。穴の内側はガラスのように溶けて固まったところがあって、私の落ちた底には、雨で運ばれた粘土がやわらかく溜まっていた。

 頭を打ったのだと思う。痛みはなかったが、世界が遠くなった。鬼の数える声も、林のざわめきも、すうっと水の底に沈んでいくように消えて、私はそのまま気を失った。


 ——どれくらいそうしていただろう。

 暗闇のなかで、私は声を聞いた。

「もしもし」

 女の子の声だった。私と同じくらいの年の。

「そこに、だれかいるの?」

 夢だと思った。だから私は、夢のなかでするように、何の警戒もなく答えた。「いるよ」と。

「よかった」と声は言った。心の底からほっとしたような言い方だった。「ずっと、だれかと話したかったの。ずっと、ずっと」

 私たちは話した。何を話したのか、はじめのうちのことはよく覚えていない。ただ、その子が遠くにいること、とても遠くにいて、けれど同じ空の下にいるらしいこと、そして、ひどく寂しがっていることだけが、まっすぐに伝わってきた。声には、ガラスごしに聞くような、かすかな揺らぎがあった。

「あなたの名前は?」と私は聞いた。

「みち」と声は言った。「あなたは?」

 私が名を告げると、みちは私の名を二度くりかえした。新しい言葉を覚える子どものように、大事そうに。「おぼえた」と彼女は言った。「ぜったいに、わすれない」

 そのとき、上のほうで犬が吠えるような音がした——いや、ちがう。誰かが私の名を呼ぶ声だった。鬼に見つかったのだ。みちの声が、潮が引くように遠ざかっていく。

「待って」と私は言った。「行かないで」

「だいじょうぶ」とみちは言った。もう糸電話の糸が切れる寸前のように細い声で。「またここに来て。ねむって。そうしたら、きっと会えるから」


 目を開けると、穴の口から友だちが心配そうにのぞきこんでいた。「おまえ、こんなとこに落ちて気絶してたのかよ」と彼は笑った。私はうなずいて、彼の差し出した手につかまり、穴から這い出した。

 空はまだ明るかった。気を失っていたのは、ほんの十分かそこらだったらしい。けれど私には、ずいぶん長いあいだ、どこか別の場所にいたような気がしていた。

 家に帰っても、夕飯のあいだも、私はみちの声のことばかり考えていた。あれは夢だ、と自分に言い聞かせた。頭を打ったから、そんな夢を見たのだ、と。それでも、夢にしては、彼女の声はあまりにもはっきりと、私の耳の奥に残っていた。「またここに来て。ねむって」という、あの言葉も。

 誰にも話せなかった。話せば笑われるにきまっている。それに——うまく言えないのだが、話してしまえば、それはもう私とみちだけのものではなくなってしまう気がした。私は秘密を、熱いものを手のひらに包むようにして、その夜は眠った。


 次の日、私は遊びの誘いを断って、ひとりで荒れ地へ向かった。

 穴はそこに、何ごともなかったように口を開けていた。私はあたりを見まわし、誰もいないのをたしかめてから、するりと中へ降りた。底の粘土はまだ昨日の私の形をうっすらと残していた。私はそこに、昨日と同じように仰向けに横たわった。

 空の丸い切れはしが、頭の上にあった。私は目を閉じた。眠れるはずがない、と思った。こんな昼間に、こんなところで。

 けれど、不思議なことに、まぶたを下ろすと、世界はまたあの水の底のように静かになっていった。穴の壁が、どこか私を眠らせようとしているように、ひんやりと、やさしく私を包んでいた。

「来てくれたのね」

 みちの声がした。私は思わず笑った。声に出して。「来たよ」

 その日、私たちは長いあいだ話した。みちは遠い町に——いや、町というより、白い部屋にいるのだと言った。「わたしは、ずっとねむっているの」と彼女は言った。「目がさめないの。お医者さんも、お父さんも、お母さんも、わたしのまわりにいるのに、わたしの声はとどかない。手も足も、うごかない。でもね、ふしぎ。ここでだけ、あなたとだけ、話せるの」

