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夜明け前  作者: ななまる
3/8

夜明け前 3

「夢、お前な…」


 思わず、半ば呆れたような声がなつめの口から出る。


「せっかく、来てあげたのに」


 なつめの言葉を聞いて、さも心外そうに、すねたような、怒っているようなそんな複雑な目でなつめを見上げてくる。


「だからってな、その力を無闇に使うな。心臓に悪い」

「2人だけの時はいいって言った」


 ああいえばこう言う。

 夢とのやり取りはいつもこうだ。


「大丈夫?」


 心配そうにキョロキョロと辺りを見回す夢。

 何もないことを確認して、ほっと息をついた。

 そして、夢は再びなつめに視線を戻す。


「何もない、ね。よかった…」


 もう一度ほっと息をつき踵を返す。同時に、着替えてくればよかった。という声も聞こえた。

 見ると、パジャマ姿のままだ。寝起きなのだろう。

 なつめは、思わず苦笑する。


「お前、寝起き?」


 聞くと、夢は勢いをつけて振り返った。


「だって!」


 赤くなりながら夢が声を荒げる。

 そんな表情になつめは思わず笑みがこぼれた。


「寒い、上着借りる」


 と勝手になつめの上着をクローゼットから引っ張り出して、着た。 

 勝手知ったる、という感じである。

 なつめはその夢の背中まである黒髪を見ながら、ほっとしている自分に気づく。

 先ほどまでの煮え切らない想いが嘘のように消えていることに気づいた。

 そんな自分に自然と苦笑が漏れる。


「こんな時間だから、茶なんて出ないぞ」

「わかってる。……よかった」


 後半は独り言のようにいい、夢はベッドに腰掛ける。


 なつめは、開け放った窓を閉め、室内に戻った。

 机のスタンドの明かりだけをつける。


 ぼやんとオレンジ色に薄明るくなる室内。

 そのかすかな明かりに照らし出された夢の姿がはっきりと見えた。


 きょとんとした無垢な表情を向ける少女を改めて見る。

 こうしてみると普通の可愛らしい女の子にしか見えないのに…


 この14歳の少女には常人には計り知れない力があった。

 一般的には、超能力といわれるものらしいが、夢の持っているこの力を本当にそう呼ぶのか、なつめには判断つかなかった。


 彼女の場合は、まるで呼吸をするのと同じように、ごく自然にその力を使う。


 たとえば、今のように自分の思い描いた場所や人のいる場所へ瞬間的に移動したり、触った人や物から強く残る思念を読み取ったり…

 その他にもまだまだいろいろなことができた。


 なつめが知っているだけでもかなりの多様な力を持っている。


 そう、なつめは、この"力"に助けられてきたのだ…


 ふと夢を見ると、その表情が曇っている。


「どうした?」

「何かあった?」


 逆に聞き返されてなんとなく気まずく、なつめは視線をそらす。


「別に」


 できる限り素っ気なく…言い放つ。


「もう来るなといったろう」


 1ヶ月ぶりの再会…

 二人にとっては、こんなにお互いに行き来しなかった時期はなかった。

 長い1ヶ月間だった。

 そう思うと、なつめはこの突如現れた訪問者を歓迎したくなる。

 だが…

 ここで甘い顔を見せたら、1ヶ月前に決めたことの意味がなくなる。


 夢は何も答えない。

 時計の秒針を刻む音だけが聞こえる。


 気になって、夢のほうをみると、視線が合う。


「でも、聞こえた」

「何が?」

「なつめの声。だから来た」


 そう言って、うつむく。


「…」


 その夢の表情になんだか自分がひどく夢を傷つけたような気がして、なつめは口篭もる。

 確かに、夢の事を呼んだわけではないが、考えたのは事実だった。


「私のこと、考えてた?」


 図星で、何も言えずにいると、夢が大きな目で見つめ続けている。

 居心地が悪くて、咄嗟にうそをつく。

 

