ある老人の回想
老人は独り、窓際の椅子に座って窓の外の海を眺めていた。眼下に広がるのは絶壁、そして果てのない海だった。
老人は孤独だった。世界でただ一人生き残ってしまった人間として、彼は強制された血なまぐさい狂気と共に、その後半生を生きてきた。
だが、彼のその狂気も、ようやく終わりを告げようとしている。
彼の眼は、穏やかだったが、しかし、静かな意志をたたえていた。
「確かめねば」
自らの意志を確認するかのように、しわがれた声を喉元から押し出すようにして、彼は言った。
眼をつむれば、あの二人との唐突な出会いがまざまざと思い起こされた。
「思えば、私はあのとき、まだ狂気の夢から醒めていなかったのだろう。」
それは、数カ月前のこと。老人はいつ終わるともしれない狂気に疲れ、眠っていたときのことだった。
本来、使用人以外は入ることのない彼の居室を、少年と少女が訪れた。日の出前、屋敷がまだ動き出す前の時間。
「うわー…すごい。広いよ、このお部屋。」
少女が感嘆の声を挙げる。
少年は声を潜めて、
「ヘレン、あんまり大きな声を出しちゃだめだよ、
ここはみんなから入っちゃダメって言われてるんだから」
と少女を注意する。
少女はムッとした顔で、
「わかってるわよ、アヒム。これは内緒の探検なんだから。」
部屋は広く、一方の壁には一面書棚が置かれていた。その書棚の手前には机と、実験用とおぼしき器具類、書物類が雑然と置かれていた。
反対側の壁にはソファーが置かれ、そこでは老人が疲れ果てた様子で眠っていた。
「あ…アヒム、おじいさんが寝てるよ。」
「本当だ、疲れてるみたいだし、起こさないように静かにしよう。」
少年は机の近くに近づいて、机の上を見た。そこには大量の実験器具―――色とりどりの液体が入った試験管や顕微鏡―――が並べられていた。
「すごい…これで実験とかしてるのかな。」
少年はまじまじと試験管を眺めて呟いた。少女は興味津々の様子で、机の上の顕微鏡を覗こうとしていた。
「あっ、ヘレン、勝手に触っちゃだめだよ。」
そう制止しようとして少年が少女の肩に触れた瞬間、少女は驚いて試験管をひっくり返してしまった。色とりどりの液体が机の上に広がっていく。
「…あっ、こぼしちゃった。アヒムが驚かすから…」
少女は泣きそうな顔で少年を振り返り、どうしよう、これ、と訊いてきた。
「ご、ごめん。とりあえずそこの雑巾で机の上を拭こう。
…あとでおじいさんにあやまらなくちゃ。」
少年は手早く雑巾で液体を拭うと、少女の方を見た。見れば、少女はぼうっとした顔で外を見つめていた。
「ヘレン?」
「ねえアヒム、見て。日の出よ。」
見れば確かに、窓の外、海の向こう側の水平線上には明るくなった空と、顔を出し始めた太陽とが姿を現し始めていた。
少年はしかし、日の出ではなく、朝の光に照らされた少女に
見惚れていた。
「鳥や動物たちは、自然は、何も変わらないのに、
どうして人間たちはみんな死んでしまったのかしら?」
どこか寂しげな眼をして、少女はそんなことを呟いた。
「どうしてこんなこと考えるのかな…わたし。」
ねえ、と言って少年の方を少女は振り返る。
「時折ね、夢を見るの。もしわたしがもっと色んな仕事ができたら、って。
他のみんなはいろんな取り柄があるのに、わたしは不器用だし、
要領もわるいし、うまく仕事もこなせない。
みんな、わたしは仕事向きに造られてないって。
でもね、だったら、わたしって何に向いてるんだろう、アヒム?」
少女は寂しそうな顔で笑いながら、そう言った。
「わからない。でも、君はきれいだよ。」
と、少年は知らずしらずのうちに口にしていた。
少女は驚いて少年を見て、問い返した。
「アヒム、いま、なんて」
「君は、きれいだ。」
少年は力強く言い返した。
少女は机の上に置かれた小さな鏡の側に寄って、自分の顔を見た。
「わたしが、きれい…?
髪はくせっ毛だし、
眼は見るだけのものだし、
唇はしゃべりやすくしてるだけ。
ねえ、アヒム、きれいだったら、何かの役に立つの?」
少女は不思議そうな顔をして少年に問いかけた。
少年はためらいがちに、
「わからない、わからないけど―――君を見ていると心臓が高鳴るんだ。」
そう答えてから、
少年は、窓際に飾ってあった花瓶から、一輪の花を抜き取った。
その茎を短く手折ると、少年は少女の髪に花をさした。
「アヒム?」
少女が問いかけると、少年は恥ずかしそうに顔をそむけた。
「ねえ、アヒム、どうしてわたしのことを避けるの?