 私には、彼女の言うことがすぐにはのみこめなかった。眠ったまま目がさめない、というのが、どういうことなのか。けれど、彼女の声の寂しさだけは、痛いほどわかった。

「いつから?」と私は聞いた。

「わからない」とみちは言った。「ながいあいだ。きせつが、なんども、まわった気がする。みんなの声は、だんだん、すくなくなっていく。はじめは、まいにち、たくさんの人がきて、わたしの名前をよんでくれた。いまは——」彼女は少し黙った。「いまは、ときどき」

 私は何か言いたかったが、言葉が見つからなかった。だから私はただ、「ぼくは毎日くるよ」と言った。「毎日、ここに来て、ねむる。だから、ぼくはずっと、きみと話す」

 みちが、息をのむのがわかった。「ほんとう?」

「ほんとう」と私は言った。

 その約束を、私は守った。


 その夏のあいだじゅう、私はほとんど毎日、あの穴に降りて眠った。はじめのうちは、昼間に眠るのは難しかった。けれど人は慣れるものだ。私は、穴のなかで眠るこつを覚えた。仰向けになって、空の丸い切れはしを見上げ、それから目を閉じ、みちの名を心のなかで呼ぶ。そうすると、世界はやわらかく遠ざかり、彼女の声がやってくる。

 私たちは何でも話した。みちは目がさめないあいだも、まわりの音をぜんぶ聞いていた。だから彼女は、私の知らないたくさんのことを知っていた。お医者さんがラジオでかけていた音楽のこと。看護師さんたちのうわさ話。窓の外を通る電車の音。雨の日と晴れの日の、空気のちがい。彼女はそれを、まるで宝物のように、ひとつひとつ私に話して聞かせた。目で見られないぶん、彼女の耳はおそろしく豊かだった。

 私は私で、彼女に外の世界のことを話した。雑木林の青いにおい。川で釣った魚のこと。夏祭りの夜の、提灯の赤い光。私が言葉にすると、みちはそれを、自分のまぶたの裏で見ているようだった。「見える」と彼女はよく言った。「あなたが話すと、ちゃんと見える」

「いつかさ」とある日、私は言った。「いつか、きみが目をさましたら、ぼくが本物のお祭りに連れていってあげる。提灯も、金魚すくいも、ぜんぶ見せてあげる」

 みちは、長いあいだ黙っていた。それから、とても静かに言った。「やくそく」

「やくそく」と私は言った。

 その約束のために、私はみちのいる場所をさがそうと決めた。彼女のいる「白い部屋」が、どこの町の、どこの病院なのか。それがわかれば、いつか会いにいける。私はそう信じていた。

 でも、夢のなかで聞けることには、かぎりがあった。みちにも、自分がどこにいるのか、はっきりとはわからなかった。聞こえてくる地名のかけら、電車の音、窓の外の山の形——私はそういう手がかりを、夜、机に向かってノートに書きとめた。

 そう、私はそのころ、昼と夜が逆さまの暮らしをするようになっていた。

 昼は穴で眠るから、夜になっても目が冴えている。その夜の時間を、私は勉強にあてた。みちのいる場所をさがすために、地図を広げ、図書館で借りた鉄道の本をめくり、聞きとった手がかりを照らしあわせた。学校の勉強も、夜のうちにすませた。母は「このごろ、ずいぶん早起きね」と言って、机に向かう私の背中を見て笑った。ほんとうは早起きではなく、ただ昼に眠っているだけだったのだが、私はそれを言わなかった。

 昼夜が逆さまの暮らしは、体にこたえた。授業中にこっくりと舟をこいで叱られたこともある。目の下にはいつも薄い隈ができていた。それでも私は、その暮らしをやめようとは思わなかった。みちと話せる時間が、私には、何よりも大切だったのだ。


 夏が深まり、蝉の声が変わっていくころには、私とみちは、もう何年も前からの友だちのように、たくさんの秘密を分けあっていた。彼女が眠るまえに飼っていた猫の名前。私が誰にも言えずにいた、こわいもののこと。私たちは、たがいの声の小さな変化まで聞きわけられるようになっていた。今日のみちは元気だ、とか、今日は少し寂しそうだ、とか。

 いま思えば、あれはきっと、はじめての恋に似たものだった。会ったこともない、顔も知らない、声だけの相手。けれど私は、みちのことを、この世の誰よりも近くに感じていた。


 そんなある日のことだった。

 いつものように穴で眠り、みちと話していると——とつぜん、私の頬を、あたたかくて湿ったものがぴしゃぴしゃと叩いた。同時に、はあはあという荒い息づかいと、きゃんきゃんという甲高い声。