「考えてない」

「嘘。呼んだ」

「呼んでない」

「じゃあ、手」


 そういって、夢は右手を差し出した。

 なつめは、思わずたじろぐ。

 右手と夢の顔を見比べる。

 

「私のこと、考えてないんでしょう?だったら、手」


 握らせろと言わんばかりにさらに右手を差し出してくる。

 やっぱり夢に嘘は通用しない。


「はあ、わかったよ。考えてました」


 観念したように言うと、夢は隙をついて腕にしがみついてきた。


「へへ」


 うれしそうに見上げてくる。

 くるくるとした大きな瞳が印象的だ。


―ったく、まるで小犬だな


「ひどい、人の事、犬呼ばわりするなんて」


 むくれて、なつめを睨みつける。

 案の定、思考を読み取られた。

 思わず出るため息…。


「夢、お前はまた」


 へへ、と笑って、腕から離れ、ベッドに体を跳ね上げた。

 無邪気に笑顔を向ける夢を見て、苦笑した。


―まったく、大した力だ…


 夢はこの特異な力のせいで小さい頃はかなり苦労したように聞いている。

 コントロール不能、力の暴走により自分の身体と精神を傷つけていた。

 今でこそ自由自在ではあるが…

 かつてコントロール不能になった夢をなつめは目の当たりにしたことがある。


―まさに人間離れしていた。


 あんな力がこの華奢な身体のどこに潜むのか…

 こうしてみると本当に普通の女の子にしか見えないのに。


 人間は特異な者を差別し、遠ざけ、そしていじめる。

 夢は確実に特異な者の雰囲気を身にまとっていた。

 一種独特の雰囲気…

 決して集団生活になじむことのできない夢にとって、学校に通っていることだけでも快挙に等しいかった。


 かつては、精神病院にまでいたことがあるとも聞いている。


 なつめに会ってから、夢は変わったと、夢の祖父に聞いた。

 明るくなり、消極的な部分が減り、無邪気な一面を覗かせるようになったと。

 何より、生気が感じられるようになった…

 夢の祖父はそう言っていた。


 今ではすっかり元気になり、明るく振舞うようになった。


 しかし、それでも。

 その姿は数限られた人の前で見せる夢の姿だった。


 他人の前では、決して自分も、そして力も見せない。

 夢はその力のせいで、化け物扱いを受けてきたのだ。


 なつめからすれば、むしろ自分の近親者のほうがはるかに人間離れした化け物のように思える。


 夢などかわいいものだ。


 なつめにとっては、単に足の速いことや、計算が速いとことと何の違いなく思えた。だからすごいとは思っても、それ以上でも以下でもないのだ。

 その力を自然に受け入れている自分にも驚くが…

 ただそれだけのこと…としか思えなかった。


 ただ、周りの人にとっては違う。

 その力は好奇であり脅威であり、恐怖だった。

 だからその力を見た者は夢を化け物扱いする。

 それはひどく彼女を傷つける行為以外の何物でもないのだ。

 だから、夢は滅多にその力を使わない。


 でも…

 そんな複雑な心情を抱えているのに、夢は自分のためには

 その力を使ってくれる。

 そして、特異なその力を見た者は、必ず奇異の目を向ける。

 わかっていながら…使うのだ。


 その時の夢の悲しそうな瞳の色をなつめは知っている。


 そんな思いをさせてしまっているのは、ほかでもない。

 

