黒いタバコ
「あれ、越田主任じゃないすか」
店の奥、カウンターの角の席でスツールに陣取ると、すこし離れたスツールに座っていた男の子が自分のグラスを持って隣に移動してきた。
「主任もこういう店来るんすね」
「あんた、いくら知り合いでも、いきなり寄ってくるのは失礼よ。相手は待ち合わせかも知れないでしょ?」
「でも、待ち合わせじゃないんすよね?」
この馴れ馴れしい無作法な男の子は、わたしが勤務する研究所の経理部の若手。名前は覚えてない。
むこうはわたしの名前も職階も覚えているようだけど、上席主任研究員は主任研究員と全然違うから主任と略すな、なんて、面倒くさいからもう言わない。社内では何度か注意したけれど、一向に気にする様子もないから諦めた。
大学の計算機科学教室を卒業後、研究者として入社して何年か経つうちに、望んだわけでもないのにそれなりに偉くなってしまった。外資系企業との合弁でできた研究所で賃金面の待遇はいいけれど、自分のものとしてゆっくりできる時間は一体どこに行ってしまったのだろう。
部門の予算管理とか部下の人事管理とか、研究以外の仕事に割く時間が多くなって、自分の研究に集中できる時間はほとんどない。夜遅くまで研究所に残っていて、帰宅途中でいい加減な夕食をとり、帰ったらシャワーを浴びて着替えて寝るだけの生活。
職場から最寄り駅までの間、一筋入ったところにあるこのバーにたまに入ってカクテルを一杯飲む。ささやかな贅沢の時間だ。
「そうよ、独り飲みで悪かったわね。そういうあんたはどうなのよ、この店で見かけたことなかったけど」
大学などとの共同研究で外部の研究者や学生と会うことはよくあるけれど、部門の上司・部下以外には、社内で話す用事のある相手はほとんどない。予算関係や出張精算で毎月のように顔を合わせるこの男の子はほぼ唯一の例外だ。
「主任、さっきから、あんたあんた、って自分名前忘れられてるっすか?」
「ハナから覚えてないわよ。誰君だったっけ?」
「そりゃちょっとヘコむなぁ。本栖っすよ。慶西大学経済学部卒、入社二年目、経理部所属、本栖湊っす」
「本栖くんね。悪かったわね、名前覚えてなくて」
「そこは、『今度は覚えたわ』って言うとこっすよ。どうせ次も、あんたあんたですますつもりっしょ?」
「なんだかイヤに絡むわね、あんた。……本栖くん、酔っ払ってんの?」
「ちょっと飲んでるっす」
この男の子とは仕事以外で同席するのは初めてだ。せっかくひとりでゆっくりしようと思っていたのに。
そう思って視線を本栖くんから離し、正面を向いて溜息をついたら、ジュポっと紙マッチの音がして、幽かに甘い香りが漂ってきた。
この香りは、知ってる。
§ § §
「本栖くん、珍しいの吸ってるね」
「主任、これ、ご存知なんすか」
本栖くんの手元には、ほぼ正方形・やや縦長の、表面をシボ加工した黒い紙箱が置いてある。箱には金で縁取りがされていて、どこかの王室の紋章のような精緻な柄が金で印刷してある。
「学生の頃好きだった一つ上の先輩が時々吸ってたのと同じタバコだと思うけど、やつが吸ってたのは吸口から先っぽまで全部真っ黒だったな」
「え、学生の頃、って、このタバコ10年かそこら廃番になっていて、最近になって復活したんすよ。主任ってそんなに昔に学生さんだったんすか?」
わたしが睨むと、本栖くんは流石に失敗したなと悟ったようだった。
「すんません、女性の年齢のハナシはご法度ですよね」
「まぁいいわよ。1本くれる? いまこれ幾らするの?」
「復活してすぐは850円だったんすけど、最近は1000円すね」
本栖くんがフタを開くと、紙箱の中には金の飾り紙の下に、ロングサイズの真っ黒なタバコが並んでいる。吸い口のところだけ、金色の紙が巻いてある。
「高価いから、こういうとこでカッコつけるのにしか吸わないっすけど」
そう言いながら真っ黒なタバコを1本わたしに差し出す。
「あたしなんか相手にカッコつけてどうすんのよ」
わたしが受け取って咥えると、本栖くんはマッチで火をつけてくれる。
左手の中指と薬指の間に挟んだ真っ黒なタバコの先端から、紫色の煙がほんのり立ち昇る。
「それもそうっすね。なんか意外っす、主任タバコ吸うんすね」
「吸わないわよ。ただ、珍しいのと懐かしいからふかしてみたかっただけ。でも、相対的には安くなってるのね。わたしが学生の頃は確か750円で、その頃、普通のタバコは200円台前半だったから。最近って普通のタバコも結構高いんでしょ?」
「自分もそんなに吸わないからわからないっすけど、国産でもいいやつは一箱千円ってのありますし、普通のでも600円とかするんじゃねえかな。確かに、相対的には安くなってんすね」
§ § §
本栖くんが興味深げに注目している前で、まず一服吸ってみる。
軽くゆっくり吸い込んで、口の中を広げたまま息を止めて、喉より奥に吸い込まないように気をつけながら口の中だけで煙の香りを味わうふかし方は、学生時代、やつに教わった。そのまま、すこしだけ煙を鼻から抜いて、残りは口からゆっくり吐く。
「主任、なんかおいしそうに吸うんっすね。どうっす? 自分廃番になる前のやつは知らないんすけど」
「……香りは昔のとよく似てるけど、なんかちょっと口当たりが違うなぁ。だいぶん軽くなって、あと、ちょっと辛くなったかな。昔のはもっと甘かったように思う」
「まぁ、何でもいつまでも同じじゃあないってことすかね。その甘いのを教えてくれた彼氏さんの話とかしてくれます?」
本栖くんの目がなんだかとろんとしてきている。さっきから大きな氷をひとつ入れたロックグラスに入った茶色の液体を飲んでるけど、あれはウーロン茶じゃないだろう。
「言っとくけど、彼氏じゃないし、そもそもキミ相手にそんな話しないわよ。本栖くん、だいぶ酔ってるみたいだから、もう帰りなさい。明日も仕事あるんでしょ?」
「主任も明日仕事じゃないんすか? もう夜も遅い、ってんなら一緒に別々の家に帰ります? まあいいや、じゃあ、そういうことで、続きはまたの機会に、ってのでいいっすか?」
訳のわからないことを言ってスツールを降りるときに上体が一瞬ぐらりとしたけれど、本栖くんは転ばず真っ直ぐ立って、あちらを向いたまま手を振って帰っていった。
「続きするつもりなの? 変な子」
と独り言を言って灰皿に目を移すと、さっきひと吸いだけふかしたタバコの先からはまだ紫煙が上がっていて、先の方1センチ半ほどがダークグレーの細かい砂のような灰になっていた。
「昔は吸わないと消えちゃうタバコだったけどな」
吸わないで置いておくとたいがいの紙巻きは吸い口まで燃えてしまうが、ひとりでに消えてしまうのは葉巻と一緒で品質がいいタバコの特徴だ、なんて、昔、やつに聞かされた蘊蓄のひとつを思い出す。
香りはよく似てるけど、昔のと比べて見かけも口当たりも微妙に変わっている。本栖くんの言うとおり、世の中、一つとして変わらないものなんてない。もうひと吸いだけゆっくりふかしてから、灰皿の底に火玉をやさしく押し付けてタバコを消した。