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4章 『Kanon』の愛に叶わんとして

私たちはここまで夏目漱石と村上春樹のテクストを通して執拗に彼らのセクシャリティおよびそれに根ざした「罪悪」または倫理等を読み込んできた。それは、彼らを通して私たちのセクシャリティ(の影として抑圧された部分)を見いだし、それに執拗に抵抗する作業といいかえてもよい。では、そうまでする私たちのセクシャリティとはそもそもなんなのか。彼らが(男性にしろ女性にしろ)人間の生において他者=現実に対するセクシャリティを少なからず(物語や倫理と共に)引き受けているのに対し、私たちは(男性オタクあるいは女性オタクの立場から)動物の生におけるキャラ=虚構というセクシャリティを享受=自閉するにとどまっている。しかしそのことは、彼らと私たちのあいだに明確な線引きがされているということを意味しない。むしろ漱石、あるいは春樹の欲望から連続的ないし段階的に私たちの欲望は転移され形成されたともいえる。どういうことか。

斎藤環は次のようにいう。「我らがノーベル賞候補作家、村上春樹の作品群を眺めてみるとよい。主人公の男性は、ほぼ例外なく、性については受け身である。彼らが淡々とパスタをゆでたりビールを飲んだり『やれやれ』とか言ったりしていると、いつの間にか魅力的な女性が次々と接近してきては、首尾良く性行為が成立してしまう。恋愛の駆け引きめいたものはほとんど描かれない」「春樹作品の主人公は、欲望の主体としてはまるで空虚だ。なぜか。答えはただひとつ、『そのほうが男性読者が同一化しやすい』からである。作品の中で、欲望の主体の座はつねに空席なのだ。だから男性読者は、スムーズにその空席を占有できる。すなわち『同一化』し所有することができるのだ」(『関係する女 所有する男』)。こうした欲望の論理は、私たちがすでに『こころ』について述べた(「私」たちの錯覚という)同一化の論理とも重なり合う。さらに斎藤は、男性オタクご用達のハーレム系作品『ああっ女神さまっ』『天地無用!』『魔法先生ネギま!』などの「性については凡庸で消極的な」男性主人公に「春樹作品の主人公」と共通する空虚な欲望主体の構造を指摘する。

この指摘は一面においては確かに正しい。たとえば、村上の作家的想像力や感性はオタク的なそれらと極めて親和性が高く(私たちは『1973年のピンボール』にオタク的発想の宝庫を見いださずにはいられない)、なかでも『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の世界観が泣ける美少女ゲームこと泣きゲーとして評価の高い『ONE~輝く季節へ~』『Kanon』『AIR』のシナリオ担当・麻枝准に影響を与えたエピソードは有名だが、彼が男性主人公を文字通り消えゆく存在として設定したのもこうした空虚な欲望主体の構造と少なからず関連しているように思われる。

しかし、他方においてこの指摘は私たちの欲望の実態と決定的にかけ離れている。すでに述べたように私たちのセクシャリティは(おそらくは腐女子のそれへと)変貌を遂げている。男性という空虚な欲望主体の空席そのものを不要とするセクシャリティへの変貌。所有原理に基づく男性の欲望ではなく、関係原理に基づく女性の、さらにいえば生成原理に基づく動物の欲望への変遷。そう、いかに透明度が高く同一化しやすいとはいえ、美少女キャラの愛を空虚な欲望主体=媒介領域を経由し通過させ届けさせるという複数の行程作業は、その愛の鮮度を決定的に劣化させてしまう。ではどうするべきか。話は簡単だ。その媒介的な行程作業を無くしてしまえばいい。

