予感
「じゃあよろしく頼むわよ」
下の階の経理部に行き、部下を学会に派遣した出張精算の書類を渡す。
研究室に戻ろうとしたら、本栖くんに呼び止められる。
「越田主任、最近はあの店来ないんすか?」
「ちょっとプライベートが忙しかったからね」
「いいことじゃないすか。プライベート、大事っすよ」
「ほんとはプライベートなんかないんだろ、って言いたげね。でも区切りがついたから、今晩あたり行くかもね」
「じゃあ、自分も行っていいすか? 支倉氏のタバコ一緒に吸いましょうよ」
「え? やつの名前わたし本栖くんに言ったっけ?」
「さぁ、どうっすかね」
意味ありげな笑みを浮かべて、それ以上話す気もないらしい本栖くんを残して、わたしは経理部を出た。
夕方まで仕事が忙しかったけれど、久しぶりにあのバーでのんびりしようと定時で上がりにして外に出たら、まだ辺りは明るかった。地下鉄に乗って、一度帰宅して着替えてから、また引き返してバーに入る。
案の定、カウンター席に本栖くんが座っていた。
「本栖くん、こんばんわ」
先日と同じようにロックグラスと黒いタバコの箱とをカウンターに置いている。
「主任の彼氏って、そこそこ有名人らしいっすね」
「彼氏でも元カレでもないって。なんで支倉さんのことを知ってるの」
「人事部の同期に主任の出身大学と卒業年次を訊いたんっす」
「出身大学や卒業年次なんて科研費データベースとかで公開されてる情報から推測できるからまあいいといえばいいけど、ウチの個人情報管理、どうなってんのよ。業務の必要もなしに人事にそういうことを訊くってのは感心しないわよ」
「ま、ともあれ、東都工業大学の計算機科学教室って、主任のひとつ上の卒業生は10人しかいないじゃないすか。SNSで見たら5年くらい前に『せっかく一時帰国したのに、学生の頃に吸ってたタバコが廃番になってて買えない。悲しい』なんて支倉氏がまさにこのタバコについて零してたの見たんすよ」
§ § §
「ふうん、たいした調査能力ね」
「自分、高校生の妹がいるんすけど、ウィキ百科で支倉氏の項目見てたら、いきなり、『その人知ってる?』って言うんすよ。情報の授業で支倉氏のプログラミング・ツール使って、これは日本人が作ってる、世界中でシェア100%、すごい。お兄ちゃんもウィキ百科に載るくらいの功績を残しなさい、なんて変な叱られ方しちゃって困ったっす。
支倉氏の想い出話とか聞かせてもらえません?」
「妹さんが支倉さんのファンなのなら、最近は毎年のように一時帰国してるみたいだからそのうち会う機会もあるかもね」
「あ、連絡とれたんすか、よかったすね」
「まあ、本栖くんの調査能力に敬意を表して、ご褒美に話してあげてもいいけど、おばさんの昔話なんてつまらないわよ。どこから話そうかな」
わたしは大学時代のやつとの思い出をとりとめもなく話す。本栖くんはうんうんと聞いてくれた。それから、ここ一週間ばかりのことを話す。
やつがオープンソースのプロジェクトで使っているメールアドレスは調べるほどのこともなくすぐにわかったから、だいぶん考えたあげく、「お久しぶりです、こんにちは」と一言だけのメールを書いたけれど、返事は来なかった。
数日経ってからもう一度、こんどは「コスタリカの越田です、こんにちは」と、学生のときにつけられたあだ名を入れてもう一度メールを書いたら、今度は次の日に返事が来た。
プロジェクトで使ってるアドレスはあんまり広く拡散されてるせいでゴミメールがたくさん来る。だから、そのアドレスに来るメールはプロジェクトのメーリングリストにも同時に送られているの以外は、直接ゴミ箱に行くようにしている。ゴミ箱チェックは2、3日に一度しかしないので、わたしが送ったメールに気づくのが遅れた、と謝って、これからは用があればこっちの個人用アドレスに送るように、と事務的に書いたあとに、ひとこと、「突然のメールに驚いて懐かしくなった」とあった。
§ § §
「へぇ、なんでコスタリカなんすか?」
