3ー1 準備
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次の日、私は商会の5階にある一室に足を運んだ。
この階には部屋が4室あり、従業員達が仮眠や休憩などが出来るように設けられた部屋になっている。
その内の一部屋は、商会で会計業務をしているシベルク伯爵家の執事の息子であるラフィルが使用していた。
そして、1番奥の部屋が私の部屋だ。
学園を卒業してから商会を軌道に乗せるために夜遅くまで働いていたので、邸に帰れない日にはここに泊まり次の日を迎えていた。
2ヶ月くらい使われていなかった部屋だが、ご近所さんが経営しているなんでも屋さんに、週に2回の掃除をお願いしているので今からでも直ぐに使えるくらいに綺麗になっている。
ドアから向かって左側にあるクローゼットを開き、右手で拳を作ると顎に置いたまましばらく頭の中を整理する。
今までは寝泊まりしかしていなかった部屋だけど、少しの間ここで生活をするとなると、最低限のものが必要になるわね。
部屋の奥にある浴室を覗き、その隣にある給湯室もチラリと見るが、ここで問題が発生した。
どれだけ考えても無駄なはずよね。
私には一人で生活するための情報が全くないのだもの。
たかが一人暮らし、必要最低限の物を揃えたくても伯爵令嬢だった私は知識がなかったのだ。
簡単に考えていた私の考えは浅はかだった。仕方がない。生活出来るようにするには協力者が必要だ。
となると···協力者に相応しい人物は一人しか思い当たらないわね。
そして私は、階段を下りて事務所の扉をくぐると、机に向かって書類を捌いているラフィルを呼び出した。
「ラフィル。お願いがあるのだけれど···」
「ちょっと待ってて下さい」
締め作業に追われていて忙しい彼は、不機嫌な表情を浮かべてチラリと私を見た。
みんな今日は忙しいらしく、机に向かってひたすら書類と睨み合っていた。
『カリカリ』と筆を走らせる音だけが響き渡る中、私はみんなにお茶を配った後で自分の机に座り、ラフィルが手を止めるのを待った。
しばらくすると、ラフィルは筆を置き机の前で伸びをした。欠伸をしながら中央に設置されているソファーへドカリと座ると、カップを片手にお茶を口へ運んで面倒臭そうな表情で私を見る。
「ふぅー。それで、お願いとは?」
声まで面倒臭そうな彼に、私は無理矢理眉をハの字にして申し訳なさそうな表情を頑張って作った。
「明日、カレンをここに連れてきてほしいのだけど···」
カレンは、シベルク伯爵家の侍女だ。私付きの侍女だった子爵令嬢の彼女は、ラフィルの幼馴染みで婚約者でもある。
「カレンを?」
ラフィルは職場にカレンを連れてきたくないと言った。
「お願い。一日だけだから。カレンの力が必要なの」
「はぁー。力が必要って?理由を教えて下さい」
更に嫌そうな顔を私に向けながら、彼はお茶を一口口に含んだ。
「···えぇーと」
「えぇーと、何ですか?」
「5階の私の部屋なのだけど、少しの間生活出来るように物を揃えてほしいの···です」
一気にみんなの視線が私に集中した。
私は目だけを左から右に動かすと、みんな口をポカンと開らき大きく見開いた瞳を私に向けていた。
「コホンッ」
一度咳払いをすると、みんなはまた机に向かって筆を動かし始めた。
「もう家出かよ?まぁ、敵対している家門へ嫁いで辛い思いをしているのは分かるが···。そうだな。分かった。明日、連れて来てやるよ」
その日の午後、私は仕事を早退して邸へ帰った。今日はラングイットは午後から外出すると言っていたし、私付きの侍女らは学園へ行っているため、夕方までは邸に来ない。
なので、侍女らにバレないようにちょっとだけ私物を整理しに帰って来たのだ。
結婚するにあたり、ほとんどの物が両陛下が用意して下さったので、私物といってもあまり無いのだが。
私が伯爵邸を出る際にアレン兄様が淋しくないようにと言って持たせてくれた『オルゴール』。父様と母様が持たせてくれた私の瞳と同じイエローダイアモンドの『ネックレス』。王城のパドリック医師にいただいた珍しい書物『東洋薬草図鑑』。最後に···一応いただいたのだからと思い、ラングイットとの結婚当日にしかつけなかった『結婚指輪』。
それらを小さなトランクに入れると、明日の出社の際に忘れないように鏡台の隣に置いた。
着るものや生活の必需品などは、明日カレンと買い物をするとして、ここにある物は全て置いて行くつもりだ。
とりあえず、今日出来ることはこのぐらいだと思い、ソファーに座ると15時を過ぎていた。
昼食にと買ってきたベーコンドック。時間は昼から大分過ぎてしまったが、空腹には勝てずに遅い昼食を食べるとお腹が満たされた。
私は昨夜のラングイットの言動を思い出していた「今夜は何もしないよ」そう言った彼は、どんな表情をしていただろうか?彼の策略はなにか?どんな目的があるのか?何がなんだか分からない中で、私は一日でも早くここを離れなければならないと自分に言い聞かせる。
それなのに、名残り惜しさで自問自答を繰り返してしまう。あー!私って、面倒臭い人間だったのね!