『ノルウェイの森』の読解を思い出そう。「僕」たち=彼女たちは社会的・象徴的領域すなわち媒介領域の弱体化により他者や死、真理といった不可能性と直接的・無媒介的に直面することでポストモダン以降の危機的状況に陥ってきた。私たちの場合はそれとは逆だ。空虚な欲望主体=媒介領域をあえて無くすことで、二十一世紀の過視的な世界(東浩紀)≒虚構における美少女キャラの愛の不可能性=全能性を直接的・無媒介的に万遍なく動物として享受し尽くすことができる危機的状態にあえて陥らせてきたのだ。そこでの愛は斎藤=ラカンがいうところのファルス的な享楽に根ざした男性の愛ではなく、他者の享楽としての女性の愛と呼ぶべきものであるが、それは人間としての愛ではない。すべての人間の愛が自己愛の延長線上にあるものだとしたら、私たちの愛は自己=人間として輪郭化・形成化される以前の不定形な自体愛とでも呼ぶべきものであり、それは人間ではなく動物としての愛と呼ぶにふさわしい。それは虚構の美少女キャラからの愛(の不可能性=全能性)を享受するため、彼女と相対するもう一人の虚構の美少女キャラすなわちもう一人(?)の動物への生成変化、感情移入、同一化によりはじめて成立する原理的かつ特異的な愛のサーキットを通過するものだ。おそらくここから二次元キャラによる百合カップリングという個々の嗜好が醸成され、さらには腐女子を主な受け手とするBL文化に遅れてやってきた男性オタクを主な受け手とする百合文化(=セクシャリティ)の共同体が形成されるのだろう。

この突拍子もない、かつ、「途方もない」私たちの告白に貴方たちはこういわれるかもしれない。「そんなねじくれた性癖を持ち合わせているのはお前たちだけではないのか。一般的なオタクの欲望のイメージ分析としては斎藤環の指摘のほうがしっくりくるぞ」と。しかし、一般的な男性オタクにもこうした女性化、百合化、あるいは動物化の波が押し寄せていることを私たちは指摘しなければならない(註5)。

例をあげてみよう(個人的に好きなカップリングも含めて)。鷲宮神社への聖地巡礼など町興しのアニメとして話題となった『らき☆すた』(こなた×かがみ)、TVアニメのOP、EDとして初のオリコンチャート一、二位を独占し女子高生ガールズバンドブームを巻き起こした『けいおん!』(律×澪)、二〇一一年度のアニメ界を席巻し数々の賞を総なめにした『魔法少女まどか☆マギカ』(まどか×ほむら)、濃厚な戦車愛や大洗町への聖地巡礼などで濃いオタク層をも取り込んだ『ガールズ&パンツァー』(ノンナ×カチューシャ)、これらの作品は男性オタクを主要な視聴者とするものの、彼らの同一化の過程に必要なはずの(空虚な欲望主体としての)男性キャラは一切登場しない。にもかかわらず圧倒的な支持を得ているという事実は、彼らのセクシャリティの変貌を雄弁に物語っているといえないだろうか(註6)。こうした男性キャラの不在=美少女キャラの偏在という傾向は『きんいろモザイク』『ご注文はうさぎですか?』といったごく最近放映された(あるいはされる予定の)日常系作品でもなんら変わることはない。それらは時として「美少女動物園」と揶揄されることもあるが、それはまさに「動物」というセクシャリティおよび「動物園」というオタク的受容の本質を突くものである。村上春樹のテクストに頻出する動物というイメージをさらに視覚的・性愛的・効率的に抽出できるよう洗練された受容形態ともいえよう。

しかしその一方で、こうした虚構での(自体愛的な)愛の営み、俗に「キマシタワー!」「ここにキマシタワーを建てよう」などといわれる二次元美少女キャラ同士がキャッキャウフフするだけの不毛な戯れ合いは――さらにその光景を享受し消費し満悦するだけの動物的な不毛な営みは――いままで私たちが評価してきた村上のテクストにおける女性としての倫理的な営みを無に帰すものではないか、という疑問が生じる。この正当な疑問に対し、私たちは首を縦にも横にも振ることはできない。なぜか。すでに述べたように「僕」が「クミコ」を取り戻すという行為は、文字通り命がけの跳躍の結果にのみによるものだった。つまり、『ねじまき鳥クロニクル』ではそれがたまたまうまく行ったケースにすぎず、「僕」も「クミコ」もすべてが「失われ」て「どこにもたどり着けない」まま、「取り返しがつかないまでに損なわれてしま」うケースも十分にあり得たのだ(そのケースとして私たちは『国境の南、太陽の西』の「イズミ」を思い出す)。そのような蛮勇にも等しい行為に私たちは「可能性や確率だけで動かないものもある」という信念のみを担保として、すべてを賭けることができるだろうか? 直接回答することは差し控えることにしても、深夜アニメを中心としたいままでの動向を観察する限り、次のような見解を導くことは差し支えないだろう。もはや「僕」という空虚な欲望主体は消えゆく媒介者として消え去るしかないのだ、と。

