第七話
「階段を駆け下りたように見えたのだろうが、ドローネー子爵令嬢は実際のところ、転がり落ちた。ベルナールのせいでね。彼の過失により……、と評価しても良いのかもしれないが、あれはあまりにひどかったから、その程度では済まないだろうな」
「ええっ! お兄ちゃん、なにかやっちゃったんです!?」
素直に驚きのリアクションをしたクレールに、アレクシス殿下は苦笑を見せる。
「本人はしたつもりはないのだろうけどね。まず、僕は幾人かの役員とともに生徒会室を出て、移動をしているところだった。その役員の中にベルナールとドローネー子爵令嬢が含まれていて、彼は彼女をエスコートをしていたんだよ」
「不仲とはいえ、婚約者同士ですものね。『義妹様がいらっしゃると、私の事はスポンと忘れるみたいです』と聞いておりますし、実際に幾度もあの子が放置されている場面を見ましたけれど。けれどまあ、クレールさんがいない場では、一応はそういう振る舞いをしているのでしょう」
「そう、まさにそれだよ。あの時二人は階段を降りつつあって、ベルナールが斜め前を先行し、ドローネー子爵令嬢の手を引いていた。だというのに、ベルナールはクレール嬢に気づいた瞬間、紳士としてあるまじきことに、エスコートを放棄したんだ。……いや、放棄だけなら、まだ良かったのだけれども」
私の補足に頷かれた殿下は、今度は困ったようにため息を吐かれた。
私は、そっと尋ねる。
「それまで頼りにしていた手が突然に消えただけでもかなり危険な気がいたしますけれど、それ以上、ですか?」
「ああ。ベルナールはドローネー子爵令嬢の手を引いている事を、すっかり忘れたのだろうね。パッと顔を輝かせ義妹の名を呼んだ彼は、彼女と手を重ねたままクレール嬢に駆け寄ろうとした。そのせいで半ば引っ張られるような形になった彼女は、ガクンと体勢を崩してしまったんだ。あの大階段の、手すりにも手が届かないような中央付近、まだ残り十段以上はあるというところで、ね」
「ひっ……!」
「ええっ!?」
私とクレールは、ほぼ同時に短い悲鳴を上げた。
そんな私たちを少し面白そうに見ながら、アレクシス殿下は続ける。
「よりにもよってそのタイミングでベルナールは手を引っ込めてしまい、ドローネー子爵令嬢の手は、空を切った。あれは、あまりにひどかったよ。ベルナールはもうクレール嬢のことしか見ていなかったから、一瞬ドローネー子爵令嬢の手を引っ張った意識はなかったかもしれないけれど、それにしたって」
「駆け下りたように見えた、というのは……。ああ、転がりそうになった瞬間に、咄嗟に足を前に出せることは、ありますわね」
「そうだね。けれどそんな時は、だいたい上手くバランスがとれず、おっとっとっとと数歩前進するようなことになったりする」
「それが階段上で起きたために、駆け下りていったように見えましたのね。それは確かに、『転がり落ちた』と評せましょう。ということは、突き出されていた両手も、別段クレールさんを突き飛ばそうという意思による物ではなく……」
「ドローネー子爵令嬢が自分の身を守るため、反射的に出していた物だろう。それを、クレール嬢とぶつかりそうになったその時に、自身の斜めの方向にクレール嬢を動かすために使ったように見えたよ。クレール嬢を自分の下敷きにしてはいけないと考えたのだろう」
「突き飛ばしたのは確かにしても、それは自身の落下にクレールさんを巻き込まないため。怖い顔というのも、ただ必死の形相だったのでしょう。どんな淑女だって、階段から転がり落ちる時にまで穏やかに微笑んでなどいられませんわ。……まあその、多少はベルナール・ダルデンヌに対する怒りもあったとは思いますけれど」
「それも仕方のないことだよ。むしろ、大いに怒るべきだ。けれど少なくとも、クレール嬢に対しての悪意故では、きっとなかった」
「そうですわね。ということはやはり、あの子はクレールさんをどうこうしようとしたのではないのでしょう。本当にクレールさんに危害を加えるつもりならば、勢いのまま全身でぶつかれば良かったのですから」
「あたしが転んだのはコテンって感じだったけど、お兄ちゃんの婚約者さんは、ドダーン! って感じでした! 下じきにされてたら、きっとすごく痛かったです!」
アレクシス殿下と私の重ねた推測に、クレールからも同意するような意見が上がった。
「そうだね。ドローネー子爵令嬢はクレール嬢の隣に落下し、かなり強く全身を打ち付けたようだったよ。痛々しく呻いていて、呼吸まで苦しそうなほどだった。後から聞いたら、あちこちの打ち身と、肋骨にはヒビが入ってしまったとか。転がり落ちていた間に体勢を戻そうと無理をしたのか足首も痛めていて、それは捻挫だったらしい」
続いたアレクシス殿下の補足に、そんなこととは知らなかった私は、知らずにのんきに過ごしていた自分自身に少し落胆してしまう。