―俺が原因だ。


 夢を守れない自分が、はがゆい。


―俺には、まだ力が足らない。また悲しませる。


 これ以上、夢にそんな思いもさせたくない。

 危険な目にもあわせたくないのだ。

 だから、離れようと、心に決めたのだった。


「早く帰れ。明日学校あるんだろう?」

「……」

「お前、ちゃんと学校行ってるよな?またサボってるのか?」

「…ちゃんと行ってるよ」


 学校は夢にとって、苦手な場所だった。

 思考を読むことができる夢は賑やかで人のたくさんいるところを嫌った。

 学校は、すべての条件を満たす最悪な場所だ。

 だから…休みたがるし、今でも出席日数ギリギリでなんとか進級するのが常だった。

 でも…

 普通に生活を送るためには、行かなければならない場所だ。


「ちゃんと行けよ」

「…分かってる」


 こんな会話をしていると、なんだか父親のような気がしてくる。

 思わず苦笑して、なつめは夢を促す。


「早く帰って寝ろ」

「…」

「夢、帰れ」

「……」

「夢?」

「うん」


 夢がつぶやく。

 大きな瞳に、憂いが見えたような気がした。

 そんな顔を見たからか…胸が痛んだ。


「…わかったなら、早く帰れ」

「うん」


 そう、うなづきながら夢は動かない。

 しばらく無言のまま、夢はなつめを見つめている。


「どうした?」

「…その女の子、誰?」


 突拍子もない発言に、瞬く。

 何を言っているのか、理解できなかった。


「女の子?なんだ、それ?」


 そして思い至る。


 夢が見たのは、先ほど祖父から見せられた写真の彼女のことか。

 夢は相手の思考だけでなく、相手の見たことを疑似体験するようなこともできた。


 こういうときばかりは、厄介な力だとつくづく思う。

 つい、深いため息が出た。


「女の子ってなんのことだ」


 わざとそ知らぬふりをする。

 夢にはそれは通用しないと分かっていながら…


「写真の女の子。すごい美人」


 はあ…

 またため息が出てしまっていた。


「夢、お前な、人の頭の中、覗くなっていったろう」

「だって…」

「プライバシーの侵害。お前だってやられたら嫌だろう?」

「…」

「人にやられて嫌なことはしない。わかったな」


 言い含めるようにいうと、夢はうつむく。


「その人、誰?」


 夢の変わらぬ質問に半ばため息をついて、なつめは言葉を吐き出した


「…俺の婚約者だそうだ」


 一瞬夢の目が大きく見開いたように見えた。


「…そっか…へえ」


 そう答えて、そのまま夢は何も言わなくなった。

 奇妙な時間と空気が流れる。


 なつめは居心地の悪さと、なんと声をかけていいのかわからない煮え切らない状態に言葉を詰まらせていた。

 なにを言っても、下手ないい訳にしかならない。

 そんな気がした。


 夢は下を見つめたまま、視線を合わせない。


「あ、のな、夢…」

「結婚するの?その人と」


 言葉を選んでいたところに夢が言葉を発した。

 なんと返答するか、一瞬言葉に詰まったが…


 ため息をつきながら、答えた。


「いずれ、そういうことになるだろうな」

「ふうん」


 そこで会話が切れる。

 夢は相変わらず、うつむいたままだった。

 長い髪に隠れて、どんな表情をしているのか、ここからは見えない。

 その夢に何をどういったらいいのか。


 黙ったままの夢にどう接したらいいのか、戸惑う。 夢は動かない。


―どうしたらいい?


「その人、どんな人?」

「え?」


 突然、顔を上げて夢が見上げてくる。

 強い視線を感じた。

 まっすぐな視線…。


―?…怒ってる?


「名前は?」


 その質問になつめはたじろいだ。


「そんなこと知って、どうする?」

「知りたい」

「知りたいって…」


 聞かれて、初めて何も知らないことに気づく。

 確かにいろいろと説明を受けたが、何も覚えていない…というより耳に入ってこなかったのだ。

 そのまま素直に答えざるを得ない。


「…知らない」


 きょとんとした夢の顔。


「会ったんでしょう?」

「今日写真を見せられただけだ。今度会うらしいが、よくわからん」

「…名前とか歳とか、それくらいは聞いたでしょ?」

「歳は、聞いた。お前と同じらしい」

「へえ。…名前は?」


―名前?聞いたか?


