5ー1 前進
お読み下さりありがとうございます。
小鳥のさえずりが聞こえてきた頃、ゆっくり瞼を開き小さなあくびをした後で顔を横に向ける。隣りで寝息を立ててスヤスヤと気持ち良さげに寝ている彼の姿に安堵すると「ほっ」小さな吐息が漏れた。
気づくと彼の腕は私の首の下と、腹部を越えて反対側の腰に手が回されている。今朝まで、私を抱きかかえながら寝ていたようだ。よく腕が痛くならないなと感心する。
起こさないようにゆっくり彼の腕を私の上から退けると静かにベットから下りた。
『ふぁー』
あくびをして体を伸ばしてから、音を立てないようにそろりと私室へ向かう。
部屋の扉をゆっくり閉めた後で、朝の用意を手早く終わらせるといつもより早起きをしていることに気がつき、寝覚めのモーニングティーを飲むため厨房へお湯を貰いに行こうかと部屋から出ようとしたところで外から扉が開かれた。
「おはようございます」
小さな声で俯きながらワゴンを押して入室してきたのは、侍女のソフィアだ。顔を上げると瞼を腫らして真っ赤になった涙目の瞳で私を見る。
「ソフィア?その顔はどうしたの?何かあったのですか?」
「……ご、ごめんな……さい。昨日は……サイラス殿下が……せい……フェ……フェ、フェルーナ様に…嫌……われる…われ……た――」
泣きながらソフィアは、一生懸命言葉を発している。
全く持って理解できないちぐはぐな言葉を繋いでいくと、昨日のことを謝ると同時に私に嫌われたらどうしよう。多分、そんな感じの内容だと思う。
「ソフィアが謝る必要はないわよ。私の方こそごめんなさい。サイラス殿下にソフィアの居場所を教えたのは私なの。一度、二人でゆっくりと話をすることを薦めてしまったし……応接間の扉を開くと揉めている様子だったから、一気に怒りが込み上げちゃったわ。ソフィアは大丈夫だったかしら?」
「フェルーナさまぁー」
彼女はわんわんと泣き出し涙が次から次へと流れ出す。そして、腕を目元に持っていき袖を使って涙を拭いだした。腫れ上がった瞼が更に傷ついてしまうだろうに。
私は、急いでハンカチを濡らしソフィアの瞼に軽く押し当てる。
「それで、サイラス殿下とはゆっくり話をすることが出来たのかしら?」
「はい。今までのことから卒業式までのこと、これからのこと、考えてること……たくさん話を聞くことができました」
「そう。よかったわ」
真っ赤に瞼を腫らした瞳をキラキラと輝かせているのを見ると、今後のこともきちんと話しができたのだろう。私は一先ず胸を撫で下ろす。
主寝室からラングイットが起きてくる。
ガウンを掛けただけの彼の姿にソフィアが驚愕した。
「あ、あんた何考えてんの?ここはフェルーナ様の部屋よ!フェルーナ様の前に、そんな格好で出てくるなんて信じられないわ!今まで以上に嫌われても知らないから」
「はぁー。朝からキャンキャンするなよ。フェルーナが俺を嫌うはずがないだろう?」
ソファーへとラングイットが座るとソフィアにも座って瞼を冷やすようにと伝え、私はソフィアが押してきたワゴンからポットにお湯を注ぎ、モーニングティーを淹れる。
ずっと泣いていたであろうソフィアには今日はゆっくり過ごしてほしくてカモミールティーを、ラングイットには今日一日私に付き合ってもらうことになっているので、元気に朝を迎えるようにシトラスティーをチョイスした。
「それで?昨日はサイラス殿下と今後のことも話し合ったのか?」
「俺達もそろそろ伯爵領へと引っ越しになる。ソフィアがいつまで通えるのか分からないが、俺達が居なくなったら本邸へ通ってくれるか?」
「えぇ。落ち着くまでは通いたかったから本邸に戻れるなら嬉しいわ」
「ただ……私は結婚してもフェルーナ様の侍女でいたかったから、王子妃になるなんて考えたこともなかったし、いくらサイラス殿下と話をしても自分のことを話している気がしなくて。気力も出ないし、心にぽっかり穴が空いた感じなの」
そう言って苦笑いをし、ソフィアはお茶を飲み干すと退室していった。
軽く朝食を済ませた後で、ラングイットと一緒に馬車に乗り込む。今日は二人で実家であるシベルク伯爵家へと向かう予定になっている。
途中、王都で人気のチョコレート店へ寄ってお土産を購入した。
アレン兄様の大好物のチョコレート菓子。