 犬だった。

 散歩中の犬が、穴に落ちている私を見つけて、舌で顔をなめながら吠えていたのだ。私は目を覚ました。みちの声が、引きちぎられるように遠ざかっていく。「待って」と私は心のなかで叫んだが、もう遅かった。穴の口から、犬の飼い主らしい年配の女の人が、ぎょっとした顔でのぞきこんでいた。

「ぼうや、だいじょうぶ? こんなところで気絶して——だれか、人を呼びましょうか」

「だいじょうぶです」と私はあわてて言って、穴から這い出した。「ちょっと、休んでただけです」

 その人は納得しない顔で、何度も振りかえりながら去っていった。私は不安だった。そして、その不安は当たった。

 次の日、私が穴で眠り、ようやくみちの声が聞こえはじめたとき——また、私は起こされた。今度は犬ではなかった。役所の人らしい、作業服を着た大人が二人、穴をのぞきこんでいたのだ。

「きみ、ここで何してるの。危ないよ。ゆうべ、子どもが穴に落ちて気絶してるって通報があってね」

 あの犬の飼い主が、役所に知らせたのにちがいなかった。私は穴から出された。大人たちは、穴のまわりを調べ、何ごとか話しあっていた。「やっぱり、例の落下物の跡だな」「土を調べたほうがいい」——そんな言葉の切れはしが、私の耳に冷たく刺さった。

 それからのことは、あっという間だった。

 数日のうちに、穴のまわりには黄色いロープが張られ、やがて、人の背丈ほどの金網の柵が立てられた。「立入禁止」の札がさがった。役所の人や、白衣を着た研究者らしい人たちが、何度もやってきては、地面を調べていった。隕石がえぐったその穴の土には、何か珍しい成分が含まれているらしかった。私には難しいことはわからなかったが、彼らがその土を「貴重なものだ」と言い、大がかりに掘りとって運び出す計画を立てているらしいことだけは、子どもの私にも察しがついた。

 みちと私をつないでいたのは、その穴の、その土だったのだ。隕石が残していった、特別な何か。それがなくなってしまえば——私たちは、もう、二度と話せなくなる。

 私はあせった。柵を乗りこえて穴に入ろうとしたこともある。けれど昼間は、いつも誰かの目があった。研究者か、見まわりの人か、近所の大人か。誰かが、かならず、あの荒れ地のほうを気にしていた。一度、無理に柵を越えようとして、近所のおじさんに見つかり、こっぴどく叱られた。「あそこは危ないんだ。お役所の人が調べてるんだから、近づくんじゃない」


 もう、時間がなかった。

 みちに、さよならも、最後の約束のたしかめも、何も言えていなかった。あの日、犬に起こされたのが、私たちの最後の会話になってしまうのか。そう思うと、いても立ってもいられなかった。

 工事は、三日後の朝にはじまると聞いた。

 その前の晩、私は決心した。

 みんなが寝静まった真夜中、私はそっと布団を抜け出した。靴を手に持って、足音を忍ばせて玄関を出る。夏の夜の空気は、昼とはちがって、ひんやりと澄んでいた。星が、おそろしいほどたくさん出ていた。みちのいる「白い部屋」の窓からも、この星が見えているだろうか、と私は思った。いや、彼女は眠っているのだから、星は見えない。だからこそ、私が見て、話してあげなければ。

 荒れ地に着くと、私は柵をよじのぼった。金網が指に食いこんで痛かったが、かまわなかった。柵の内側に降り立ち、月明かりをたよりに、私は穴の口を見つけた。明日には埋められ、掘りかえされてしまう穴。私は最後に、そこへ降りた。

 底の粘土は、夜の冷たさを吸って、氷のようだった。私は仰向けになった。頭の上には、丸く切りとられた夜空があって、そこに星が、二つ、三つ、またたいていた。私は目を閉じ、みちの名を呼んだ。いつもより、ずっと強く。

