チンチロリンとガーシャガシャ
「君、花嫁さんのお茶碗だね。よろしく」
「あなたは、花婿さんのお茶碗ね。こちらこそ、今日からお世話になります。新郎新婦と同じく、末永くよろしゅう」
「どこの生まれ?」
「私は有田、あなたは?」
「それがよくわからないんだ、気が付いたら籠に入って、神社の夜店で売られてたもんで」
「まるで夏目漱石先生みたいね」
「?どういうこと?」
「漱石先生は生後すぐに行かれたご養子先が古道具屋で、やはり夜店で籠に入れられて、がらくたと一緒に並んでたって」
「ふうん。詳しいね、君」
「奥さまがお好きなの、先生の小説。だから私も『門前の小僧、習わぬ経を読む』のデンで、ね」
「そうかあ。僕たち、人間達のように本は手に取って読めないからな」
「奥さまが女学校の宿題のため、一生懸命漱石先生の御本を朗読していたの。授業でいつ当てられても、上手く読めるようにって。だから私でもよく知っているし、覚えているわけ。そういえば、旦那さまは本を読むの?」
「うん。旦那さまは、漱石先生よりむしろ森鷗外先生がお好きみたいだけど」
「ふふふ」
「ところで、お二人の祝言の様子を見てたかい?」
「嫁入り道具の荷物のなかに入ったまんまで全然。残念だったわ。仲人さんの『高砂や~この浦舟に帆を上げて~』だけが聞こえてきた、ちょっと調子が外れていたけどね。あなたは祝言を見た?私の花嫁さんは、綿帽子で綺麗だったでしょ」
「うん。僕の花婿さんも二枚目だろ?ほら、松竹のスタアで何と言ったかな…そうそう、岡田時彦みたいに」
「あら、私の花嫁さんだって、入江たか子みたいよ?御覧なさいよ、『滝の白糸』のポスターそっくりなんだから」
「はは、その映画なら旦那さまも何回も観に行ったみたいだよ。二番館、三番館まで追いかけてね。家に帰ってきてもぽーっとしてたからすぐにわかった。…それにしてもこの戸棚のなかは、まだ僕たちの他にはあまり食器が並んでないね。ちょっと寂しいや」
「新婚さんだから、仕方がないわよ。これから一つひとつ、揃えていく楽しみがあるじゃない」
「確かに。ほら、落語の『垂乳根』で、おかみさんの茶碗は箸に触れてチンチロリン、旦那さまの茶碗はガーシャガシャと音を立てるじゃないか。祝言を上げる旦那さまが、まだ見ぬ花嫁さんのことや、新婚生活をあれこれ想像する下り。チンチロリンとガーシャガシャ、あんな風に、旦那さまたちも僕たちも調子が合えば素敵だね」
「ね」
*****
「今日は、奥さまずいぶんウキウキなさっていた。一番良い訪問着を着て、ほら藤色の」
「旦那さまの賞与が出たから、三越までお買い物かな」
「そうみたいよ、帯留めちゃんが言ってた。真珠が三つ横に並んだ可愛い子。いいなあ、彼女は人間にくっついて、外に出られるものね。私達が外に出られるのなんか、引っ越しのときくらいじゃない?」
「帯留めちゃん?あの子も『話せる』んだ?へえ…この家には、君と僕以外、『話せる』物なんて存在しないと思ってた。危ないあぶない、帯留めちゃんの悪口を言わないでおいて、良かった」
「ふふふ、ひょっとして、他にも『話せる』のに話せないふりをしてるのもいるかもよ、ご用心、ご用心」
「三越の後は、資生堂のパーラーでお食事だね、きっと。僕はご飯茶碗だから、洋食の味をよく知らないんだよね。資生堂ならカレーライスとか、オムライスとか。で、食後にアイスクリームかな」
「洋食ねえ、体験してみたい。唾が沸いてきちゃった」
「…聞こえる?」
「うん、聞こえる、きこえる!」
「ずいぶん元気がいい産声ね。初産だから心配したけど。奥様もご無事で良かった…本当によかった」
「男の子かな、女の子かな」
「どちらがいい?」
「そりゃ神様仏様の思し召しだから…でも、女の子がいいなあ」