以前、夜中にラングイットが実家に私を探しに行ったときに心配をかけてしまったから……というのは口実で、地に落ちたであろうラングイットの印象を向上させるための賄賂のようなお土産だ。単純なアレン兄様は、大概のことはチョコレートでどうにでもなる。
シベルク伯爵家の門を通過し邸へと到着する。すると勢いよく実家の扉が開かれた。
息を切らし紳士らしさの欠片も見えないアレン兄様は、私と同じ紅茶色の髪を振り乱し蜂蜜色に緑がかった瞳でこちらを睨みつけてきた。
やはり、アレン兄様は思った通りの出迎え方だ。期待を裏切らないその行動に、馬車の中でラングイットに伝えた通り、私は兄様の前で『シスコン』を利用した言い回しをすることにした。
「アレン兄様!先日は、ちょっとした夫婦喧嘩で夫が実家へと押しかけてしまったみたいでごめんなさい。私が悪かったの。夫には申し訳ないことをしてしまいました。そのせいで、兄様にも心配をかけてしまいました。……アレン兄様ごめんなさい。許してくれますか?」
指を絡ませ両手を胸の前で合わせると、私は上目遣いで申し訳け無さそうな表情を作る。瞬きをしないようにアレン兄様の顔に視線を集中して私は口を開く。そうすることで最後の謝る言葉あたりで瞳が潤うのだ。
すると、アレン兄様の顔がみるみる変わり出す。先ほどまで眉を吊り上げラングイットを睨んでいたかと思いきや、今度は眉尻を下げて心配そうな表情で私に視線を向けてきた。
「フェルーナが悪いことをしてしまったのか。ラングイットにはきちんと謝ることが出来たんだろう?俺がフェルーナを心配するのは当然のことなんだし、気にすることはないぞ」
ちょろい、兄様ちょろ過ぎる。
その後でラングイットが口を開く。
「アレン義兄様、先日は突然押しかけてしまい申し訳ありませんでした。初めての夫婦喧嘩で恥ずかしい限りです。今日は王都で大人気のチョコレートをお持ちしました。沢山の種類があったので、フェルーナと二人でアレン義兄様のために美味しそうなチョコレートを選んで来たのです」
ほとんど棒読みのようなラングイットの口調は、チョコレートという菓子の魅惑にかき消されているようだ。
何故ならアレン兄様は、ラングイットが手に持つ大きな箱の中身がチョコレートだと知ると『コホン』と咳払いをして、箱から目を離せなくなっている。そして、すぐに応接間へと通してくれた。
応接間へ通されるとカレンがお茶の用意をしに入室してきた。
「フェルーナ様。良かったですね!私も色々と……一安心ですわ」
「いつもありがとう。カレンがいなかったら、今こうしてラングイットと一緒に居ることはなかったと思う」
その言葉に、不思議な表情でラングイットが首を傾げる。
「ん?どういうことだ?」
「私が邸を出たとき、カレンが商団の事務所に来てくれていたのよ。貴方とのことで、私の背中を押してくれたのはカレンと、シベルク伯爵家の執事の息子のラフィルだったのよ。二人とも幼馴染みで近々婚姻を結ぶ予定なの。それと、二人が結婚するに伴ない、カレンはこの後商会で働いてくれることになっているのよ」
「ラフィルと結婚?おめでとうございます。彼はとても素晴らしい方だ。絶対に幸せになれますよ。……もしや、フェルーナにドレスを届けてくれたのは――」
「ふふっ。素敵なドレスでフェルーナ様はとても喜んでいらっしゃいましたわ」
「私は、お二方には頭があがりませんね。その節は、大変お世話になりました」
カレンと話し終えたところで、アレン兄様に商会の話を切り出す。
終始無言で私の話を聞いていたアレン兄様は、話が終わると腕を顎に当てながら瞼を閉じる。何やら考えている様子に、私はこの後のアレン兄様の言葉を待つ。しばらくすると、兄様は目を開きお茶を一口口に含んだ後で私を見る。
「今の話を聞くと、俺じゃなくてラフィルに任せてみてはどうだろうか。ラフィルなら商会の事も全て分かるし、内容も理解しているだろう。いくらフェルーナの兄だからといって、新たにトップが代わるとなると、商会の人間が萎縮するし。そうなると、効率が悪くなる。ならば、ラフィルが適任だな。フェルーナは、会長となればいい。今までの客も納得して離れる心配はないし、更に今まではフェルーナ個人の商会として見られていたわけだが、これからはリグニクス伯爵家の商会となれば、客が倍増するぞ。売上もかなり上昇するだろう」
そう言って、兄様は口角を上げた。
しかし、客が倍増するとは?売上も上昇するとはどうしてだろう。兄様が言い切る程の確信はどこからくるのか?
