夜明け前 8
「は……」
部屋を出た瞬間…息が漏れた。
夢は、部屋にいる間中、ずっと息の詰まるような思いをしていたのだと、そのとき改めて気づいた。その堪らない重圧から一気に解放されて、止めていた息を吐き出し、吸うという行為を何度も繰り返した。
―緊張した緊張した緊張した緊張した
動悸が激しい。こんな形の緊張感はひどく久しぶりで、胸を抑えて、息を整えていると、その頭にぽんと手を置かれる。
見上げるとなつめが笑顔を向けて見下ろしている。
ちょっと疲れた顔に見えるのは気のせいだろうか…と思った。
「婚約解消だ…めでたく、な」
そう言っていつもの不敵な笑みを見せる。
「これで気兼ねもいらなくなった」
「あ…うん」
「言ったろう?無理なことないって」
そう言って、歩き出す。
「なつめ…」
「あ?」
歩きながら、返事をするなつめはいつものなつめだ。
でも…何か、なつめがどこかいつもと違い、大きく、そして逞しく感じて見えて、夢はそれを自然と口にしていた。
「…すごい……強くなったね」
そう言うと、突然、なつめは歩を止めた。
―え?
「?」
「まだまだだ…俺はまだ弱いよ」
なつめはそう言って俯いた。
―え?
先ほどまであれほど大人びていたなつめが、まるで傷ついた子供のように見えた。
「力が足らない。まだガキだ」
―え?
泣いてしまうのではないかと思うような表情を浮かべたなつめ。なんでそんな顔するのか、夢にはわからない。ただ、自分が何かいらないことを言って、なつめを傷つけてしまったのかと、夢は焦る。
「そんなことないよ!だって、すごいもん。神城道胤と面と向かって…」
「夢…」
「え?」
驚く間もなく、抱きしめられる。
―う…あ…っ?!
ぎゅっと背中に回るなつめの腕、すっぽりと、自分がなつめの胸の中にいるのに気づいたのは一瞬後。回された腕に力が込められ、きつくきつく抱きしめられた。
「ずっとそばにいろ。もう、突然消えるな」
「な、なつめ?」
「約束しろっ。あんなふうに消えるな!絶対だ!」
泣いているのではないかと思うような静かな…でも強い口調…
―震えてる?
「約束しろ」
-怖かった…
と、突然、思考が流れ込んでくる。これはなつめの声だ。
―あの行動?
夢はその言葉に、ふっと今朝の…あの自分のとった行動が脳裏に過ぎった。
―あれが、なつめを震えさせている?
とても信じられない。でも、今自分を抱きしめているこの腕が、胸が、全身が小刻みに震えているのは確かだ。あの道胤の前で平然と対峙したなつめが震えているのだ…
-もう…消えるな…頼む
なつめの心の叫びが聞える。
あのきりっとした精悍な表情を見せていたなつめが…こんなに震えている。ぐううっと胸が痛くなって、夢はなつめの胸に頬を埋めながら目を閉じた。
―私は、なつめをこんなに傷つけた…どうしようっ、どうしたらいい?なんて罪深い…
あんなに自分のために尽くしてくれたなつめ…自分はどうしたらいいのか、
「ごめんっ」
それだけしか言えなかった。なつめがさらにきつく抱きしめてくる。
「約束しろ」
なつめは、自分のために道胤と対峙して、婚約を解消したのだ。
こんなに想われている
それが伝わってくる。
それが堪らなく幸せで、まさに天にも昇る気持ちと同時に…途端に不安に駆られた。
―いいの…?本当に?
自分がなつめのそばにいて、いいのか、不安で堪らない。
だって…
夢はぐっと歯を食いしばる。
自分はなつめには不釣合いだということは、十分にわかっている。
だって…
―人殺しなのだ、自分は…
自然に涙が溢れる。
でも、でも…もしも叶うのなら…叶えることができるのなら…
ずっとなつめの傍にいたい。でも、いいのだろうか?