「どうして?」
「僕たちを大事に扱ってくれそうな気がする。男の子は乱暴ですぐに物を壊してしまうからね。このうちのお清さんは、うつわでも何でも、丁寧に扱ってくれるから安心だけど」
「あら、偏見ね。乱暴な女の子もたくさんいますよ」
「ほらほら、旦那さまがこちらに来たよ。やっぱり嬉しそうだね、虎造の『石松三十石船』と、ハイネの詩を口ずさんでる。あの二つが出るということは、上機嫌の頂点にいるという証拠だよ。あ、産婆さんの声が聞こえる。『やはり一姫二太郎がよござんすよ、この度はまことにおめでとうございます』だって。てことは、女の子かな」
「旦那さまと奥さま、どちらに似ても可愛くなるでしょうね」
「ふふふ、そのうち小さな茶碗が一つ増える」
「お箸もね。早く赤ちゃんの顔が見たい」
「カン、カンと羽子板の音がする」
「いかにもお正月らしいねえ。もっとも、この時期はお重やよそ行きの塗り盆が大活躍だから、僕達は暇になるけれども」
「旦那さま方は、初詣はどこまで行かれたのかしら?」
「冷え込んでいるけどお天気も良いし、浅草さまも、湯島さまも大賑わいだよね、きっと。お子さんがお小さいから、混雑を避けてどこか近くの神社にいらしているのかも」
「ふああ…それにしても、こんなに体を休めているなんて、一年にこの時期くらいなものよ、私達も」
「お屠蘇に門松、お年玉に鏡餅…平和だなあ。『蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす、すべて世は事もなし』っていうのはこういうことを言うんだろうな」
「なに、その蝸牛何とかって?」
「ロバアト・ブラウニングの詩だよ。訳した上田敏の『海潮音』は、旦那さまの愛読書でね。知ってる?奥さまと知り合われたのも、この詩がきっかけなんだよ」
「あら、そうなの。いいわね、特に『すべて世は事もなし』って句が。このお家もこのままそうであってほしい。私達は初詣にこそ行けないけれど、せめて新しくお迎えした竈の神様にお祈りすることにしましょう」
「おっと、竈の神さまも、いまはガスの神さまだよ。ふふふ」
*****
「今日は危なかったよ…声を大にして言いたいが、本当に危なかった!」
「いくら声を大にしても、あの方たちには聞こえないけどね」
「でも、まさかあんなに派手な夫婦喧嘩になるとは思わなかったな」
「物まで飛ぶなんてね。最初はとてもささいなことから喧嘩が始まった筈。本人たちももう理由なんか覚えていないんじゃない?傍らで見ていた私もだけど。吃驚しちゃった、普段あんなに仲が良くて、まさにオシドリ夫婦といったところなのに」
「旦那さまは青筋立てて怒ってるし、奥さまはわんわん泣いているし…」
「しかも、はじめは居間で言い争っていたはずなのに、こちらの台所まで移動して喧嘩の続きをしてるんだもんな。僕まで投げられちゃったら困るなあ、と思ってびくびくしてた」
「私もよ。真っ二つならまだしも、粉々はちょっとねえ」
「…そういえば、僕たち、死ぬってことあるのかな。この五体が砕け散っても意識が残るのか、それとも人間と同じような死なのか、どうなんだろう…」
「そうねえ。まだ死んだことがないから、わからないけど」
「人の死んだのを見た事ある?」
「ううん」
「例の神社の夜店で、籠に僕と一緒に入れられていた茶碗の爺さんがいうことには、彼は前の持ち主が死ぬときに側に居たんだそうだよ。その爺さん、大震災の生き残りだった強者でさ、いろんなことを知ってたんだけど」
「ふうん?」
「その前の持ち主はね、最期はゆっくりと息が弱くなって、呼吸が止まる直前にふうっと顔が赤くなって、それで…」
「穏やかな死が訪れたのね」