すぐに離婚は出来なくても、『白い結婚』であれば2年後には別れられるのだ。
しかし「そんなことを一度も言った覚えはない」といった彼。その言葉を思い出せば、悦に浸る私と、疑念を抱く私。私の中に、両者が存在しているのだ。ならば進むべき道は、自身の力で未来を切り開くための道。それは、後者の自分なのだ。
ソファーにもたれ掛かってこの先のことを色々と考えまとめていると、外の様子が騒がしいことに気がついた。
その後で、私室の扉が開かれるとルイザが鼻歌を口ずさみながら入室してきた。
「···♪♪♪···ヒュッ···フェ、フェルーナ様!申し訳ございません」
私が部屋に居たことに驚いたルイザは、一気に息を吸って慌てている。いつも無表情でいる彼女の驚いた表情に珍しいものを見たと、私はクスッと笑ってしまった。
「とんでもないわ。いつもこの時間にいないのにビックリさせてしまったわね」
睡眠不足で体調が良くないために早目に帰宅したのだと彼女に告げると、ルイザはさっさとベッドをメイキングしだした。
言いたくないので言わなかったが、昨夜使用したベッドはそれではない。ルイザ、ごめんね。
「ルイザ。来て早々に申し訳ないのですが、入浴を先に済ませたいので用意してくれますか」
「わかりました。すぐに用意いたします」
そして、浴室から出てきたところで、連日の疲れを取るかのように深い眠りを求め、ルイザに軽い睡眠作用のあるお茶を淹れてもらった。
「ルイザ、ありがとう。今から寝るから、今日はもういいわ。昼食が遅くなってしまって食べたばかりだから、夕食はいらないと厨房に伝えてくれる?」
ルイザが部屋から出ていくと、彼女が整えてくれたばかりのふかふかなベッドへ入り、私はそのまま眠りについた。
翌朝。まだ暗い時間に目が覚めた。いつもより早い時間に起きた私は伸びをした後で、大きな口を開きあくびをする。
「ふぁー。ぐっすり眠れたわー」
そして、ベッドから下り両手を挙げて拳を作りもう一度伸びをすると、そのままの格好で固まった。···えぇー?ど、どうしてぇー?
ソファーにもたれ掛かって寝息を立てているラングイットの姿を目にしたからだ。
絶対に、起こしてはいけない。絶対に、起きたら面倒なことになる予感しかしない。そう思い、彼にそろりと肌掛けを掛け、私は水音を立てないように顔を洗った後で、更に物音を立てないように脱衣所で着替えと化粧をする。荷物を持ち、静かに静かに部屋を出た。
部屋を出てエントランスへ降りると、マリアナが朝の出勤時間だったらしく、前から大きな口を開きあくびをしながらやってきた。
部屋でラングイットが寝ていることを伝えてから、朝食の籠を邸の扉まで持ってきてほしいと伝えた。
外に出ると朝日が気持ちいい時間になった。日の光を浴びながら邸前に植えてある花を観察する。
生け垣の手入れの良さに庭師の腕が伺えた。
そこにマリアナが朝食の入った籠を持ってきてくれると、前方から馬車がやってきた。扉の前で停まった馬車に乗り込むと、馬車は商会に向かってゆっくりと走りだした。
いつもより早い時間に商会へ着くと、鍵を挿して扉から中へと入る。誰もいないこの空間は久しぶりだ。
給湯室でヤカンに火をつけたところにサリーが現れた。
「おはようございます。フェルーナ様、今朝は早いですね」
「昨日は、早く帰らせてもらったからね」
「締め作業、終わってるので今日は確認をお願いしますね。あっ、ラフィルさんが収支内訳表が間に合わなかったから一日待ってほしいって言っていましたよ」
沸きたてのお湯の火を止めると、ティーポットにドライフルーツのオレンジ、レモン、グレープフルーツと茶葉を入れお湯を注ぐ。3分蒸らした後でカップに注ぐとシトラスティーの完成だ。
サリーの机にカップを置くと、私も自分の机でカップを左手に書類に目を通しはじめた。
書類を半分くらい見終わったところで書簡が届き、サリーが内容を確認する。
その内、私宛のものが2通。どちらも宝石店からのデザイン画の要請だった。
「フェルーナ様の予定が空いているのは4日後と7日後に成りますが、伺う日はいつになさいますか?」
「それ以降でお願い。4日後は領地に行かなくてはならなくて、7日後は学園の卒業式に呼ばれているのよ」