不安で堪らない。
「い…いの?」
「え?」
なつめの腕の力が、少し緩んだ。
肩にうずめた顔を上げて、覗き込むように夢を見たなつめ。
その瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか…
それとも、自分が泣いているせいだろうか…
「そばにいていいの?私…」
「…ったり前だろう!何聞いてたんだ。今まで!」
「だって…私」
思わず言葉が詰まる…
口に出して言うのがあまりにも憚れる言葉…
―私は…人殺しなんだよ?いいの?なつめ…
聞こえればいいのに…この言葉が…
痛切にそう思った。
とても口には出せない言葉。
幼い頃のあの記憶が…ずっと脳裏について離れない。
たくさんの人の悲鳴…両親の断末魔…
―あれは全部私のせい…だ
思い出しただけで全身が震える。耳をふさいでしまいたくなる。
夢は自分の手を見つめる。
こんなに血塗られた私の手は、やっぱりなつめにはふさわしくない…
だって私の手はこんなに汚れている…
こんな手を、なつめに取らせたくない…取らせちゃ駄目なんだ。
だって、なつめは…
と、ぐいっと顎をつかまれる。
―え?
まっすぐに、なつめに見つめらた。そこには驚きと、そして憂いの表情を浮かべたなつめ。
と、その表情が、くしゃりと歪んで…
「お前…っ」
「え?」
「馬鹿だ、お前は!」
「なつ…」
と…突然。
「…ふっあ」
激しく口づけをされた。
口を塞がれ、そのまま強く強く抱きしめられる。驚いて一瞬拒否しようともがくが、すぐに官能の波に呑みこまれる。
―うあ…な…つめ…
甘く熱いキスに…翻弄される。
体の奥から熱いものが湧き上がって、胸を焦がしていく。
強く強く唇を吸われるたびに、めまいに似た快感が、体中を駆け巡る。
―ああ…だめ…
自分を保てない…
「な…つ…うん」
隙を作らないように、熱く強くキスをされる。
舌が…
絡まる。
吸い取られる。
それが…こんなに気持ちいいなんて…
こんなに…熱い…
―うあ…ん
自分が、自分でなくなってしまう。快感の波に翻弄される。
なつめを感じる、
愛して止まないなつめの鼓動を、体温を感じる。
強く逞しい腕と力と…
なつめの全身を感じたい。もっと…
夢は戸惑いながら、感動していた。
どうしよう、すごい…こんな幸せってあるだろうか…
もうだめだ…これ以上は意識が保てない。
「な…つめ…うん…はあ」
自分の声とは思えないほど、甘い響きに自分でも驚く。
でも…止まらない快感はさらに先を求めたがる。
だめ…これ以上は…
「な…つめっ…」
「…なんだよ…」
なんとか声を出すと、なつめがやっと夢を離す。
「んも…ご…強引すぎ…」
「しょうがないだろう、お前のせいだ」
―え?私のせい…なの?
言われているのことが全く理解できなくて、夢は顔を上げる…と
見ると、なつめは真っ赤な顔をしている。
気づけば、こんなに明るいところ、いつ人が通るか分からないようなところ。
早朝のような暗闇ではないのだ。
全部見えてしまう。
―うわ…なんて恥ずかしい…
かくいう自分もきっと真っ赤になってるはずだ。
そう思うと急に恥ずかしくなって、下を向く。
ぴんっ
「いたっ!」
なつめが、意地悪そうに、でこピンをしてきた。
「下向くな」
「だ…だって」
「ちゃんと俺を見ろ」
そう言ってまっすぐ見つめてくる。
―う…恥ずかしいよ…
「夢!」
「だって…」
「いいか、よく聞け。俺はお前が好きだ」
―え!?突然…そんな…こと…
一気に頬が紅潮するのが…わかった。
なつめ…突然何言い出すの?!