「そうやって人は死んで土に帰っていくだろう?いっぽう、僕たちは、もとは土なんだけど、粉々にならない限りは、そのまま土のなかに残るよね、陶片という形になって」
「ずっと土の中は寂しいから、いつか誰かに見つけて欲しいけど…」
「そうそう、市にはね、陶片も売られてたよ。あんなのどうするのかな、と思ったら、買う人もいるんだよね」
「持って帰って、綺麗な函か何かに入れて愛でてくれるのかしら。だったら、第二の人生みたいでそれも悪くないかも」
「そうだね」
*****
「ずいぶん、この戸棚のなかも狭くなってきたなあ」
「それはそうよ、ご家族も増えたし」
「おお、今朝も寒い寒い。ぶるぶる」
「あなたは茶碗のくせに寒いの?」
「君は寒くないのかい?」
「ちっとも。あなたは猫みたいに寒がりねえ。もっとも、三日前の大雪も解け残っているうえ、今も雪が降ってるけど…」
「それにしても、外の様子が何かおかしいと思わない?」
「おかしい?」
「旦那さまが、出勤なさったと思うとじきに帰っていらした。何でも、途中までは行けたんだけれども、そこからは軍が封鎖していて追い返されたらしい」
「何ですって?」
「それで、その後はお出かけにもならず、難しいお顔をしてずっとラヂオをお聞きになっている。さっきまで居間のちゃぶ台の上にいたから、ずっと観察していたんだけれども。陸軍が叛乱を起こしたとか、何とか…」
「ええっ!それってどういうこと?私、ラヂオの音声は聞き取りにくいのよ。他には何て?」
「情報もあるんだか、ないんだか…とにかく、とてつもないことが外で起こってる、それは確かだ」
「結局、一晩経ったけどどうなったのかしら。岡田首相も、『だるまさん』じゃなくて…ええっと、高橋蔵相も、斎藤内相も、渡辺大将もみな殺されてしまったというし。旦那さまは今日もお出かけにならないし」
「今朝のニュウスでは、カイゲンレイとかいうのが発令されたらしいよ」
「カイゲンレイ?」
「うん。でも、叛乱は鎮圧されるんじゃないかな。もっとも、その後が何とも大変そうだけど」
「結局、首相は運よくご存命だったけど、内閣は倒れてしまうし、人間の世界はどうなってしまうんだろう」
「そりゃ今までも、白頭宰相原敬の暗殺、浜口首相の遭難、血盟団事件とか要人を狙った事件は枚挙にいとまがないけれども、まさかこんな大規模な叛乱が起こるとは、ね…ただ一つ言えることは、何かの大きな転換点になるのかも。この二月二十五日と二十六日の間に、世界は大きく変わってしまったのよ、きっと」
「ふふふ」
「何がおかしいの?」
「たかが茶碗がご立派な顔つきで、世界情勢を語るなんてさ」
「まあ!人を馬鹿に…じゃなかった、茶碗を馬鹿にして。それとも女子が政治を語っているのがおかしいの?」
「いや、まさか。だってほら、茶碗の世界は平等で、僕にも君にも参政権はないじゃないか。人間の世界は普通選挙といったって、結局は女性には参政権はないものねえ」
「かつて、『女は家でおしめでも洗っていろ』とか『断髪はけしからん』とか言い放った大臣もいたそうじゃない」
「良く知ってるね」
「それはね、お嬢さんはいちじ平塚らいてうさんに傾倒していたから、婦人運動には詳しいの」
「そうかあ。今はご家庭に入られているけど、職業婦人になってもおかしくない雰囲気だよね、奥さまって」
*****
「旦那さま、久しぶりに活動写真を観に行ったんだけど、複雑な表情で帰ってきたんだよ」
「どうして?」
「ベルリン・オリンピックの記録映画って知ってる?『オリンピア』。ナチス党の肝いりでレニ・リーフェンシュタールという、ドイツの女性監督が撮ったんだけど…」
「出来が良くなかったの?」