思い出せない。


「さあ?」

「名前も知らないの?」

「そんなこと言ったって仕方ないだろう?爺さんが勝手にり持ってきた話で、俺の意思は一切無視されてる。そんなものをいちいち聞いたって時間の無駄だ」

「へえ」


 挑戦的な目で見上げてくる。


「時間の無駄…」

「なんだよ?」

「やっぱりなつめって失礼」


 さすがにむっと来る。


「なんでそうなるんだ?」

「だって、結婚って言ったら女の子にとっては一大イベントだよ。小さいころからの夢だったりするんだよ。もしかしたら相手の女の子にとっては、大切なことかもしれないよ?それなのに」


 突拍子もないことを言われて、なつめは言葉に詰まった。

 政略結婚に、夢もイベントもあったもんじゃない。露とも考えてなかった夢からの言葉に、呆気にとられる。


「私、間違ってる?」

「…え、っと。あのな、夢」

「何?」

「普通はそうかもしれないけどな…神城の結婚はちょっと普通と違って…」


 いいながら、夢の顔を見ていたら、馬鹿らしくなってきた。


「結婚に普通も異常もない」


 言い切った、むしろ威張っている。

 思わずため息が出た。


「政略結婚なんだよ。お互いの家を繁栄させるための手段。戦国時代とか江戸時代にもあったろう?それだ」

「わかってる、そんなこと」


 夢はさも当然というように言ってくる。


「政略結婚だからって、相手もそう思ってるとは限らない」


 確かに。正論である。


「そんな考え方、間違ってる」


二の句が告げずに黙っていると、夢がまっすぐに見つめてきた。

ふいにその視線がやさしくなった。


「だめだよ。なつめ。それじゃ同じになっちゃう」

「同じ?」

「なつめの、…お父さんと…」

「…!」


 がつん。

 と、なつめは何かで頭を殴られたような気がした。



 瞬間、脳裏に浮かぶ優しい母の顔。


 なつめの母、香織は、父の正妻に殺されたのだった。

 捻じ曲がった人間関係…憎悪… それが香織を死へと追いやった。


 静かに一人でなつめを産み育ててきた母。


―多分、父を愛していたのだろう。


 なつめは自分の父親のことを一回聞いたことがある。

 そのときの母の顔が忘れられない。


_優しい、とても立派な人よ。だから、なつめ。あなたは誇りに思っていいのよ


 目を潤ませながら、優しい笑顔でいった母。

 しかし、とても悲しげで…

 母を泣かせてしまったことを悔やんで、なつめはそれから一度も父のことを聞かなかった。


 母がいればいい。

 そう思っていた。


―コウは香織ちゃんと会って、変わった。まさに恋に落ちたんだよ。二人は…愛し合っていた。ずっとそばで見ていたから、よく知っている…


 なつめが命を狙われていたときに助けてくれた恩人、レイモンド=カールソンの言葉だ。

 彼はなつめの父と母、二人の共通の友人だった。そのレイモンドに見せてもらった写真の父は、若いころと晩年のころと別人のようだと、なつめは思った。

 若く活気あふれる笑顔の父と、繊細で、鋭利な雰囲気を漂わせる晩年の父。

 同じ人物かと思うほどの変わりよう…

 そういう印象を持っている。


 レイモンドの言葉を思い出す。


―だけど、状況や周りがそれを許さない。許されるものではなかったんだ。それを察してくれたんだと思っていた。香織ちゃんのほうから、身を引いたんだ。神城を支えなければいけない立場にいた光一郎のためにね。


―香織ちゃんは神城が用意した手切れ金と一緒に姿を消した。光一郎も探さなかった。光一郎も自分の責任を嫌というほどわかっていたから…。婚約者もいたしね。


 香織の気持ちを汲み、香織のことをあきらめた光一郎は、道胤の命じるとおりに結婚したという。

 しかし、その妻に対しての光一郎の態度は冷たかったそうだ。

 周囲の目には仲睦ましい夫婦として完璧に演じていても、形だけの結婚だ、という態度は親友であったレイモンド氏の目には明らかだったときいている。

 最愛の女性をこの結婚のために失ったという言葉を幾度となく聞いたと…


 だからだろう。

 子供ができなかったそうだ。


 正式な妻の立場であり、夫の愛情を求める正当な権利を持つ彼女は、そんな夫を一方的に愛していた。しかしことごとく無視され続け、ついには捻じ曲がり憎しみへと変わったのである。