 しばらく、何も聞こえなかった。土がもう力を失いかけているのか、それとも、夜だからなのか。私は、もう間に合わなかったのか、と絶望しかけた。

 そのとき。

「……来てくれたのね」

 遠い、遠いところから、みちの声がした。波の音にまぎれる小さな鈴のように、かすかに。

「みち」と私は言った。「聞いて。時間がないんだ。この穴、明日、なくなっちゃう。土を、ぜんぶ持っていかれちゃうんだ。そうしたら、ぼくたち、もう——」

 声がうまく出なかった。

 みちは、しばらく黙っていた。それから、彼女は——泣いているのかと思ったが、ちがった。彼女は、笑っていた。とても、やさしく。

「だいじょうぶ」と彼女は言った。「ずっと、こわかった。あなたと話せなくなることが、いちばんこわかった。でも、いま、わかったの。あなたがいてくれたから、わたし、もう、ひとりじゃない。それだけで、わたしは安心できる。強くなれる、きっと」

「みち」

「やくそくしましょう」と彼女は言った。「いつか、目をさます。きっと、目をさます。あなたがくれた、お祭りの提灯も、金魚すくいも、ぜんぶ、この目で見るために。だから、あなたも、わすれないで。わたしをさがして。きっと、見つけて。そして——」

 声が、遠ざかっていく。土が、最後の力を使いはたそうとしていた。

「そして、本物の世界で、もういちど、はじめから」

「やくそくする」と私は叫んだ。穴の底で、暗い夜空に向かって。「ぜったいに、さがす。ぜったいに、見つける。だから、待ってて。目をさまして、待ってて」

「……うん」

 それが、最後だった。

 声は消え、あとには、夜の静けさだけが残った。私は穴の底で、星を見上げたまま、長いあいだ動かなかった。涙が、こめかみを伝って、耳のなかへ流れこんだ。けれど不思議と、心は、空っぽではなかった。むしろ、何かが、しっかりと満たされていた。約束、という名の、あたたかいものが。

 次の朝、荒れ地には大きな機械が入り、穴は掘りかえされ、土はトラックに積まれて運び去られた。昼すぎにはもう、そこには、ただ平らに均された地面があるばかりだった。穴があった場所さえ、もうわからなかった。


 平らな地面を目の当たりにした私は、さすがに少し落ち込んだ。けれど、長くは沈んでいなかった。あの最後の夜の約束が、私の心を、内側からそっと支えていたからだ。みちは、きっと目をさます。そして私は、彼女をさがし出す。それは、子どもの私にとって、信仰のようなものだった。

 昼夜が逆さまの暮らしは、自然ともとにもどった。私はふつうの子どもにもどり、ふつうに大きくなった。けれど、心のいちばん深いところには、いつもみちがいた。私はあきらめなかった。彼女が話してくれた手がかり——地名のかけら、電車の音、窓の外の山の形——を、私はノートに書き写したまま、何年も持ちつづけた。

 成長するにつれ、私のさがし方も変わっていった。中学に上がり、高校に上がり、私は新聞の地方面を読むようになった。長く眠りつづけている少女の話が、どこかに載っていないか。図書館で古い記事を調べ、医学の本を読み、いくつもの病院に手紙を書いた。「みち」という名の、長く目をさまさない女の子を知りませんか、と。多くは返事すらこなかった。返事がきても、人ちがいだった。

 まわりの大人は、私のことを変わり者だと言った。会ったこともない女の子をさがして、何になる、と。私自身、何度も、あれはやっぱり子どものころの夢だったのではないか、と思いかけた。けれど、そのたびに、あの最後の夜の、みちの笑い声を思い出した。「本物の世界で、もういちど、はじめから」。そうだ、あれは、夢なんかじゃなかった。


 歳月が流れた。

 みちを見つけたのは、私が二十六になった年の、春のことだった。

 手がかりを、ひとつずつ、根気よくたどっていった先のことだ。彼女が話してくれた地名のかけらと、鳥の鳴き声、近くを通る電車の音。それらが指ししめす土地の、古い病院に、長く昏睡からさめずにいる女性がいる——そういう話を、私はようやく探りあてた。私はその町へ行った。

 病院の人は、はじめ、けげんな顔をした。家族でもない私が、なぜそんなことを聞くのか、と。私は、うまく説明できなかった。ただ、「子どものころからの、約束なんです」とだけ言った。

 彼女が目をさましたのは、その年の、桜の散るころだったという。十数年の眠りから、ある朝、ふいに。医者にも理由はわからなかった。彼女は長い眠りから帰ってきて、少しずつ、言葉を、体を、世界を、取りもどしていった。