「ううん、逆なんだ。堂々とした映画で、抗えず魅かれるものがあるんだって。旦那さまは、口には出さないけれどもイタリアのファシスト党とかドイツのナチスとか、ああいうものを好まれないから、その作品の持つ…何というのかな、魔力?をもてあまして、余計に困ってるらしいんだよね」
「産婆さんのいう、一姫二太郎の言葉通り、次は男の子だったね」
「元気な産声だったわ、びっくりするくらいの」
「またそのうち茶碗が一つ増えるんだ」
「お嬢さんの茶碗が言うには、『少しずつご飯の量が増えて行くものだから、この頃肩こりがひどくてかなわない』だって」
「でも嬉しそうでもあっただろう?僕も旦那さまの食欲がちゃんとしていると安心する。逆に、ご飯が軽めに感じると、ご体調は大丈夫かな、お風邪でも引いていらっしゃるのかな、と気になるよ」
「あなたって優しいのね」
「ははは、僕に惚れた?」
「あら前言撤回、ただの自惚れやさんだったわ」
「旦那さまのご実家からは五月人形、奥さまのご実家からは鯉のぼりを送ってもらったらしいよ」
「鯉のぼり、いま窓からよく見えるわね」
「ああいう風に、空高いところに行ってみたいなあ」
「私達は、無理?」
「そんなことないよ、飛行機に乗れば…」
「だって、乗せてくれる人がいないとね。茶碗なんて、飛行機に乗っけてくれる人がいるかしら?」
「…ねえ、覚えてるかい?」
「出し抜けにそんなこと聞かれたって、わかるわけないでしょ。一体、覚えてるってどのことよ?」
「例の『帝都某重大事件』のとき、『茶碗ごときが世界情勢を語るのか』と君をからかって、とても怒らせたじゃないか。でも、ほら、去年倒れた平沼内閣さ、当の平沼首相が残した言葉があっただろう?『欧州情勢は複雑怪奇』って」
「それがどうかした?」
「人間だって、結局のところ世界情勢はわからないんだ。一国の首相でさえもね。だったら茶碗が世界情勢を語っても別にかまわないかなあって。だから、あのときはごめん」
「あら、わざわざご丁寧に。痛み入りますこと」
「そんなツンケンしないで、ご機嫌を直しておくれよ」
*****
「中国だけでなく、米国とも戦争だって?」
「真珠湾の奇襲成功とかで、ラヂオでは『華々しい戦果』とか言っている」
「でも見た?旦那さまの表情。何だか憂鬱そうで、気になるの。ラヂオとは正反対ね」
「うーん。旦那さまは活動写真狂だろう?米国や欧州の映画を浴びるほどに観ていたみたいだから、銀幕を透かして、向こうの国力とか豊かさを御存じなんだよ。それに商社にお勤めだから、輸出入や数字に強いだろう。だから戦うにしても、物資の点だけでも国の内情は苦しいことをわかってらっしゃる」
「あなた、良く知っているのね、まるで旦那さまの話すのを見てきたようじゃない」
「ははは、実は見ていたんだよ。奥さまに口止めをしつつもそういう話をなさっていたよ。ちゃぶ台の上から眺めてた」
「おうちの外にその話が漏れたら大変ね…」
「そう、大変」
「旦那さま、お外でも大丈夫かな、あんな顔をしていたら、他人様に気が付かれてしまうのでは?」
「大丈夫、旦那さまも馬鹿じゃないよ。その辺は上手くやるさ」
「ふう…暑いわねえ、今日も」
「君はいつか、僕が寒がりなのを笑っていたじゃないか。暑がりなの?」
「そんな話を良く覚えているわね。ええ、おかげ様で暑うござんすよ。お食事のあと、水で洗ってもらうとほっとするわねえ。夕食なんか、入れられたご飯が熱いと飛び上がりそうになる…あれ、旦那さまと坊ちゃんは?」
「上野の帝室博物館と科学博物館に。特に科学博物館のホールは涼しくて、この季節にはぴったりだって」
「人間は私達とは違って、裸ってわけにはいかないから、気の毒ね」
「それにしても、お嬢さんがお台所で洗い物をできるようになって、頼もしい限りだ。学校でも友達と仲良くやっているみたいで、毎日帰ってくると、すぐに誰かしら『あーそーびましょ』と呼びに来るね」
