第32話 絶望
『レナ……殺す……』
魔物の発した言葉は、あまりにもあり得なかった。
レナは思考が停止してしまい、時が止まったかのような感覚に陥った。
(どうして……私の名前を⁉︎)
そう思うのが、精一杯だった。
ウルネス王たちにも、どういうことなのか全くわからなかった。この魔物たちが、一人の人間を標的にするというナンセンス。
誰ひとり言葉を発することができない。レナも、ぼう然と魔物を見ていることしかできなかった。
すると突然、レナは胸ぐらをつかまれた。
それは、険しい表情のメルブ将軍だった。
「レナ! どういうことだ⁉︎」
メルブ将軍は、先日の占いのことを思い出さずにはいられなかった。
「なぜあいつらが、おまえの名前を呼ぶんだ⁉︎」
レナは、ゆっくりと顔を上げた。その顔は血の気が引いて真っ青だった。
体は震え、まさにパニックになる寸前だった。
「あ……あぁ……!」
レナは目に涙をいっぱいため、首を横に振るのが精一杯だった。
「レナ! 答えろ!」
メルブ将軍は、構わず怒鳴った。
見かねて、アトス将軍が止めに入る。
「メルブ様……今は、それどころでは……!」
ウルネス王も自分の城に起きている事態に、とてつもない恐怖を感じていた。どうすればいいか、などという言葉では済まされない。
そして、いたってシンプルな疑問。
われわれは、この魔物たちから、生き延びることができるのか――?
この現実は、まさに地獄の始まりだった。
現れたのは、神殿に封印されていた不死の魔物であると推測できた。これだけの、しかも不死の魔物を相手にするとなれば、人々に希望はなかった。
(この数の、魔物を相手に……)
全員、同じ思いが頭をよぎる。
(……どう戦えばいいんだ⁉︎)
その時、覚醒した魔物が雄たけびを上げた。その声は人々の体を貫き、恐怖を増幅させた。
そしてついに、魔物たちは人々に襲いかかった。
ウルネス王たちにとって、今までのどの戦いよりも厳しく、なんの経験も参考にならないことは間違いなかった。
しかし人々は、絶望が支配する未知の戦いに、足を踏み入れるしかなかった。
レナも迫り来る魔物から、無意識に体が動いたが、避けきれず簡単に弾き飛ばされた。倒れた体は、地面を滑っていく。
「っ……!」
地面に倒れたまま、まだ放心状態のレナ。
(こんなの……夢だ)
自分の体なのに、ちっとも動かせない。
(きっと、悪い夢を見ているんだ……)
地面を見つめながら思った。
(そうだ……このまえ見た悪夢と、どこか似てる……)
しかし顔を上げると、目の前には絶望が広がっていた。
「…………!」
レナの表情が苦痛にゆがみ、目から涙がこぼれた。
みんな、必死に魔物と戦っている。それがやけにくっきりと、そしてスローに見えた。
レナはただ、ぼんやりとそれを眺めていた。
「はっ⁉︎」
突然、気配を感じ見上げると、魔物と目が合った。
『レナ……約束……殺す……』
「⁉︎」
魔物の口が、ゆっくりと開きながらレナに向かってくる。
(食われる……!)
そう思った瞬間、急激に恐怖が込み上げ、ものすごい叫び声を上げた。
「きゃあああぁ!」
その時、魔物の口を何者かが切りつけた。レナを助けたのは、メルブ将軍だった。
「レナ! しっかりしろ!」
傷口から飛び散った魔物の血が、レナの顔にかかり、思わず顔を背ける。
「ひっ……!」
生暖かい血の気色悪さに、レナの心はついに限界に達した。
(私、本当に……魔物に狙われてる……)
心臓が激しく脈打つ。
(私……どうしちゃったの? 私に何が起こっているの?)
自分の肩が、脈を打つ度に痛んだ。
(ああ……肩の傷が痛い……)
至る所から、悲鳴が聞こえる。
(怖い……)
レナは得体の知れない何かが、体の中から込み上げてくるのを感じた。
(怖い――!)
「ハーッ、ハーッ、ハーッ……」
レナの呼吸が急に荒くなった。
その苦しそうな姿に、メルブ将軍が叫んだ。
「レナ、大丈夫か⁉︎」
その時、うつむくレナの横顔を見て驚いた。
「はっ⁉︎」
その目は光っていたのだ。
そしてメルブ将軍は、なぜか全身に鳥肌が立った。見てはいけない恐ろしいものを、見てしまったように感じた。
(レナ⁉︎ おまえ……!)
その時、ウルネス王が叫んだ。
「レナ! 死にたくなければ戦え!」
その声に、はっとわれに返るレナ。
「ウルネス様……」
瞳の光が、すうっと消える。
「今は、生きるか死ぬか、それだけだ!」
いつもレナが聞いていた、あの堂々としたウルネス王の力強い声だった。
ぼんやりとしていた視界が、少しずつはっきりしてくる。顔を上げると、先程と同じ絶望が広がっていたが、少しだけ違って見えた。
目の前に、ウルネス王の姿があった。
「レナ! 戦え!」
「ウルネス様……!」
その奥では、アトス将軍が率いる部隊が中心となり、魔物と死闘を繰り広げている。
「奴らはまだ動きが鈍い! 今のうちだぞ!」
「切って切って、切りまくれ!」
兵士たちは、この状況でも勝機を見いだし、戦うことしか考えていない。
レナはつぶやいた。
「みんな戦ってる……」
剣を握る手に、自然と力が入る。
「私も戦わなきゃ……」
(私は兵士だ……! 戦うことが私の使命だ!)
ついに、レナの瞳に精気が戻った。