 全部、香織のせいだと。


 彼女にとって、最愛の夫を病気で失ったのもすべて香織のせいだった。


 光一郎亡き後もなお、その怨恨は残り、それがそのままなつめの母、香織となつめへと向けられることになったのだ。

 ひっそりと隠れ住んでいた香織となつめを執念で見つけ出し、襲ったのだ。


 そして、なつめは母を失った。

 なつめは、決して彼女を許さない。


 しかし…

 可哀想な人だと、思ったのは確かだった。


「同じこと、繰り返しちゃだめ」


 夢がまっすぐに見つめてくる。

 その目を受け止めきれず、うつむいた。


 同じことを繰り返す…

 なつめには重い言葉だった。


「ちゃんと相手のこと、考えて」

「…そう、だな…」

「うん」


 やさしい夢の声が聞こえる。


 ふわ…


 と、そのとき、やわらかいものが、なつめを覆った。


―え?


 うつむいたなつめの頭を、夢がやさしく包み込んでいた。

 耳のそばに、夢の息遣いが聞こえてくる。

 突然の夢の行動にたじろぐ。


―え?抱きしめられている。


 そう自覚した瞬間、自分の心臓が早鐘のように跳ね上がった。


「夢?」

「動いちゃだめ」


 囁かれて、動けなくなる。

 夢に触れられている部分だけが、いやに熱く感じる。


「なつめ、本当にさよならだね」

「え?」


 突然、思ってもいない言葉が耳に届く。


「もう来ない」


 静かにやさしく、そう囁かれた。

 自分の耳を疑う。

 

―今、夢は…


 なんといった?


 どくん


 と、自分の心臓が打つ音が聞こえた。 たまらない焦燥感。

 本当に心臓を鷲掴みにされたようなそんな痛みを感じた。


「もう来ないから」


 どくん


 急激に血の気が引くような焦りが、全身を包む。

 鼓動が早くなり、視界がゆれた。


―なんだ?これは。俺はいったいどうしたんだ。


 だめだと、心の中で警鐘が鳴る。


―夢はなにを言っている?


 理解が…思考が追いつかない。


 だめだ…だめだ、だめだ!


 押し寄せる思考と感情に押しつぶされそうになる。


―何だ、これは?


「来るなって言われてたのに。来ちゃってごめん」


 かすかに響く声に、震えた。

 さらに焦燥感が強くなる。


―まて…


 囁く声。

 その耳元に聞こえてくる声が、震えていた。


「夢?」

「なつめ、最後に。もうちょっと。このまま…ね?」


―なんだ?


 角度的に夢の顔を見ることができない。

 でも…

 夢の息が熱い。


「なつめ、同じことを繰り返しちゃだめだよ」


 そう言って夢は、先ほどより少し強めに抱きしめてきた。

 やわらかい、そして暖かい感触が上半身を包む。

 夢の長い黒髪が、自分の頬にさらさらと当たった。

 いっそう、夢の息遣いを耳のそばに感じたそのとき…


―う…っ


 嗚咽が聞こえた。

 声を殺して、少女は泣いていたのだ。


―夢は…


 こうなることを初めから承知していたというのか…

 俺にはいずれ婚約者が現れる。

 父と同じように。

 そして、そのとき自分の存在は邪魔になると…

 そのために、身を引く。


―はじめから自分から、そう決めていた…?


 情けない。

 なんて俺は、至らないんだ!


 だめだ!だめだ


 否定の言葉だけが頭の中をこだまする。


 夢が自分の前からいなくなる?