でも、そのなつめは至って真剣な表情をまっすぐに夢に向けている。
それを真っ向から受けて、もうわけがわからず、涙目になってしまう。
「俺は、お前の全てが好きなんだ。わかるか?」
「…ふぇ…」
―とける…
そんなこと言われたら、立っていられなくなる!
思わず目頭が熱くなって、泣きそうになった。
抑えようとしたら口から、変な言葉が出て…
―もう恥ずかしいっ
堪らず顔を抑えようとすると、その腕を抑えられた。
「夢、ちゃんと聞け。わかるか?お前の、その不思議な力も、すべて好きだってことだ。今も未来もすべてひっくるめて好きなんだ。もちろん、過去もだ!」
「え?」
「お前の手は、汚れてない」
「なつ…」
「もし汚れていたとしても、俺も汚れてる。俺が今いる世界は、汚れなければ上へはいけない世界だ。自分の命を守るために、人の命を奪うこともある」
「……」
「だから…!」
真剣な眼差し。その中にやさしさが溢れている。
なつめはそう言って、夢の肩に頭をのせた。
熱い吐息が聞えた。
「俺のそばにいろ!わかるな…」
―どうして…?知ってるの?
涙が…溢れてきた。止められない…
「…聞えたの?」
なつめは、静かに頷く。
「聞こえた。それに…知ってるよ、お前の過去のことは…。知らないわけないだろう。それでも俺はお前を好きだって言ってるんだ」
「ぐ…ふぇ…」
涙をこらえようとするのに。止まらない。
また変な声が出た。
―もう、やだ私。
そんな顔を見て、なつめはくしゃと、笑顔を見せた。
「ったく、何聞いてるんだ。勝手に思い込んで…苦しんで」
やれやれといった表情だった…
その瞳にやさしさがあふれている。
「馬鹿め!」
「…だ…って。私…」
涙の止まらない夢をなつめはそっと抱きしめる。
「お前卑怯。俺の気持ちはどんどん読み取るくせに、お前の気持ちはなかなか見せないのな。フェアじゃない」
そう呟いた。
「ちゃんと言わなきゃ。わかんねえだろう。沈黙禁止な」
「そ…そんな…だって」
「だって?…なんだよ?」
意地悪そうな笑顔を向けるなつめは、とても楽しそうに見えた。
「ほら、ちゃんと言えよ」
「だって、しょうがないじゃない。わかっちゃうんだもん」
「だから、お前も言えって言っての。黙ってたら、襲うぞ」
―え?
「よし!」
突然、にやりとなつめが笑を浮かべた。
いいことを思いついた…と言わんばかりに…
「そうしよう。言わないなら、体に聞く」
「え。えええっ!?」
―な、なんてこと言うの?なつめ…!!
白昼堂々と、そ、そんな大それたことっ
信じられなくて、マジマジとなつめを見てしまう。
「信じられないって顔してんなあ~」
楽しそうにそう呟くなつめ。ニヤニヤ笑っていた。
「だって!なつめのエッチ!」
と、言った瞬間、その笑みが一層深くなる。
―え?
「…へえ~?」
―え?
「エッチ…って一体何を想像したんだ?夢は?」
―え?!
ニヤニヤ…となつめはとても楽しそうで…
-やらしいんだ~
と、なつめの「声」が聞えた。
「!?な!」
「ははっ!!」
と、なつめは楽しそうに笑う。
「なつめ!もうなんてこと…もうっ!」
はめられたと分かったのに、まともに反撃できなくて夢はぷうっと膨れ手見せた。
さらになつめは意地悪そうな笑顔を深くする。
「そうだなあ~。そうやって聞くことにしよう!俺も男だしな」
「え?」
「理性が持たないことなんてざらにあるし…今までかなり我慢してたし…」
―が?!
「我慢って?!」
「抑圧されてたからな…今朝ので解放された」
―か。解放って?