「わたしの名前、梨香だから。計算機科学教室に最初に行ったときに、助教が名簿の、こしだりか、という名前を読んだのがなまって「コスタリカ」に聞こえて、そこから定着しちゃったのよ」
「で、焼け木杭に火をつけるのでプライベートが忙しかったんすか?」
「だから支倉くんは彼氏でも元カレでもない、って言ったでしょ。……まあ、正直言うとそんな展開になったらわくわくするかも、なんて乙女みたいなことを全く思わなかったというと嘘になるけどね。だけど、いざそうやってメールを一往復してみたら、やつを相手に話したいことなんて特にないってことに気づいたのよ。
そりゃ、あの黒いタバコが復刻したのを吸ってる子にバーで会った、とか、わたしは酒蔵に戻らずにいまも研究所で人工知能の研究してる、とか、言おうと思えば言えることはいくらもあるし、オープンソースのプロジェクトで食べるってどんな感じ、とか、まだ計算機を賢くして楽をしたい野望は続いてるの、とか、訊こうと思えば訊けることもあるけれど」
「言ったり訊いたりすることにそれほど興味が沸かない、とかっすか?」
「そうね、やつにとってはわたしはずっと昔の知り合いのひとりに過ぎなくて、やつはわたしの近況なんて興味ないと思うの。ちょうどわたしがやつの近況にさほど興味ないのと一緒で。昔はなんだか置いてけぼりにされたように感じていたけれど、いまになって考えたら、お互いに興味がないってだけなのよ。
最初のメールを一通、ただ一言「こんにちは」とだけ書いて送る決心をするまでは、連絡がついてからどうするんだろう、どうなるんだろう、ああでもないこうでもない、と考えたりしたけど、いざ返事が来ちゃったら、途端に熱が冷めちゃった。
というよりも、はじめから熱なんてなかったのにやっと気づいた、っていうことなのかな。
懐かしいと思ったって、もうそこには戻れないし、そこに戻って取って来たい宝物があるかっていうと、自分が欲しいものが、もう、昔と変わっちゃってるからね。
本栖くん、もう三十路すぎたオバサンの愚痴なんか聞かせてごめんね」
§ § §
なぜだかそこですっと零れた涙は、すぐに乾いた。
本栖くんは黙って自分の黒いタバコに火をつけ、わたしにも1本くれた。
左手に持った真っ黒なタバコの先端から、紫色の煙がほんのり立ち昇る。口の中だけでふかして、鼻の方に煙を抜くと、少しだけ懐かしい甘い香りがした。
「まぁ、何でもいつまでも同じじゃないのは仕方ないっすけど、妹に頼まれるままに色々調べてたら、こんなインタビューがあったんすよ」
そう言って本栖くんはスマホを操作してわたしに見せてくれる。
何年か前にIT系のウエブ雑誌が載せたインタビュー記事に、懐かしい顔が写った写真があった。学生の頃から比べたらもちろん年をとっていたけれど、目を輝かせた少年のような表情はあの頃と変わらない。
「ここんとこっす」
記事で、やつはこんなことを言っていた。
「昔は、計算機を賢くして人間に楽をさせる、というのを目標に考えていました。大学にいたときも、人工知能の研究室にいましたしね。人間が働いたり創造したりする必要なんかない、って。
だけど、ある人に『そんな風に楽してすることがなくなった人間は何をするの』って言われてハッと思ったんです。それから、自分のなかで『楽をさせる』という言葉の意味が少し変わったんですね。
何もしなくて良いようにする、というのではなくて、今まで手間だったことを、苦労せず簡単にできるようにする。主体はあくまで人間で、主導権はあくまで人間が握っていて。
そういう考え方をし始めたら、人工知能研究よりも人が使うプログラミング・ツールの改良開発のほうが自分の興味に合っていると思うようになったんです。そこで転向してよかったと今でも思っています。気づかせてくれたその人には感謝しています」
「この『気づかせてくれた人』って、主任のことっすよね……。お互い興味がないなんて決めつけてないで、もう一度連絡とってみたらどうっすか?」
本栖くんは元気づけてくれるように言った。
わたしは黙って頷いて、もう一服だけ軽くタバコを吸った。じゅー・ちりちりちり、と微かな音を立てながら火玉が赤く光った。