 私が面会の許しをもらって、その白い部屋に入っていったとき。

 ベッドに半身を起こした、痩せた、けれど目の澄んだ女性が、私のほうを見た。彼女は、私の顔を知らないはずだった。一度も、見たことがないのだから。

 けれど、何と言えばいいのか、私にはわからなかった。十五年ぶりの——いや、顔を合わせるのは、これがはじめての、声だけの友。私はただ、子どものころ、穴の底でいつもそうしていたように、彼女に話しかけた。窓のほうへ目をやって、ぽつりぽつりと。「外に、木が見える。白い花が咲いてて、風がふくと、すこしだけ、ゆれてる」

 彼女の目が、みるみる見開かれていった。私の声は、あのころとはまるでちがっていた。低く、大人の男のものに変わっていて、もう、子どもの面影はどこにもなかった。だから、声で気づいたのではない。彼女が気づいたのは、私の話し方だった。目に見えるものを、相手のまぶたの裏に絵を描くようにして伝える——あの、穴の底でいくたびも交わした、私だけの語り口。世界じゅうでただひとり、彼女にだけ向けて磨かれた、その言葉のくせを、彼女は忘れていなかったのだ。

 「……あなたなのね」と、彼女は言った。そして、信じられないものを見るような目で、私の名を呼んだ。十五年前、穴の底で二度くりかえし、「ぜったいに、わすれない」と言ったときの、あのままに。

 私たちは、しばらく、何も言えなかった。言葉のかわりに、彼女の目から、涙がこぼれた。私の目からも。会ったこともない、顔も知らなかった二人が、長いあいだ、ただ見つめあっていた。


 その年の夏、私は約束を果たした。

 彼女の手を引いて、私は夏祭りへ行った。まだ歩くのもおぼつかない彼女を、人ごみのなかでしっかりと支えながら。提灯の赤い光が、宵闇のなかに、ゆらゆらと連なっていた。金魚すくいの水槽が、明かりを受けて、きらきらと光っていた。

「見える?」と私は聞いた。

 彼女は、提灯の灯を見上げて、まぶしそうに目を細めた。それから、子どものころのままの話し方で、こう言った。

「見える。ちゃんと、見える」

 あの穴は、もうこの世界のどこにもない。隕石が残していった特別な土も、とうに研究者の手にわたり、消えてしまった。私たちをつないでいた、あの奇妙な力も、いまはもうない。

 けれど、それでよかったのだ。あの穴は、私たちを引きあわせるためだけに、ほんのいっとき、この地上に口を開けていたのだろう。役目を終えれば、消えてゆく。流れ星が、ひとすじ光って、すぐに消えてしまうように。

 いまでも、夏のはじめに、雨を含んだ土の匂いを嗅ぐと、私はあの穴の底を思い出す。冷たい粘土の感触と、丸く切りとられた空と、遠いところから聞こえてきた、あの声を。

 そして、そのとなりには、いつも、彼女がいる。

この作品は、ジャック・フィニイの短編「愛の手紙」に深く影響を受けています。

古い机の隠し引き出しを通して、時を隔てた相手と手紙を交わすあの物語の——本来なら決して交わるはずのない二人が、ささやかな奇跡によってつながり、惹かれ合っていく——という骨組みに、私はずっと心を掴まれてきました。

本作では、その「手紙」を「隕石がえぐった穴の底で見る夢」に、文通の相手を「眠りつづける少女」に置き換え、自分なりのやり方で、あの切なさを描き直すことを試みました。隔てているものが、時間ではなく意識であるだけで、会いたいのに会えない二人の願いの形は、きっと同じなのだと思います。

制作の進め方についても、正直に記しておきます。物語の設計、構成、そして全体の推敲と校正は私自身が行い、文章を実際に綴る作業には生成AIもかなり用いました。どんな話にするか、どの細部を残し、どこを削り、どう結ぶか——そうした判断の一つひとつは私の手によるものですが、それを一文一文の文章へと立ち上げていく過程は、AIとの共同作業によって生まれています。書き手と道具の関係が変わりつつあるいまの、ひとつの実験として受け取っていただけたら嬉しく思います。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


そうそう、一話完結ですが、うっかり「連載」にグルーピングしてしまいました。

せっかくのミスだから後日談か何か書くかも。

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