夜明け前 2
部屋の空気が冷たい。
瀟洒な洋館風の大邸宅の一室。明かりのついていない暗い部屋の中で、青年はベットに腰を下ろしていた。
外から入ってくる月明かりが青暗く、青年の端正な容姿がその闇の中に沈んでいる。
はあ。
自然にもれるため息。
眠れない。
こんな状態に自分がなるのはとても珍しいことだった。
神城なつめはもうすぐ18歳になる。
いつもは自分でもわかるくらいの溢れ返る覇気を、無理やり発散させるように、ぎりぎりまで体を動かしていたのだが…。
なつめは祖父からの命令で、様々な体術のレクチャーを受けている。
それは、大財閥 神城家に籍をおく者の使命であった。
神城家にとって、誘拐、脅迫等の危険は身近なものである。もちろんボディガードが常時ついてはいるものの、やはり最後に自分の命を守るのは、自分自身である。
―自分の命は自分で守れ。
これが、なつめがこの家に来て祖父から最初に言われた言葉である。
なつめは祖父の厳命に従いその日から毎日、プロのボディーガードからの訓練を受けていた。
命がかかっているから当然といえば当然だが、内容は生半可なものではない。
しかしなつめにはその方面に対しての才能があったせいか、大の男でも根をあげるような厳しい訓練でさえ、エネルギーのいい掃きだし口になっていた。
そのためほとんど毎日夢も見ずに熟睡するのが常であったのだが…。
今日は違っていた。
その理由はわかっている。
―動揺している。
それは確かだった。
そんな自分に戸惑う。
わかりきっていたはず。いずれ自分にこういう状況が訪れる。
神城にいる、ということはそういうことなのだ。
頭では理解していた。
しかし…
なつめは目の前に無造作に置かれた豪奢に着飾った少女の写真を目にしたとき、少なからず動揺したのは事実だった。
夕食後に祖父からの呼び出しを受けたなつめの前に、その写真は投げ出されたのだ。
一瞬の躊躇。
もちろん、顔に出すようなことはしないが…。
「お前の婚約者だ」
祖父の低い声が、その意味を決定付ける。
「華僑の龍氏の孫娘だ。まだ14歳になったばかり」
14という言葉を聞いた時、ふと写真の少女とは違う、馴染みの顔が脳裏に浮かんだ。
「当人には今度のパーティで会う。なつめ、わかっておるな」
祖父は、ちらりとなつめを視野に入れて、念のため、というようになつめに向かって吐いた。
わかっている。
理解はしている。
自分の立場と、地位…。
それは神城家にとっての駆け引き材料のひとつである。
婚姻はすべて神城家の繁栄のためにある。
華僑との誼をここで深くすることは、今後のこの国の経済にとっても非常にメリットがある。逆に華僑からも市場拡大、スポンサーのバックアップは願ったりかなったりの状況だ。双方の絆、メリットを大きくするための婚姻。
―まるで戦国時代だ…
自然に口の端が上がった。
神城家の総取締役である神城道胤。
かつて財閥の端に連ねていた神城をここまでの大企業、大財閥に築き上げた男。この祖父の言葉は絶対だ。それが神城の掟。
先ほどの一瞬の動揺はもう消えていた。
誰もが自然と視線を落としてしまうほどの威圧感を放つ祖父。
なつめはその祖父を真っ向から見返し、静かにうなずく。
「可愛い娘じゃないか。……可愛がってやれ」
話は以上で終わりだった。
なつめは、静かに頭を下げ祖父の部屋を出る。
待ち構えていた祖父の第一秘書から、隣の部屋に通され、婚約者の詳細な素性の報告を受けた。
ほとんど耳に入ってこなかった。
その代わり。
先ほどから同じ少女の顔が浮かぶ。
―なぜだろう…。
まだ幼さの残る彼女の顔が先ほどから頭を離れない。
「もう会うのはやめよう、俺のところに来るな」
つい1ヶ月前に、なつめはそう言って彼女の前から去った。
そのときの寂しげな彼女の笑顔が、いつまでも脳裏について離れない。
―もう1ヶ月にもなるのに…
彼女とは、友人とも、恋人ともいえない微妙な関係。
そんな言葉では表せない、もっと強い関係のような気がする。
彼女は、14歳、中学2年生だ。
年も違えば、住む場所も違う。
考えてみれば接点など何一つない。
しかし、彼女と一緒にいると無条件に心安らいだのは確かだった。
そのせいか自然と会う機会も多くなり、そして……
そのたびに彼女を危険な目に合わせてきていた。
なつめと一緒にいるということ、それはリスクを負うこと。
彼女は狙ったように、なつめが危機的状況に陥っているときに居合わせた。
そもそも、それが初めての出会いだった。
なつめがまだ、一介の中学生でしかなかったときに、彼女に救われたのである。
なつめは複雑な環境で育った、この神城財閥の曰く付きの新参者であった。
神城財閥…
この国だけならず、世界の先進国経済に多大な影響を与えるほどの大財閥であった。神城グループの関連会社は世界各国に及ぶ。
各国の政界にも顔が利き、経済コントロールの中枢を握っていた。
その大財閥のトップに君臨する神城道胤。それがなつめの祖父である。
その籍に連なったのが、4年前。
なつめは神城道胤の一人息子、光一郎の息子であった。
その事実を知ったのが4年前になる。
なつめは父に一度も会ったことがない。
そして今後もそれは願っても叶わないものだった。
光一郎は、なつめが幼いころ病気で亡くなったと聞いている。
