8 忍び寄る影とエカチェリーナの心の変化
「―――ねぇ、絶対納得いかないわよね」
静かな室内に女の声が響く。
薄暗い部屋の四方の燭台に蝋燭の火が灯り、ゆらゆらと揺れている。
「まさかあの冷徹悪女と結婚するなんて終わってるぜ!俺ならもっとちゃんと躾けてやるのに」
偉そうに踏ん反り返ってソファに腰かけ、ははっと笑いながら大仰な言い方をする男。
先程まで行われていたアンダンテ家主催の夜会の後、二人は応接室で飲み直していた。
「あの女は誰にでも罵声を浴びせ、人を寄せ付けない鉄面皮なヒステリック女なのよ!躾なんて無理に決まってるわ!
たかが男爵令嬢の分際であのリックス様と結婚だなんて、天と地がひっくり返ってもあり得ない!!
~~~~もうずーっとイライラして仕方ないわ!」
女は苛立ちを隠さず不満をぶちまける。
「確かに学園にいた時はロンベニス男爵令嬢の罵声を聞かない日はなかったな。――――何か男爵家に弱みでも握られたんじゃないのか?」
「―――弱み・・一体どんな弱みを握られたら結婚するっていうのよ?――‐はぁ・・本当ありえないわ」
「―――ならどうする?」
「そんなの決まってるわ!!あの女に身の程をわからせるのよ!―――勿論ブレッド、貴方も手を貸すわよね?報酬も用意するわ」
ソファの手すりに寄りかかりながら首を傾げると、女の漆黒の黒髪がサラリと揺れ動き、美しい金色の瞳がギラリと光る。
「くっく・・本気か?俺もネヘラも失敗すればただじゃすまないぜ?」
ネヘラの挑発的な誘いに、ブレッドも妖しい笑みを浮かべた。
「ヘマしなきゃいいのよ!私たち今まで上手くやってきたじゃない。今回も念には念を入れれば問題ないわ!」
「―――いいぜ、なら報酬に俺が冷徹悪女を貰う。生意気な顔を涙でぐちゃぐちゃにさせて、許しを乞うまで躾てやる。―――いいだろ?」
「ふふふ・・貴方も随分言うようになったわね。――――いいわ、殺さず貴方にあげる。その代わり絶対に成功させるわよ!!」
二人はそれから深夜まで話を続けた。自分たちの身体を黒い靄が纏わりついている事にも気づかずに。
***
リックスの部屋に残されたエカチェリーナはやることもなくベッドに横たわって過ごした。
侍女たちはエカチェリーナに怯えながらも、甲斐甲斐しくそれなりの時間になると、入浴の支度をしてくれたり、食事を用意してくれていた。
本当であれば自分の部屋に戻りたいところではあったが、自分の部屋まで歩ける自信はなかった。入浴ですらベッドから降りた瞬間に床にしゃがみ込んでしまう。侍女二人が肩を貸してくれて、何とか浴室に移動できたほどだ。
その後、結局何もできず侍女たちにされるがままで入浴を終えることができた。
世話をされている間彼女たちから黒い靄がうっすらと視えても、流石に浄化する気力が出せず大人しくした。そのせいか、侍女たちが随分嬉しそうにも見えた。
睨まなければ周りはエカチェリーナを邪険になどしない。
わかっていたが、放置して良くないことが起こった時の悲惨な結末を、エカチェリーナは覚えている。
学生のころ冷徹悪女という名前が広まり始めたころは、まだ噂に傷ついていた時期もあった。それもあって、躊躇ってしまったのだ。
大きな黒い靄に包まれた同級生がいたのに、エカチェリーナは罵声を浴びせて浄化することを躊躇ってしまった。その後三十分も経たずに、その同級生は訳の分からないことを喚いた後自ら命を絶ったのだ。
その自殺直前、少し離れた場所にいたエカチェリーナであったが、しっかりと見てしまった。
エカチェリーナが見逃したばかりに、真っ黒な魔気に取り込まれて自我が狂い自ら死を選んでしまった少女の姿をーーー。
それ以来、どんなに小さな魔気であってもなるべくすぐに浄化してきたというのに。エカチェリーナは再び遠慮し浄化を怠ってしまった。
(―――せめて少しだけでも――)
エカチェリーナは世話をしてくれた侍女を一人ずつ呼び、労うためのマッサージをする体で目を閉じさせて、リラックスする侍女にくっつく魔気を、睨んで浄化していった。
侍女たちを下がらせ一人になると、今度はリックスの事が頭に浮かんでしまう。
口付けする度に顔に触れる彼の柔らかい金髪の髪の毛、見つめられると吸い込まれそうなファウンテンブルーの瞳。男性の唇とは思えない柔らかな感触。体を触れる――――
エカチェリーナはリックスを思い出し始めると、朝の情熱的な行為が思い出されて、たまらず頭をぶんぶんと振った。
(―――リックス様は夫婦の役割を果たされただけなのよ!!・・・決して私を好きなわけじゃないわ!)
期待してしまわないよう、必死で自分の想定を否定する。
勘違いしてはいけない。
『――俺はお前を抱くつもりも、愛するつもりもない!静かにひっそりとここで生きろ!』
今も鮮明に覚えているリックスの初夜に宣った言葉。
絶対に忘れてはならない。と、エカチェリーナの心の声は警鐘を鳴らしていた。
『――だが、お前の気持ちを知った以上、俺がしたいようにする。お前は俺のモノだ。』
今朝の彼の言葉が忘れられない。ドキドキと早鐘を打ち続けている。
エカチェリーナの平常心は自分でも想像していた以上に揺さぶられていたらしく、ちっとも表情のコントロールができない。
モノ扱いされたのに喜ぶ自分が信じられない。けれど、彼の自分を見つめる熱い眼差し、微かに潤んだ瞳を思い出し、幸せに浸ってしまう。
このままでは明らかにまずいだろう。
今のエカチェリーナの状況では、もし今浄化をしなくてはならない状況であっても、リックスを睨むことなど到底できそうもない。それでも、万が一自分が浄化できないせいで彼が死んでしまうかもしれないと思うと、胸がぎゅううっと締め付けられて、息もできないくらい苦しくて堪らなかった。
(―――少し一人の時間を多く貰いましょう。・・・そうすれば、きっと平常心を取り戻せるわ!)
彼の為にもそう信じずにはいられなかった。
しかし、その期待は崩されることになるなど、エカチェリーナは思いもしなかったのだった。