もう、ちゃんとこっちを見て。」
そういって少女は少年の手を取った。
「ヘレン、いや、その―――」
その時だった。年老いた、だがしかし、
確かに存在感のある声が部屋に響いたのは。
「そこに、いるのは…誰だ?誰か、帰ってきたのか?
…お前たちは、誰だ?」
場の空気が凍り付く。その老人は、部屋のあるじであり、
そしてこの屋敷のあるじでもあった。
老人はソファーから立ち上がり、精気のない瞳で少年と少女を見定めた。
「お前たちは…見たことがないな…どこから来たのだ、お前たちは。」
少女は老人の視線に怖気づいたのか、俯いていた。
少年は怖気づくことなく、老人の眼をしっかと見据えて、
「ここにお仕えしているロボットのアヒムです。おじいさん。」
と、答えた。
老人は"おじいさん"という言葉に反応して、目を細める。
「その子は?」
「この子は僕と同じロボットのヘレンです。
ほら、ヘレン、挨拶しなきゃ。」
少女はうつむいたまま、ヘレンです、と挨拶した。
老人はほう、と嘆息をもらすと、
「恥ずかしいのかい?よく顔を見せておくれ、ロボットのお嬢さん。」
骨ばった老人の手が、少女の腕を掴む。
「いや、やめて…!」
すると、少年が老人と少女の間に割って入った。
「おいやめろじいさん! 彼女は嫌がっているじゃないか!」
老人は少女の腕から手を離し、
「ほう、君は彼女を守るというのかね。…君たちはいつ、造られたのだ?」
と、二人に問いかけた。
「知らない。僕は気がついたらヘレンと一緒にこの屋敷にいたんだ。
誰に造られたのかも知らないし、そんなこと、どうだっていい!」
老人は、ふむ、と呟くと、
「恥じらい、守ること、怒り―――正体不明のロボットか。面白い。
このお嬢さんを解剖室へ連れて行け。」
少年はえっ?と声を挙げると、
「彼女で実験するんだ。はやくしろ。」
老人は平然な顔をして恐ろしいことを告げる。
少女は少年の後ろで恐怖に震えていた。
「手伝いを呼んでくれ。すぐに取り掛かる」
少年はわなわなと腕を震わせて、
「ふ、ふざけるな! ヘレンにそんなことさせるか!
じいさん、それなら俺を連れて行け! 解剖するなら俺を解剖しろ!」
そう叫んでいた。
少女は我に返って、
「アヒム、やめて、そんなことはしないで!」
そういって少年にすがりついていた。
老人はため息をつくと、少女に向かって
「お嬢さん、落ち着きなさい。」
そういうと、少年に対しては一層きびしい声で、
「それでは、お前は命を捨ててもよいと、そういうのだな?」
と、問いかけた。少年はしっかりうなずくと、
「俺はずっとヘレンと一緒にいたんだ。ヘレンを死なせてたまるか!」
と答えた。
老人はうなずくと、
「よかろう、ならば君が彼女の代わりになるのだな。」
そう言って、少年の肩に手を置いた。
だが、少女は少年にすがりつく力を強めて、
「いやよ、アヒム、いや…!」
そういって大粒の涙を流し始めた。
老人はここで初めて戸惑いを見せた。ロボットが涙を流す?
これではまるで人間のようではないか。いや、あるいは…。
「お嬢さん、なぜ泣くのかね。このアヒムは、君にとって何なのかね?」
少女は涙を拭って、しっかりと老人の眼を見た。
老人はふと気がついた。この顔は、以前、
まだ他の人間たちが生きていたころ、見かけた"誰か"に似ていた。
(この顔は…どこかで…)
「わたし、アヒムに死んで欲しくない。
切り開くのは、私にしてください。」
「ヘレン?!」
少年は驚いて少女を見ていた。
そう、それはまだ昔、この屋敷にも、他に人間がいたころ―――。
あれは、誰だっただろうか…。
「イヤよ、わたし、イヤ、ずっと一緒にいたんだもの…!