「さっきもお嬢さんに洗ってもらったけど、気持ちよかったわ。ちょっとくすぐったいけどね」
「ねえ、今日はいつもよりお夕食の支度が遅いじゃない?」
「さっき、お清さんが台所の隅にうずくまって泣いてたよ。でも、奥さまに呼ばれたら、急にしゃっきりして居間のほうに出て行ったけど」
「何かあったのかしら」
「あ、奥さまが来た。『赤紙が云々』とか言っている」
「赤紙?あの、受け取った人間は兵隊に行くという紙でしょう?旦那さまのところにも来たの…」
「とうとう、という感じだね」
「まだ若いのに、お子さん方も小さいのに…」
「まあ、死ぬと決まったわけじゃないよ。それに、旦那さまだけではなく、多くの人も一緒に行くんだし」
「見てた?」
「うん、見てたみてた」
「旦那さまはもとより、奥さま、意外と冷静だよね。入れ替わり立ち代わりいらしたご近所の人にも『お国のために精励してほしい』とか何とか答えておられるけど、本心かな。いつもより、お元気にすら見えたよ」
「カラ元気じゃなければいいと思うけど…」
「うーん、なかなか厳しいね」
*****
「聞こえる?」
「バンザーイ、バンザーイってね」
「行ってしまわれた…とうとう」
「ねえ。あのお優しい旦那さまが、ゲートル巻いて銃剣持って…なんて、想像もできないんだけど、僕」
「ちょっと、あなた泣いてるの?」
「まさか、目から汗が出てるだけだよ。でも寂しいな。しばらく僕はお役御免だ、君はいいよ、いつもと変わらずちゃぶ台に行けるんだもん。僕は旦那さまが帰ってくるまで、戸棚にしまわれっぱなしになるんだろう。だから、しばらくラヂオともお別れかな。ああ、ちゃぶ台の上に乗って、毎日ニュウスを聞くのが楽しみだったのに」
「奥さまが陰膳をなさるかもよ?そうなれば、あなたも棚から出られるわ。ともかく、ラヂオの音は苦手だけれど、私があなたの代わりに精一杯聞いてみる。にしても、ここのお家も寂しくなったと思わない?旦那さまは出征してしまうし、お清さんはお暇をいただいて、郷里に帰ってしまうし」
「お清さんは、本当に丁寧に僕らを扱ってくれて嬉しかったよ」
「あ、お嬢さんがこっちに来た。流しの横で泣いてるの。そりゃそうよね」
「坊ちゃんは、まだ何が起こっているのかよくわからない感じだけどね。無理もない、まだ年がいっていないものね」
「それにしても奥さま、変よ。お家にいらっしゃる人達の前ではいつもと変わりがなく、冷静でいらして、『名誉の戦死です』とか『本人も本望でしょう』とか仰っているのに、皆さんがお帰りになると、やっぱり台所でいつまでもお泣きになっているの」
「うーん。それはさ、ほら、僕は箸が当たればガーシャガシャ、君は同じくチンチロリン、と叩かれたら叩かれた通りの素直な音が出るじゃないか。でもどうやら、人間達は違うみたいなんだ」
「違うの?どうして?」
「人間は叩かれても、違う音を出すことがある。ううん、違う音を出さなければいけないこともあるんだ」
「ややこしいのね」
「そう、ややこしい。僕たちは単純だから、いいけれども…」
「私達がどんなにここで話していても、人間には聞こえないじゃない?それが何とも歯がゆかったけれども、今となってはそのほうがいいかもねえ。ひょっとしたら、いまこの瞬間にでも、いっそのこと茶碗や湯飲みになってしまいたい、何にも聞かず、何にもしゃべらずに生きていたい、と考えている人もいるかもよ?」
「それにしても悲しい、悲しすぎて自分の眼が再び開かなければいいのに、とさえ思うよ。もう二度と、旦那さまに僕を持っていただくこともできないなんて…」
*****
「ねえ」
「何?」
「大きな声では言えないけど」