「わかりました。では、10日後の午前にサンジュエリーで、午後からフラワーストーンで宜しいでしょうか」
「えぇ、その日でお願いします」
サリーと予定を確認しているところにラフィルがカレンを連れて入室してきた。
勢いよく私が席を立つと、カレンは瞳を潤わせながら微笑みを浮かべた。
「カレン!」
「フェルーナお嬢様!とてもお会いしたかったです!」
「私もよ!」
「一ヶ月半振りになりますでしょうか。お痩せになりましたね」
そういって彼女は私を抱きしめた。
久しぶりの再会に弾む話は尽きないが、カレンに最上階の私の部屋を見せた。
「では、こちらで生活できるように最低限の物を揃えれば宜しいのですね」
「そうなの、少しの間ここで生活するつもりなの。他国で住む場所が決まるまでの間、ここが1番落ち着いて住めると思って。でも、この話はまだ両親と兄様には内緒にしてもらえるかしら」
「分かりました。でも、早い内に伯爵家の皆様には伝えて下さいね」
そうして二人で王都の商店街へ買い物にでると、カレンは次々に買い物を始めた。
大きな物は配達を頼み、小さい物は馬車に詰め込みあっという間に必要な物が買い終わる。
「カレン。お昼は何を食べたい?」
「近辺で、何かお勧めのものはございますか?」
「お勧め···そうだわ!お勧めかは分からないのだけど、カレンはサンドイッチが好きよね」
最近出来たばかりのお店は、搾りたてのフルーツジュースと、お客様が具材を選んでから作ってくれるサンドイッチが人気だとサリーがいっていたのを思い出す。
「私もまだ食事に行ったことがないのだけれど、サリーが『うちの商会に取り入れたい』って、いっていたお店よ」
昼時のためか、店内は大変混雑していたが私とカレンは無事にテーブルを確保した。
店員さんが注文を取りにくると私は『ベーコンと卵』と『チキンと香草』、カレンは『ハムサラダ』と『ベーコンとマッシュポテト』のサンドイッチを2つずつと日替わりスープを注文する。
「フェルーナお嬢様。隣のテーブルの方たちがお飲みになっているものは何でしょうか?」
隣のテーブルを覗き見るカレンの様子に私もそちらに視線を向けると、それは真っ赤な液体がカップの中で湯気を立たせているものだった。
店員さんが私たちのスープを持ってくると、私はそれが何かを聞いた。
「トマトの煮込みのスープです。当店で1番人気のスープになります」
「トマトですか。では、追加でそれを1つお願いします」
次にサンドイッチと一緒にトマトのスープも運ばれてくると、カレンにスープを試食するように促した。
「フェルーナ様。こちら、とっても美味しいです。フェルーナ様も一口どうぞ。···はい、アーン」
スープを掬ったスプーンを目の前に出され、私は顔を赤らめながら口を開いた。
「どうですか?」
「美味しいわ!」
玉ねぎ、香草、ニンニクを加えて煮込んだのだろうと、口の中で何やら確認しながら食べている彼女の顔は愛らしかった。
食事を終えて商会へと荷物を運び入れると、カレンは側から荷解きをし、次々にそれらを使用する場所へと置いていく。
「フェルーナお嬢様、こちらに引っ越してくる日には必ず――」
「下着だけは全部持ってくる。さすがに何度も言われれば、私だって覚えるわ!」
今日だけで何度も『下着』の話をされると、私は久しぶりに吹き出して笑った。
カレンとの他愛の無い会話がとても嬉しい時間だった。嫁ぐ前の私は、こんなふうに声を出して笑っていた。そう、毎日を新鮮な気持ちではつらつと過ごしていた。
『トン、トン』
ドアを叩くノック音の次に、ラフィルがカレンを迎えにきた。
「フェルーナ様の部屋は準備が終わった?そろそろ帰らないと遅くなる」
「·····あっ、そうよね。カレン。今日はありがとう。会えて嬉しかったわ」
カレンは、手伝いが終えれば帰るということをすっかり忘れていた。胸が名残惜しさで潰されそうだ。私はニコリと微笑んでお礼をいうと、カレンは眉を下げてポケットからハンカチを取り出した。
「フェルーナお嬢様。気持ちと行動がチグハグですよ。カレンはいつでもお嬢様の味方です。呼んで下さればいつでも会いにきます」
悲しいときに笑顔で泣かないようにといいながら、彼女はハンカチで私の顔を拭った。
誤字脱字がありましたら
申し訳ございません。