「なんてこと……。あの子は家の都合でしばらく学園を休んで領地に帰っていると聞いておりましたのに……。実際には、怪我の治療のためでしたのね……」
「事実、伯爵家と子爵家で家同士の話し合いを行っているところなのかもしれないけれど……。卒業という慶事の前に騒ぎにするのはと、子爵家が遠慮をしたのかもしれないね。あるいは、きちんと婚約破棄に持っていけるように準備を整えているところなのかな」
そんなアレクシス殿下のお言葉の最後の部分に、私はきっとそうであろうという思いを込めて頷き返した。
あの子は私たちの一学年下、クレールと同級生だ。
自身の卒業式でないのはまだ良かったが、あの子は私の卒業を直接祝えない不義理を詫びる手紙をくれた。
その文面にはどこか悔しさがにじんでいるようであったが、そういったことであればそれはさぞ悔しかろう。私も悔しい。
なので、きっとそうであろうというか、そうであれ。
格下の子爵家から婚約破棄をするために、入念な準備をしているのだということであってくれ。
ダルデンヌ伯爵家との婚約を継続するため泣き寝入りしようだのなかったことにしようだの内々に処理しようだのというつもりだったら、私が暴れてしまう。
「あれはただただベルナールだけが加害者で、ドローネー子爵令嬢はむしろ被害者だったと、僕の名にかけて証言しよう。この場においても、後々、必要になった時にも」
アレクシス殿下が心強いお言葉をくださり、私は少し心を落ち着ける。
そうだ。ベルナール自身が他国の要人と国の役人がそろったこの場でこの話を持ち出した以上、なかったことになんてもうできないのだ。
ベルナールが被害者だとしていたクレールもわかってくれたようだし、少なくともあの子が糾弾されるような事はもうあり得ない。
「実に不可解なのだが、むしろなぜこれでベルナールはドローネー子爵令嬢やリュシエンヌを責めることができると思っていたんだろうね……? エスコートを途中で放棄したという事実だけでも、自身に非がないわけではないと気づけそうなものだけど……」
その時ちょうど、アレクシス殿下が私が考えていたような事に関連する疑問を呈された。
なるほど。これが、先ほど殿下が『まさか、それを、言ってしまうのか……』と呟かれた理由か。
どうしてベルナールは、わざわざこの場で自分が不利になる話をするのだろう、と。
「あれだけショックを受けていたからには、あの子に好かれている、あの子が嫉妬でそんなことをしたのだろうとでも、思い込んでいたのでしょう。アレクシス殿下が仰った通り、手を引っ張った自覚はなかったのでしょうし。婚約者よりも義妹を優先したら婚約者が凶行に及んだとでも、思っていたのでは?」
私の返答に、アレクシス殿下は納得されたように頷く。
「ああ……。あの時クレール嬢の取り巻きは、クレール嬢の証言だけを聞いて騒いでいたんだよ。なにせドローネー子爵令嬢は、痛みで喋ることも難しかったようだから。その騒ぎ方がちょうど、『醜い嫉妬だ』『いや、ルサージュ公爵令嬢の命令があったのだろう』なんて調子だったね。それに同調しているうちに、ベルナールの認識も歪んでしまったのかもしれない」
「きっとそうなのでしょう。アレクシス殿下は、下心丸出しの馬鹿騒ぎから距離を取り怪我人の救護にあたっておられたとのことです。そのため殿下から訂正はされず、ということのようですし」
「それもあるけど、ドローネー子爵家がどう対処するつもりかわからないうちは、見たことを言い触らさずにいた方が良いかなと。一応、子爵には手紙で、見た事も証言してもかまわないという事も伝えておいたのだけど」
「子爵から王太子殿下を頼るというのは、そう気軽にできることではありませんわ。アレクシス殿下の手間が最小限に済むようにというのもあって、準備に時間をかけているのやもしれませんね」
私は、そっと指摘した。
「リュシエンヌの親友のためならば、僕はすぐに動くのに。気が回っていなかったな。君なら友人として頼ってもらえた可能性が高いのだし、リュシエンヌに話を通しておけば良かったね」
しゅん、と気落ちしておられるアレクシス殿下に、私はきっぱりと首を横に振る。
「いいえ、きっとこれで良かったのですわ。私そんな事を聞いたら、子爵の動きを待たず機をうかがうこともせずに、すぐに怒りのままに動いていた気がしますもの」
「リュシエンヌは、身内とみなせば手厚く保護し、敵とみれば果断な処置を行うものね。……そういうところも、すごく好きだよ」
「まあ……。私も……」
「はい、そこの二人、今はそんな場合ではありませんので」
殿下と私が良い雰囲気になりかけたところに、敵に割って入られた。
この敵とはつまり、我が父ルサージュ公爵なのだが。
父、いいや、我が怨敵よ。
私は、殿下が評価した通りの人間であるので。
絶対に近い内にきっちりと果断な処置を行うからな。首を洗って待っておけ。そのマントだけで済みはしないからな。