「どうして、それだけでお客様が増えるのですか?」
私は、首を傾げて兄様に尋ねる。すると、兄様は呆れ顔を向けてきた。
「それは、今まではフェルーナの後ろにはシベルク伯爵家だけだった。しかし、今はリグニクス伯爵家があり、その後にはユリシーズ公爵家とシベルク伯爵家、更には王命での結婚だったために王家までいるんだぞ。繋がりを持ちたい貴族達が商会に集まってくるだろう」
そう言われてみれば、ここ最近の売上がうなぎ登りで増えているとサリーが言っていた。その為に人員を増やすことになったのだ。売上げの上昇が、私がユリシーズ公爵家の次男と結婚したからとは考えもしなかった。
しかし、ラフィルかぁ。ラフィルになら任せてもいいと思うけど、接客したことがないのよね。それに、当の本人を説得する自信がない。何と言って首を縦に振らせようか――。
アレン兄様の言葉に、私は考えを巡らせる。打開策を沈思黙考していると、隣に座っていたラングイットが下から覗くように私の顔を見た。
「何か心配事があるのか?俺には商会のことは分からないが……ラフィルに任せたとして、彼には優秀な侍女だった彼女もいる」
そう言って、ラングイットはカレンに視線を移す。
「カレン嬢も商会で働くのだろう?···ラフィルだけでは不安なら、足りない部分を補い合うように二人に任せればいいではないか?」
「···えっ?わ、私もですか?無理です。商会の仕事だなんて···私は、商会を立ち上げた際にフェルーナ様の後ろに付いていたことしかないのですよ?商会の仕事をした事もない人間なのですわ」
ラングイットに指名され、カレンがあたふたしているのを横目で見る。さすが私の夫だ。良いところを見逃さない。カレンなら、叱咤激励しながらラフィルを上手くコントロール出来る。更に、ラフィルの首を縦に振らせる必要がなくなる。カレンを説得すれば、もれなくラフィルが付いてくる――。
「無理ではないわ。カレンは商会を立ち上げた頃は、どこへ行くにもずっと一緒に付いてきてくれたわね。お客様達もカレンの事を覚えていらっしゃるはずよ!ラフィルが平社員より役員になれば、カレンだってこの先安泰でしょう?給金だって増えるのよ」
「フェルーナ様、無理です。私は何も出来ませんもの」
「大丈夫よ。美味しいお茶を振る舞う事が出来るのだし、カレンは従業員の仕事をサポートしながら覚えればいいだけよ。カレンが出来なそうなことはラフィルが率先してやるはずよ」
私が定期的に商会を訪れることで、どうにかカレンから了承を得られることが出来た。
ラフィルの居ない席で決めてしまったが、決まると同時にカレンはやる気に満ち、一度決めれば前へと突き進む彼女にラフィルも首を縦に振るだろう。なんだかんだといって、ラフィルは尻に敷かれるタイプだし。
次の日、ラフィルに昨日のアレン兄様との話をした後で、カレンとも話しをし「商会をラフィルに任せる」ことに決まったと報告をする。
ラフィルは口を開けたまま固まった。
「ちょ、ちょつと待て!なんでこうなった?」
「元を辿れば、ラフィルが言った言葉からよ?……任せる人が貴方に変わっただけよ」
そして、ラフィルが私に言った言葉をそのまま返す『大丈夫。皆、一人前になっているわよ』その後で、ラフィルが言ったようにみんな成長しているわと私はニコリと微笑んだ。
早くに邸へと戻ると、商会でのことを報告にラングイットのいる執務室へと向かう。
彼の机の上には大量の書類が山の様に重なっていて、扉を開けた場所からではラングイットの姿が確認できない。私が入室したことにも気づいていないようだ。
手前のテーブルを使い書類の処理に追われていた執事が顔を上げる。私は人差し指を立たせ口の前で「しー」と言う。そのまま執事の対面に座り、テーブルの上の書類に手を伸ばし筆を持つ。執事は涙目でこちらを見た後でペコリとお辞儀をすると、直ぐに視線を書類に戻し筆を走らせた。
昨日も、私の予定に付き合わせてしまったが、ラングイットは伯爵家の仕事については何も言ったことがない。こんなに仕事を溜め込んでいることも知らなかった。今までも、ずっとそうだったのだろう。私には商会の仕事があったから――。
自身のことしか考えていなかったのだとつくづく思う。でもこれからは――。
そう思うと、涙で目が霞む。でも、泣いている暇はない。彼の優しさに甘えていた分、今できることから私も伯爵家の仕事をこなしていかなければと、手に持つ筆を動かす速度を上げた。
誤字脱字がありましたら
申し訳ございません。