「ははは、僕たちは大きな声で言おうが、小さな声で言おうが、ちっとも人間達には聞こえないよ」
「まぜっかえさないでよ、ぷんすか。人間達が声を潜めて話すことも多くなったから、私にもうつったのよ、それが」
「ごめんごめん。それで?」
「うん…この頃、ご飯の質が変わったと思わない?白米がどんどん少なくなっていって、代わりに麦が」
「麦どころじゃなくて、芋やカボチャの割合が増えてるよね」
「もはや、白米なんて滅多に…」
「ご飯だけじゃないよ。御汁の具が、何かの蔓とかそんなこともしょっちゅうだよ」
「やっぱり、どこのおうちも食糧事情が苦しいのかしら」
「あるところにはある、ないところにない、といった方が正解かもね」
「いくら『欲しがりません、勝つまでは』と言ったって、『腹が減っては戦もできぬ』という言葉だってあるじゃない?私達は腹が空くという感覚が全くわからないけど、あれは苦しいものらしいじゃない」
「うん。この家からも、奥さまの着物がどんどんなくなっているよね、晴れ着などから先に」
「農家に持って行ってお米と引き換えてもらってるから、でしょう?」
「あの子はどうなった?ほら、『話せる』帯留めちゃんは」
「彼女は大丈夫よ、まだ箪笥の一番上の引き出しに大事にしまわれている」
「ああ、良かった」
「奥さまがとりわけ大事になさっているから、あの子はずっとお手元に置かれるんじゃないかしら」
「そういえば、奥さま、もんぺ姿が板についてきたね」
「ご実家にお戻りになればいいのに。ここからそんなに離れているわけでもなし、お子さん達も抱えてるし」
「やっぱり、旦那さまとの家を守っていたいんじゃないかな」
「ねえ、あなた、起きて、空襲警報よ!」
「なんだ、またか。警報が鳴ったって、人間は逃げられるが僕たちは運んでもらわない限り、逃げも隠れもない…じゃなくて、逃げも隠れもできないだろ。位牌は最優先で持って逃げてもらえるけど、僕たちはどう頑張ってそれより優先順位は低いんだし。それに、空襲警報なんか毎日のようにあるだろう?いまさらビクビクするのか?」
「鈍いわね、今日は何だかいつもとは違うと思わない?嫌な予感がする」
「気のせいだよ…いや、違う、本当だ、障子の外がやたらと明るいな…これって火か?外では何だかすごい音が立て続けにしてる」
「大変、ご近所じゅうが燃えてるわ!」
「うわっ焼夷弾の数がとんでもないぞ。こりゃメリケンどもが、奮発しやがったな」
「ねえ、見て、窓の外。小料理屋の松川さんちから火柱が立ってる!」
「あそこの家、実はまだお酒をたっぷり持っていたという噂だからな。そこに落ちたんならひとたまりもないや。ああ、もったいない。せっかくの貴重な酒がただのアルコールのように炎と化して終わりとは…ここの旦那さまは上品だから茶碗酒をなさらないけど、いちど茶碗酒をしてもらって一緒に酔わせてもらうのが僕の夢だったんだよなあ」
「あなた、こんなときに何を暢気に、寝言みたいなこと言ってるのよ!」
「君、こんな時に何だけど、だんだん井戸端会議のオカミさん連みたいになってきたな、喧しくて」
「だって…!」
「俺たちはここにいて、あとは運を天に任せるしかないよ。割れずに生き残れるか、割れるか、それとも粉々になるか…」
「どれも嫌よ。置いて行かれるのも嫌だし、痛い思いもごめんだし、粉々になったら蘇生もできないし…」
「しょうがないよ、覚悟するんだね。人間達が何をしようとも、俺たちのご主人様には変わりがないんだ」
「ところで、奥さまはどこ?」
「不忍池の防空壕にお逃げになっているだろうから、大丈夫だよ」
「奥さま、お子さんたちを疎開させる決心がついたみたいだ」
「集団疎開?」
「ううん、旦那さまのご実家の広島にね、市外らしいんだけど」
