第6筆 反省会
俺はもう一度、自分の作品を読み返してみた。
「御釈迦様は犍陀多が地獄に落ちて以来、悪党がたとえば蜘蛛を助けるような善い事を致したとしても、糸を垂らしてやることをやめるとお決めになったそうでございます。御釈迦様はお疲れになった様子で、自らの弟子に『私はもう疲れてしまいました。地獄にはやはり浅間しい罪人しかいないということがはっきりと判ってしまったからです。しかし、もしあなたがこの蓮池の間に見える地獄から、救い出す価値のある者を見つけたというのなら、この極楽の蜘蛛の美しい銀色の糸を、この白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下ろしなさい。そのような者がいれば、の話ですがね』とおっしゃったのでございます。
弟子はそれから、蓮の葉の間から下の様子を見ていたのでございますが、ふと犍陀多は今どうしているだろうかとの考えが頭をもたげました。犍陀多は相変わらず地獄の底の血の池で他の罪人と一緒に浮いたり沈んだりしているのでしょうが、もう一度蜘蛛の糸が垂れてくることを願って、毎日空を見上げるようになったのかもしれないのでございます。もしも犍陀多が自分ばかり地獄からぬけ出そうとするその無慈悲な心のために蜘蛛の糸が切れたのだということを良く判って、心の底から反省したというのであれば、もう一度だけ蜘蛛の糸を垂らしてやってもよいのではないか――――そう思ったのでございます。
そんなことを思っているうちに、弟子は『お釈迦様、このように糸が切られて地獄に落ちていくのをただ見続けることは、本当に正しいことなのでしょうか』と独り言ちていたのでございます。」
この後弟子は犍陀多にもう一度チャンスを与えてやるよう釈迦を説得しに行くわけだが、釈迦は「お好きになさい」と突き放す。釈迦としては犍陀多に最後のチャンスを与えたつもりだったので、今更弟子が何をしようと変わらないと思っているわけだが、弟子はそれでも地獄から助け出してやろうとして、もう一度蜘蛛の糸を垂らす。
そこで一応この話は終わりなわけだが、改めて読むと彩菜ちゃんの言う通り、弟子があまり悩んで結論を出したようには見えない。最初から『それでも犍陀多を救ってやるべきなのではないか』という俺の中で決まっていた結論、言うなれば最初に『蜘蛛の糸』を読んだときに感じたその思いをただなぞっただけ。そもそも『蜘蛛の糸』は原作からして既に完成しきった作品だから、これ以上何かを付け足すことは蛇足にしかならないのかもしれない。
そうだな―――もし書き直すとしたら・・・。そもそも『蜘蛛を一匹助けたこと』はそんなに『善い事』なのか。別に蜘蛛は敵に襲われていたわけでもなんでもなく、ただ犍陀多が踏みつぶすのを留まったから結果的に助けてやったことになっただけだ。少なくとも俺達人間の多くは蚊やゴキブリを見つけ次第殺してはいるが、蜘蛛を潰すという奴に出会ったことはない。だったら蜘蛛を殺さずに無視するのは人間としては当たり前のことで、それを「殺そうかな。でもやっぱ可哀想だからやめておこう」というのは、「助けた」とは言わないのではないか。
だとしたら蜘蛛の糸を釈迦が垂らしたこと自体がもう釈迦の奇跡的な慈悲のなせる業であって、そもそも犍陀多は助けてもらう価値などないのかもしれない。そうすると原作通りの結論になる。
しかし、そうだとすれば『助けてもらう価値』とは一体何なのだろうか。それはつまるところ、『人間の価値』ということになる。『すべて命は平等』という考え方に立てば、蜘蛛という一つの命を助けたから、犍陀多も一つの命として救われるべきということになる。たとえ犍陀多が大悪党であっても、それは犍陀多が命を有する存在である限り変わりはない。だったら、たとえ自らの無慈悲な心によって地獄に落ちたとしても、彼の『蜘蛛を助けた』という善行が消えるわけではないから、二度地獄に落ちてもなお救うべきということになる。そうすると俺が書いた通りの結論になる。
では犍陀多を助けた場合、他の罪人をそのまま地獄に残しておくことは正しい事なのか。『命は平等』ならば、やはり彼らも全員救われるべきなのではないか。彼らにも探せばたぶん犍陀多程度の善行は見つかるだろう。しかしそれでは地獄の意味がなくなってしまう。いや、そもそも悪いことをしたからといって永遠に地獄にいなければならないということも正しい事といえるのか?というか何が『罪』なのかを他人に決められること自体妥当なのだろうか。
考え出すときりがない。しかし、彩菜ちゃんの言いたかったことは、『結論はどっちでもいいけど、そこに至るまでの過程を丁寧に描写しなさい』ということだと思う。だから、今浮かんだような疑問をひたすら弟子が考えて、それでもなお『犍陀多を救う』という結論に達するのであればよいということだろう。
この話を書き直すかどうかは置いといて、次からもっと「過程」が伝わるように書かないとだめだな。そのためには、作者である俺が、作品のテーマについてもっと深く考えないといけないということだ。彩菜ちゃんは今まで手加減してくれていたんだろうな、と思った。
物語の面白さを基礎づける要素は大きく「ストーリー」と「キャラクター」に分かれると思っていたが、「ストーリー」というのはあくまでもキャラクターが行動した結果だから、ストーリーありきでキャラクターを動かすのではなく、「キャラクターがこう思って、こう動いたから、こういうストーリーが進んでいく」という考え方をした方が良いのかもしれない。
俺は俺以外誰もいないBOXを閉め、文化祭に戻った。なんかとても甘い物が食べたかった。