 夢を自分から遠ざけた。

 それは自分のために、夢が傷つくのがたまらないからだ。

 夢の身に危険が迫るのも、力を使わせることも…

 夢が傷つくのが恐ろしく怖い。

 そんな状況に耐えられないからだ。


 夢が、堪らないほど大事だから…


―だから…


「なつめ…さよ…」


 それ以上、先の言葉を言わせてはならない。

 自分が…

 耐えられない!


 夢の体を無理やり自分のほうへ、抱き寄せる。


「…っ?!」


 驚く夢をそのまま抱え込み、ベッドに組み敷いた。

 押さえ込むように、夢を見下ろす。

 …夢のその黒い瞳が、潤んで濡れていた。


「夢、そんなこと言うな」

「だって…」


 ぐしゃっと顔がゆがむ。


「……」


 右腕をあげて顔を隠すが、その頬に涙がつたっていた。


「もう、来ない…」


 そうつぶやいた夢。泣いている。


―泣かせているのは俺だ。


心臓が…痛かった。


―泣かせたかったんじゃない。


 俺は…


 夢が…


 押さえつけてきた自分の想い。

 どうしようもない情感に突き動かされる。


 もう、無視できない。

 止まらない。


―俺は…


 そっと夢の涙をぬぐった。


「泣くな…っ」

「泣いて…ない」


 強がった声が鼓膜をつく。

 顔を見られるのが恥ずかしいというように、夢は腕で顔を隠す。

 その腕を無理やり、押さえ込んだ。

 泣き濡れた黒い瞳に自分が映る。


「そんな顔をするな、夢」

「離して」


 怒ったような困ったようなそんな表情を浮かべる夢。

 涙がまだ伝っている。


 ここで離したら、夢は本当にこのまま行ってしまう。

 そうしたら…

 きっと、もう二度と会えない。


 そう思った。


 それは絶対に嫌だった。

 もう自分を誤魔化せない。


「いやだ」

「離して」

「だめだ」

「なんでよ…離して、もう行くから」

「だめだ!」

「もういいよ。なつめ、離して」

「だめだっ!」

「なんで?」


 抵抗を受けた…

 その夢を無理やり、押さえ込む。


 溢れ返る想いを抑えられなかった。


 このまま夢を行かせるわけにはいかない。

 

―俺は…夢が…好きなんだっ


 そのまま、夢のあごに手をかけ、わずかに上を向かせた。


「?!」


 夢は驚いた表情のままだったが、気にせずにそのまま、夢のつややかな唇に、自分の唇を重ねた。

 びくっと反応する唇…を感じた。


―なんて、やわらかい…


 壊れてしまいそうな…華奢な感触を全身で感じた…


 やわらかさを味わうように、夢の唇を味わう。

 急かないように、自分の激情を必死に押さえ込みながら。

 そうしないと、この想いを思いっきりぶつけてしまいそうになる。

 ぶつけてしまったら壊われてしまいそうなくらい、夢が華奢に思えた。


 それでも、キスの嵐は止まらない。


 何度も何度も夢の唇に重ねる。あらゆる角度から夢の唇に重ねた。

 やさしく、壊さないように…


 と…

 硬直しきっていた夢の唇が、ふいに柔らかくなったのを感じた。


「ふ…あ…」


 息を止めていたのか…

 夢は堪らず、口を開けた。大きく呼吸をしている。


 そんな夢の反応が可愛く、さらに欲情が高まる。


―もっと感じたい。


 そのわずかに開いている唇の隙間に舌をもぐりこませる。


―全部を自分のものにしたい。


 もう止まらない。

 夢の舌を探り当て、絡ませあい、隅から隅まで夢を味わった。

 貪欲な欲求が自分を支配する。

 夢のすべてを感じたい。


―すべて俺のものだ!