「広島!遠いわね…送っていくのも一苦労じゃない。まだお小さいのに、お嬢さんもお坊ちゃんも」
「でも、ここよりはましだよ。これから先、空襲は増えこそすれ、減りはしないんじゃないかな」
*****
「…あなた、生きてる?」
「生きてる。まあ、粉々寸前だけど意識はあるよ。でも全身痛いのなんのって。これって、年月が経つと収まるのかな。君は?僕は半分かた土に埋もれちゃっているから、君の姿がよく見えないんだ。でも近くにいるよね」
「私は八割がた地中にめりこんでしまってるの。でも、あなたに見られなくて良かった。あられもない恰好になってしまったから…まあ、真っ二つというところよ。やっぱり痛いわねえ、身体じゅうが。もちろん、死にはしないけど。でもあなたと同じく、粉々にならなかったことを有難く思うわ」
「屋根も壁も何にもなくなってしまったね」
「本当にねえ。幸い、少しだけ地面の上を見ることができるけど、見通しがやたらと良くなっちゃって」
「隅田川のほうなんか、ひどい有様らしいよ」
「亡くなられた方々が、お気の毒な…」
「ほら、平林さんのところの奥さまがさ、二日前に『何だか胸騒ぎがする』とうちの奥さまのところに言いに来て、急に疎開していっちゃっただろう。あのおうちは代々東京の人で、田舎に親戚もろくにいないんで、ずっと疎開を迷っていたらしいんだけど、決心して良かったよねえ」
「本当に。でも、うちの奥さまは大丈夫かしら」
「大丈夫だと思いたいな。いつもの、お池の防空壕に逃げたはず」
「池に焼夷弾が落ちて、ぼーん!と凄い音がしたのは知っているけど」
「早くお戻りになるといいのに」
「本当に」
「そういえば、空なんて見るのは久しぶりだなあ。籠に入れられ市で売られていた頃以来だよ。ああ、君にはこの空は見えないんだよね」
「どんな空?私、地面にめり込んだ角度からいって、お天道さまは見えないのよ」
「青いんだ。こんなに帝都が真黒こげになって、人もたくさん死んでいるのに、空がこんなに青いなんて、不公平だよ」
「……」
「どうしたの?」
「苦しいの。私、ただの茶碗なのに、人間じゃないのに、胸が痛いの。どうして?」
「人でなければ苦しみも悲しみも、喜びもないのかい?それは違うと思うよ。少なくとも、旦那さまが亡くなられたとき、悲しくていまの君みたいになっていた、僕はね…」
「…広島に、新型爆弾というのが落ちたんだって」
「何それ?」
「いままでの爆弾とは比べ物にならないくらい、大変な破壊力と熱量を持った爆弾だって。朝、広島の上空でピカッて」
「広島…大変!そこって、うちのお子さんたちが疎開しているところじゃない!」
「だから奥さま、取るのもとりあえず駅に向かっていったけど…広島まで無事につくかしらん?」
「ああ、どうかお嬢さんと坊ちゃんが無事でありますように」
*****
「今日は何だか人々が変だね」
「ラヂオの前にみんな集まって。どの顔も深刻なのよね…ぺったり座り込んで、泣いている人もいる」
「こんな光景、初めてだ」
「ラヂオが言っていたこと、聞こえる?」
「それが良く聞こえないんだよ。ただ、『耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ…』とか言ってるのだけは聞けた」
「何だか暗いわね。ほらほら、豆腐屋のおミヨちゃんも、焼き鳥屋の大将も泣きだしちゃってる」
「てことは、さ…」
「あ、そうね。もしかして…」
「うん、そのもしかしてだろうね。全てが終わったんだよ」
「それにしても、奥さまはこの放送を広島かどこかで聞いてるのかしら?そしてお子さんたちとご無事でお戻りになれるのか…」
「んん?遠くに奥さまに似た人影が見えた。二人の子どもを、左右の手に引いているけど、奥さま…かな?」
