第四話:消える気配と、虚ろな目
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霊樹の根元で伏せていたワダチの狼の耳が、ピクリと動く。
ワダチはミコトに自らの正体や目的を話した後に、狼の姿のままうとうとと微睡んでいた。傷はミコトの力で治癒したものの、失った体力は直ぐには戻らない。大地との親和性が高い狼のままで霊樹に寄り添っていれば回復が早いだろうと、ミコトと共に芝生の上で休息を取っていたのだ。
「──気配が、消えた」
ワダチはゆっくりと狼の精悍な顔をもたげる。ワダチは狼の姿を取ったとき、霊的な力を最大限に引き出せるのだ。特に今日は満月、最もワダチの力が高まる夜である。
無意識にワダチは自分の周囲の霊的な気配を探っていた。流石に島全域はカバー出来なかったが、知覚が及ぶ範囲、商業区画と思しき方面にはコヨミともう一人の気配があった筈なのだ。
──そのコヨミの気配が、今、消えた。
流石にそれが何を意味するかを分からない程、ワダチは馬鹿では無かった。
「……行かなきゃ、助けなきゃ」
ワダチは四肢に力を込めゆっくりと身を起こす。万全とはいかないものの、もう随分と体力は回復していた。これならば大丈夫そうだ、とワダチは安堵する。
「何処へ、行くの?」
心配げにミコトが問う。ワダチはその金色の瞳を覗き込み、言葉を選んだ。
「仲間が、戦っている仲間がピンチなんだ。行かないと、加勢しないと」
既に気配は消えた。だから今から駆け付けてももう手遅れかも知れない。しかし、行かないという選択肢はワダチには初めから存在しない。
「戦うの?」
哀しげに、寂しげに揺れるミコトの瞳を正面から受け止め、ワダチは頷く。
「ミコトは此処に居て。必ず、必ず戻って来るから。危なくなったら何処かに隠れていて、絶対に見付けるから」
力強いワダチの言葉にミコトは俯くように頷く。ワダチは、約束する、と言い残し、夜の中へその身を躍らせた。
──狼の脚は人間のそれよりも、ずっとずっと速い。月光で力を増した今のワダチなら尚更だ。
「コヨミさん……、生きて、生きていてくれ……っ!」
その身を風と化しながらワダチは叫ぶ。
月下に、狼の遠吠えが遠く、遠くこだました。
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「ほらコヨミ、痛くない、痛くないからね? ちょっと冷たいかもだけど我慢してね?」
チギリは優しく、母親のように優しくコヨミに語り掛けながら、腕を、触手を動かす。
話し掛けられたコヨミは何も喋らず、ただ黙って頷いていた。その瞳は虚ろに見開かれたままで、何も光を映さない。ただ為されるがままに、薄く唇を開いて涎を垂らしたままじっと時が過ぎるのを待っていた。
そこは商業区画の一角に設けられた広場。刈り揃えられた緑や花が配され、洒落たテーブルやベンチが据えられた、買い物の際に皆が休憩を楽しむような場所である。休日ともなればキッチンカーや露店が並び賑わうであろうそんな空間に、チギリとコヨミは移動していた。
広場中央にある噴水でコヨミは身体を洗われていた。ぼろぼろになった服を脱がされ裸に剥かれて、血でどろどろに汚れた身体を丁寧に撫でるようにチギリに洗われながら、コヨミはずっと虚空を見詰めている。
しばらくして粗方洗い終わり、チギリは産毛のように柔らかい毛の生えた触手でコヨミを包んで水気を拭き取ってやると、にっこりと微笑み掛ける。
「ホラ、これで綺麗になった。ね、コヨミ、可愛いよ」
「……私、きれい? かわいい? ほんとう……?」
言葉に僅かに反応し、コヨミはうっとりと白痴めいた笑みを浮かべる。チギリはそんな壊れた人形めいたコヨミを優しく抱き締め、あいしてるよ、と囁いた。
──人形。そう、まさにコヨミは人形じみていた。その心は完膚なきまでに壊され、一切の自我は失われ、ただ少しの言葉に反応を返すだけの、血肉の通った人形であるのだから。
いや、もしかしたら人形とすら呼べないかも知れなかった。何故なら、その姿はもう──。
そんな二人の時間を楽しんでいたチギリに、唐突に声が投げ掛けられた。
「幾許かぶりだな、チギリ。首尾は上々のようで何より」
降った男の声にチギリは笑顔を歪め、空を仰ぎ見る。
「何よ突然。邪魔しないでよ」
チギリの視線の先、月光と照明に薄められた闇の中、夜よりも濃く黒い霧から現れたのは黒いマントコートを着た男。ひらりとインヴァネスを翻しふわりと地に降り立ったのは、『結社』のリーダー格であるスタレ・ススグだった。
「コトホギ・コヨミは中々の強者だと聞いていたが……流石と言うべきか」
「あーしに掛かればチョチョイノチョイよ。あーしに堕とせない女はいないってね。それに、あーしは前からコヨミに目え付けてたんだから。折角の機会、この好機に頑張らなくてどうするってのよ」
ふふん、と胸を張るチギリに、ススグは僅かばかりの苦笑を返す。
「確かに大したものだ。しかし、『ソレ』はどうするつもりだ? 飼うのか?」
「勿論飼うわよ! あーしが責任持って世話するからいいでしょ? それに、もうこっちの陣営に引き込んであーしの所有物になったんだから、この殺し合いルールも大丈夫よね?」
「ああ、それは問題無かろう。しかし、……毎度の事ながら酷い趣味だな」
「そう? 可愛いと思うんだけど……」
ススグの落とす呆れと諦めの視線に、チギリははにかみながら首を傾げた。頑張ったんだから、と血で真っ赤に染まったドレスのまま自慢げに笑う。
二人の視線がコヨミに注がれる。
──コヨミの身体は、チギリによって手を加えられ無残なものとなっていた。
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