「んで、今気持ちの確認できたしな。夢もそれを望んでるし。一件落着!ああすっきりだ!」
そう言って背伸びしてみせる。
―え…えええっ!嘘…
「ははっ!」
愉快そうに笑って夢を見るなつめ…
その笑顔は。本当に楽しそうで…
「んもう!馬鹿なつめっ!すけべっ!」
そう言うと、なつめは肩を組んでくる。
「そういう夢だって、さあ…」
「な。なによ」
ニヤニヤ笑いはまだ納まらない。もの言いたげに夢を見下ろし…
-まんざらでもないだろ?
と…夢の頭の中に響いてきた「声」。
―!?
驚いて見上げると、いたずらっ子の笑顔が浮かんでいる。なつめが夢をからかうときの顔だ。
「っ!?」
「ん~?どうなんだ?」
―ぐう…ううう
「な…っ!なつめの馬鹿っ!!」
夢はその腕を払って、廊下を先に進む。
「はははは!図星だろう~?なあ、待てよ、夢」
笑いながら、追いかけてくるなつめ。
「もう。知らない!」
―確かに図星…です!
んもう…
振り返ると、やさしい笑顔。
ふわっと、肩を抱かれる。
その腕を、そのままとって指を絡ませた。
―なつめ、大好き!
こんな私でも、一緒にいていいですか?
こんな、不思議な力をもった私でも…
なつめはやさしく微笑んでくる。
窓の外からの夕陽を受けて、
なつめがキラキラと輝いているように見えた。
―どうしよう。
こんなに幸せでいいんだろうか?
生きてて…よかった…
本当に幸せで…幸せすぎて…
―なつめ…
愛してる。
いいんだよね?そう思ってしまっても。
この言葉が、貴方に届きますか?
多分この先、もの凄い波乱が待ち構えていると思う。
でも…
なつめと一緒なら、きっと平気。大丈夫。
そんな予感がする。
―私は、全力でなつめを守るから…
私の力の及ぶかぎり、全力で…
やさしく、微笑むなつめと向き合う。
逞しい手のひらを頬に感じる…
聞える?
なつめ?
愛してる…。
愛してる…
その想いをたくさん込めて、夢は背伸びをした。
fin
「夜明け前」 あとがきです。
ここまでお読みいただいて、本当にありがとうございます。
この作品は、ネット公開初作品になります。
今までは自己満足第一、で書いてきました作品でしたが、こうやって人の目に触れることができて、なんだかとっても嬉しいです。
皆様の目にはまだまだ拙い作品に映ることとは思いますが、(誤字脱字も目立つし……気づいた時点で更新してます(汗))今後もがんばって書き上げていきたいなと……思っております。
さて…ここからは裏話。
この「夜明け前」ですが、実は番外編だったりします。
本編は今執筆中のおまけ話……というか(笑)
今執筆中の本編では年齢も年齢なんで(若すぎるのです。二人が…)どうしても恋愛色が薄くなってしまうんで…
で、この話を考えていたわけです。
実はこの、なつめ君と夢ちゃんのお話ですが、長いんです。
本編があり、そして、「夜明け前」その次に本編2(まだ先の話がある)があります。
こっちの本編2のほうがですね……一番最初に考えたお話だったりしまして、本当に書きたいお話…だったりするわけです。
”先にそれから書けよっ”
と言われそうですが……(汗)
この本編2では、大人になり、立派に成長したなつめ君が大活躍!夢ちゃんの超能力もバリバリ絶好調に使いまくり~なお話…だったりするわけ(予定)です…
ま、しかし…順番にまず、先に二人の過去のお話を書き上げてしまいたいな……と思い今必死に本編1のほうの筆を走らせております
「夜明け前」はそういった事情を知らない皆さんにも
(…というか、誰も知りませんし……(汗))
読めるように、ネタばれ的な要素が散りばめられておりますが…もし気に入っていただければ幸いでございます。
この話は、シリーズとしてまだまだ続きますので、
引き続き、長い目で見ていただけて、かつ…暖かいご声援をいただけるととても嬉しいです。
よろしくお願いいたします。