「奥さまだといいな。でも、地中にめりこんだ私に気づいてくれるかしら?」
「本当に、声が出ればいいのに、僕たち。でも、奥さまだよ。近づいてきて…いま、うちの前に立ち止まって涙ぐんでる。本当に、生きていてくださって良かった…」
「あなたには見えるのね。私、奥さまに拾い上げてもらうのは無理かも。この地面と一体になるしかない…でも、ここから奥さまのことをずっと見守っていたいから、茶碗としての意識がまだあって良かった」
「そうだね。僕もいつか君みたいに地面のなかに埋もれるか、茶碗として死んでしまうのか…わからないけど」
「でも、人間って丈夫ね。あれだけの眼に遭っても、まだ生きている人が沢山いる」
「終わったけれどもまた始められるさ、彼等だったら。ああ、お子さん方が早く大きくなって欲しい。奥さまを支えて差し上げられるほどに」
「本当に、そう。どんな人生を生きていくんでしょうね、あの子たち」
「きっと普通に、すくすく育っていくんだろう。そしてまた、旦那さまと奥さまみたいに結婚して、チンチロリン、ガーシャガシャといいながら、二つの茶碗を使っているはずだよ。僕たちのような茶碗をね」
****
〔了〕
〔後記〕
本作は、集英社webコバルト企画「編集Fの擬人化小説賞」の応募作です。
「擬人化」というお題は想像以上に難しかったうえ、
ただでさえ一筋縄ではいかない「歴史もの」にしてしまい、
うーん、うーん、と唸りながら書いては消し、書いては消し…。
結果は選外となりましたが、
お題を設定されて書くというのもまた
勉強になりますね。
さて、物語の背景について。
私の母方の祖父母はどちらも地方の出身で、
昭和の初期に上京して知り合い、結婚しました。
残念ながら、祖父は私の生まれる前に没しましたが、
祖母は晩年、「昔の東京」や「モダン」「戦争」について
よく私に語ってくれたものでした。
親族以外にも、昭和ヒトケタ世代の人達が
話してくれた戦前戦中に関するエピソードと
そして私が好きな昔の映画ネタや文化ネタなどを
あちこちにちりばめながら、
やっと本作が書きあがりました。
この作品を、
早くに夫を亡くしながらも逞しく生き抜き、
四人の子どもを育て上げた、亡き祖母に捧げます――。
〔設定〕
賞への応募の際に課せられた設定説明を、ここに載せておきます。
〇擬人化されたもの=茶碗二つ
(夫婦茶碗にあらず。人間の新郎新婦が各自持参したもの)
〇年代…昭和八年頃から同二〇年八月にかけて
(1)擬人化キャラ
〇「旦那さま」の茶碗…生産地・来歴ともに不明。夜店で籠に入って売られていたのが茶碗自身の最初の記憶。人間の世界を見てあれこれ寸評するのが好きで、ちゃぶ台の上でニュウスに耳を傾けるのが日課。
〇:「奥さま」の茶碗…生産地は有田、来歴不明。旦那さまの茶碗とは仲良しで、夫婦のような会話を交わす。奥さまの影響で、夏目漱石や婦人運動に関心がある。意外と硬派な話題も得意。
〇:奥さまの帯留め…奥さまが大事にしている、真珠が三つ並んだ帯留め。茶碗の会話に登場するのみ。生産地・来歴ともに不明。茶碗と違い、奥さまと一緒に外の世界に出ることが可能。
(2)人間のキャラ(茶碗同士の会話にのみ登場)
〇旦那さま…商社に勤務。居住地は上野近辺。大学卒。森鴎外とハイネの詩が好きな、もと文学青年。奥さまともども、モボ・モガ世代。出征して戦死。
〇奥さま…女学校卒。夏目漱石が好きな、もと文学少女。
〇お嬢さんと坊ちゃん…子どもたち。戦争が激しくなり、広島に疎開。
〇お清さん…この家のお手伝い。物の取り扱いは丁寧。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。