「ぁ…うあん…」


 夢が、もう堪らないというように声をあげた。

 その声は、今までに聞いたこともないような甘い声だった。


 瞬間…

 自分の中で、何かが一気に燃え上がったのを感じた。


―なんて、いとおしい…


 キスをしながら思い切り抱きしめる

 夢の体温を自分に擦り付けようと密着する。心地よく、そしてたまらなく、やわらかい。

 壊れてしまうのではないかと思うほどの感触。


 唇から、頬にキスしまぶたにキスをする。

 そして、伝っていた涙に舐めた。


―泣くな…もう泣くな、夢。


 キスの嵐をいったん止め、そして鼻が付くくらいの近距離で夢を見つめた。


「夢…」


 自分でも驚くほど、優しい声が出た。


 潤んだ瞳で見上げてくる夢。

 その口元から、熱い吐息を洩らしていた。


「はぁ…あ…」


 視線が絡み合うと…夢は困ったように目をそらす。


「ずるい、なつめは…ずるい」


 か弱い声が鼓膜を突く。

 その両の目から流れ落ちる、涙を見たとき…


―っ!?


 その表情と言葉の意味を咀嚼する。

 一気に不安に掻き立てられた。


 自分の想いしかぶつけていない。


―夢の気持ちは?


 夢の身体に回していた手の力を解いた。夢の表情を確認する。熱くほてった表情。

 しかし、泣いている。

 泣き続けているのだ。…涙が止まらない…。


―え?俺は…?


 聞くのが怖かった。

 今したことは…暴力以外の何者でもないのか?

 だが…

 夢を困らせるのは本位ではない。


「嫌…だったか?」


 その言葉に、夢は一瞬瞳を向ける。

 明らかに怪訝な表情だった。


―え…


 そして視線をそらされる。

 流れ落ちる涙…

 その困ったような表情、仕草…


―拒絶された?


 愕然とする。


 今の行為の事の重大さに、思い至る。

 

―夢を傷つけたのか?俺は…


「ずるい…」


 そして大粒の涙が…

 またその瞳から流れ落ちるのが見えた。


―ずるい…


 頭の中に響く非難の言葉。


―俺は…


 夢を傷つけたのだ。

 「ずるい」という言葉が何より決定的な言葉となって胸を打った。

 この一方的に押し付けた気持ちは、夢にとっては迷惑以外の何者でもない。


 そう思うと、先ほどまであれほど自分を駆り立てていた何かが、一気に収束していくのを感じた。

 同時に襲われる、たまらない孤独感。

 泣きたいほど、空しさと絶望感。


 でも、それは仕方のないこと、そして、わかっていたことであった。

 この普通の人生ではない道を選択したのは、ほかでもない、俺自身なのだ…

 自分は夢を幸せにしてあげることなどできない。


 神城にいるということは、自分の感情を押さえ込みながら、利用できるものは利用していく弱肉強食の世界で生きること。

 弱みを見せたらやられる


 その戦いに夢を引きずり込むことなど、できない。

 それは自分のエゴだ。


 やはり最後まで抑えておくべきだったのだ。

 自分のこの気持ちを。


―何やってんだ、俺は…


 堪らず、抱きしめていた夢から離れ、身を起こす。

 羞恥と後悔の思いがわきあがる。

 理性が吹っ飛んだために、夢を傷つけた。


―やはり…


 俺の存在は、夢にとっては…マイナスでしかない。


―そばに…


 いてはだめだ。

 また繰り返す。きっと同じことを。


 一度、蓋を開けてしまったこの思いは、そうそう消えるものではない。

 そして湧き上がるあの情感をなつめは、また抑えこむ自信がなかった。

 自分の中の雄の部分を嫌でも感じる。


 夢がたまらなくほしくなる。

 そして、目の前にいる限りその想いは強くなり、抑えることはできないであろう。


 そのときは、また夢を傷つける。


 そうしないためには。

 自分はいないほうがいいのだ…

 離れなければ…


「ごめん」


 さらに夢から離れないと、また、抱きしめてしまう。

 この気持ちを制御できるうちに…


 夢からさらに離れるために、ベッドから立ち上がった。


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