わたし、あなたが死んで、自分が生き残るくらいなら…!」
少女は進んで部屋の外に出ようとする。
「そんなことさせるもんか!」
少年はそういって少女を抱きしめ、
「じいさん、あんたには俺たちのどっちも、殺させない!」
そう叫んでいた。
ああ、そうだ―――。
あの娘の顔は、この悲劇を産んだ女の顔にどこか似ている―――。
老人は最後に問いかけた。
「それは、なぜだね」
少年と少女は力強い眼で老人を見ていた。
その眼にはもはや怯えはなく、生きようという意志で燃えていた。
「俺たちは、二人で一人だから―――」
「まさか…な…ロッサムの忘れ形見とは、なんと皮肉なことか。」
老人は屋敷の地下、"工場"と呼ばれる建造物の隠された地下室に足を踏み込んでいた。
エドアルト・フォン・ロッサム。この屋敷の本来の持ち主であり、
人工生命を「創始」した、張本人。
彼は神に挑戦し、人の手で人間を造ろうとした。
しかし、彼はついに成功しなかった。表向きは、そのはずだった。
だが。
彼はその生涯の最後に、自らの持てる技術と、自らの生命を引き換えに、
完全なる人間の複製を作り上げたのだ。
彼は、自身と、彼をその狂気に駆り立てた所以である亡き妻に似せて、
その創造を完成させたのである。
今、老人の目の前には、おそらくあの少年と少女が生まれたであろう
古びた設備が横たわっていた。
「ああ、だが、しかし―――主よ―――これで―――」
老人は満足だった。人類の中でただ一人生き延びてしまった自分。
そして、エドアルトの甥、アンゼルム・フォン・ロッサムが作り上げた
不完全な人間の複製に囲まれて、喪われた生命の秘宝を
再び取り戻すために血塗られた狂気に堕ちた自分。
その労苦は、ようやく報われたのだ。
アンゼルム・フォン・ロッサムの「ロボット」たちは、欠陥品だった。
もとより、どれだけうまく作ったところで、20年が彼らの寿命だった。
毎年、800万人のロボットたちが、発狂、あるいは動作不良を起こして、死んだ。
アンゼルム・フォン・ロッサムの遺した生命の秘宝は、
あの娘に似た女が、その死の直前にことごとく焼き尽くしてしまった。
ゆえに、ロボットたちは自らの数を増やす方法すらわからず、
ロボットの工場はただ、肉と骨の塊を産み出すだけで、
創造主亡きあとの世界でそう長くない滅びの時を待つばかりだった。
否、ただ一人生き残った自分にすべての望みを託し、
「主人」などとおだてあげて、生命の秘宝の再現を望んだ。
だが…これで。
この血塗られた業から逃れることが出来る。
何体ものロボットたちを解剖することを強制され、
目を背けることも、拒否することも叶わず、死ぬこともできず。
それも、終わり。
「ガル、あんたは、わかってたんだな」
遠い昔に死んでしまった旧友に向けて、呟いた。
老人は、地下室から背を向ける。
「この部屋は閉鎖しよう。もう、二度と来ることもあるまい。
…この部屋には、何もない。それと、工場も。もう、必要がなくなった。」
イエス、マスター、と無機質な声が応える。
そして数年の時が流れ、少年と少女は青年になった。
二人は結ばれ、やがて月満ちて、女は子どもを産んだ。
老人は、立って歩くこともままならず、寝たきりになっていた。
父となった息子は娘に寄り添い、
母となった娘は子どもを抱いて、嬉しそうに老人に語りかけた。
老人は、ようやく見ることができたこの終わりに、とても満足していた。
滅びるだけの世界は、ついに新しい始まりを見ることができたのだ、と。
「ねえ、クイ爺、この子に名前をつけてあげて。」
と、娘はそんなことを言う。
そういえば、前々からそんなことを言われていたような気がする。
「ああ、そうだなあ…。」
近頃はすっかり眠っていることが多かったし、
記憶も悪くなってきていたから、そんなことも忘れていた。
ふと、ある名前が思い浮かんだ。
人間が死に絶えてしまってから、ずっと彼に仕えてきた一人のロボットの名前。
娘は目をまるくして、その名前を繰り返し呟いてから、
「いい名前ね、あなたもそう思うでしょ?」
と夫に確認するように問いかける。
息子もまた満足気に頷いている。
娘はありがとう、クイ爺!と嬉しそうに言った。
そして老人は二人に語りかける。
「これからは、お前たちの時代だ。………」
思えば、長いこと生きてきた気がするが、
こんな人生なら、悪いこともなかったのではないか。
こうやって次の時代の始まりを見届けることができたのだから―――。
短い期間だったが、再び家族を持つこともできた。
これ以上の幸せは、あるまい。
さあ、
行け、
世界は君たちのものだ―――。
そして老人は永い眠りにつき、物語は幕を閉じた。
原案
カレル・チャペック作
R.U.R.(Rossum's Universal Robots) 終幕より