光一郎となつめの母、香織は大学時代に大恋愛をしていたという。
しかし家の問題、血筋の問題で香織を受け入れられることはなかった。その時すでに、光一郎には道胤から指名された婚約者がいたという。
駆け落ちまで考えた二人だったが…
香織は光一郎の前から姿を消してしまった。
自らの意思で…
そのとき既に香織の腹の中にはなつめが宿っていた。
香織は誰にも告げず、静かに一人でなつめを産み育ててきたという。
すべて人から聞いた話。
まるで小説か漫画か映画のような出来事がすべて自分に関係する話だったと知ったのはなつめが13歳のときだった。
母、香織の死をきっかけにして、自分の出生の秘密を知ることになった。
なつめのこれまでの人生が一変した瞬間だった。
そのときから、なつめの回りには、死があふれていた。
どうして自分の命が狙われるのかまったく理由もわからず、そしてどうすることもできないでいたなつめを救ったのが、彼女、初木夢だった。
夢がいなかったら、俺は死んでいた。
母さんと同じように…
母は事故に見せかけて、殺されたのだ。
それは永遠に表沙汰になることのない事件…神城の内情問題、そのため事故死として片付けられた。
警察ですら操作する力を持つ財閥。
なつめはそのことを決して忘れることはない。
道胤に認められ、神城に入ってからも、危険が絶えることはなかった。
神城の失脚を狙う他財閥、企業も多かったが、それよりも恐ろしいと思うのは神城家に群がる近親者たち、そして神城を支えるブレーン集団だった。
あわよくば我こそがその地位と名誉と財産をと虎視眈々と狙っている者が、とにかく多い。
そこへ、唯一無二の直系の血を引くなつめが現れたのだ。
自然なつめを毛嫌う近親者は多い。
道胤は血縁にはこだわらない。
実力主義を貫いてはいたが、やはり唯一の直系であるなつめは、そういった者たちにとっては自分の地位を危ぶませる材料だったのである。
なつめの敵は神城の中にいるのだ。
人間関係の屈折した世界。
それが神城家だった。
なつめはいろいろな意味で強くならなければならなかった。
自分を守るために。
そのための努力は惜しまなかった。
でも足らない。だから今でも、窮地という窮地を夢に救われている。
もうこれ以上は。
なつめは、夢とは違う世界で生きていくことを決めた。
会わないと決めさえすれば、接点がないのだから会うこともなくなる。
彼女はまだ中学生だ。
神城に籍をおいた自分と関わることで危険にさらすことはできない。
そう決心した。
自分の身は自分で守る。
彼女のためにも、自分が強くならなければとなつめは決心したのだ。
なのに。
彼女の顔ばかり浮かぶ。
はあ。
もう何度目のため息かわからない。自然に自分の口から漏れてくる。
自分らしくない。
婚約という二文字が現実を帯びた言葉になった瞬間、うろたえたのだ。
自分の気持ちは、押さえこまなければ。
彼女のために。
彼女を危険に合わせるわけにはいかない。
わかっているのに。
―ガキだな。
改めて稚拙な感情に振り回される自分を自覚する。
なつめは、神城の中枢に身を置かなれけばならなかった。
殺された母のためにも。
そうでないと、自分が何のために生まれ、なぜ母が殺されなければなかったか、わからなくなる。
いずれ道胤に変わる存在になる。
俺が、神城を継ぐ。
そう、決心したからこそ、神城に籍を置いたのだ。
なのに…
「こんなんじゃ、神城の名前につぶされるぜ、なつめ」
自分に喝を入れるように、口に出した。
声に出すと、さらに不安になった。
「しっかりしろ!」
また彼女の顔が浮かぶ。
寂しく笑う夢…最後に別れたときのその微笑がなつめの胸を突く。
「くそっ!」
勢いをつけてベッドから立ち上がる。
そして、気分を変えるために、部屋の窓を開け放った。
外の新鮮な空気が、なつめの頬をなでる。冬の初めの冷気が、ほてった体に心地よい。
冷気を吸い込み、一息つく。
「何やってんだ、俺は…」
「本当だよ。寒いよ、そんなところにいたら」
突然の予想もしない、背後から声。
自分以外、誰もいないはずの部屋の中から少女の声が聞こえた。
なつめは一瞬反応したが、その構えを解く。
あまりにも聞きなれた声、そして空気。
なつめはそのまま振り返らず、苦笑した。
進入不可能のはずの神城の家、しかも厳重に警備をしてある館の中…
たとえ隣の部屋にいる者だろうと、必ず誰かに呼び止められるようなセキュリティの状況で、何の騒ぎも立てず、かつプロから指南を受けているなつめに気づかれずに背後に立つことのできる者などいないだろう。
ただ一人を除いては…
聞きなれた幼さの残る声。
なつめは、自然にこみ上げてくる物を抑えるように、そのまま姿勢で背後に言い放つ。
「何しにきた」
「ひどい」
ちょっとむくれたような声。
「呼んだでしょう?私の事」
―え?
意外な返答に戸惑う。
先ほどまで背後から聞えてきた声が、前から聞こえ…、
気がつくと、自分の目の前に、少女がいた。
まるで降ってわいたよう…
その比喩がまさに当てはまるように、なつめの目の先にその姿が現れたのだ。
人が動いた気配はない。
少女は胸までの黒髪をたらし、大きな瞳をなつめに向けている。白い肌が、月明かりに照らされ、さらに白く見えた。
初木夢…なつめの脳裏に浮かび上がっていた少女であった。