ここまでのセクシャリティに関する議論を簡単にまとめてみよう。

①二十世紀日本の国民作家・夏目漱石のテクスト:男性のセクシャリティにおける女性の顔の抑圧・隠蔽という他者=現実からの逃走戦略から生じた(非)倫理的体制。

②二十一世紀日本の国民作家・村上春樹のテクスト:女性のセクシャリティにおける女性の顔の喪失・回復という他者=現実に対する回帰戦略から生じた(有)倫理的状況。

③二十一世紀日本の百合文化に根ざした深夜アニメ:動物のセクシャリティにおける少女の顔の複製・転送というキャラ=虚構への侵犯戦略から生じた(無)倫理的楽園。

こうした欲望やセクシャリティ、倫理の変貌から私たちはなにを読み取り、なにを汲み取るべきだろうか。子供を産み育てるという現実のセクシャリティとしての性の論理および倫理から解離した虚構のセクシャリティにどのような意味があるのか。そもそもこのような新たなセクシャリティが新たな人間=動物の服装=様式スタイルとして付されたのはなぜか。それは動物に誤って付された服装=様式スタイルにすぎないのか。それとも性の真理セックスは新たな導きの糸としてこのような奇妙なセクシャリティを(セクソロジーという媒介領域を経由することなく)私たちに与えたのだろうか。だとしたら、これからセクシャリティは(そして私たちは)どこへ行こうとするのか。

残念ながらそれらについて言及するにはあまりにも余白が足りない。そう、私たちは切実に余白を必要としている。フェルマーの数学やデリダの哲学だけでなく、私たちの(そして貴方たちの)文学においても余白は必要だ。純白でも空白でも告白でもない、余白。そこには二種類の余白が想定されるだろうが、それは原稿用紙の枚数規定という物質的な、意識的な、空間的な余白ではない。思考が熟成される間としての非物質的な、無意識的な、時間的な余白だ。おそらくそれは、村上春樹が数年の歳月を経て女性=他者に対する一つの解答を得たように、あるいは『魔法少女まどか☆マギカ』の暁美ほむらが何度も時間遡行を繰り返すことによって(女神となったまどかが)魔女のいない新たな宇宙を創世したように、私たちが想定するよりもはるかに大きなものをもたらすことになるだろう。そのためにも、私たちは『ねじまき鳥クロニクル』の「オカダ・トオル」と名指された男性(人間)=主体としての「僕」が無数の人々の顔を観察したように振る舞うのではなく、『Kanon』の「月宮あゆ」と名指された少女キャラ=幽霊としての「ボク」が無数の人々に素通りされ、「うぐぅ」と涙目でたい焼きを頬張り、「来るはずのない人」を待ち続けたように振る舞わなければならない。いいかえれば批評という服装=様式スタイル生地テクストを織りなすためには、その紡ぎ糸である思考(=幽霊)もまた少女(=幽霊)のように振る舞わなければならない。

本論はこうした『Kanon』の愛に叶わんとする振る舞いによってもたらされた、ささやかな「しるし」である。「善いしるし」としての「サワラ」が「僕」と「クミコ」をつないだように、本論もまた私たちと貴方たちをつなぐ「善いしるし」としての捨て猫(=動物)、幽霊、あるいは少女であることを願ってやまない。


(1)恋愛というセクシャリティにおける「純白」は性欲に根ざした「肉の臭い」から躊躇なく切り離されるのに対し、「私」の卒業祝いの晩餐で見られた「白いリンネル」に象徴される「純白」は食欲に根ざした「肉の臭い」のする食卓に矛盾なく組み込まれている。こうした文化的コードの差異に伴う「先生」の態度の違いを、私たちは嗤うべきだろうか。

(2)死のプログラムが絶対的に穿たれたブラック・ホールで終わるのに対し、生のプロセスは相対的に穿たれたホワイト・ホールから始まる。

(3)ここでの詐欺師を『こころ』の「先生」に「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といわせたものと一緒にしてはならない。それは無意識の監獄に囚われない詐欺師というよりも繋がれざる力そのものという意味で、ミスター・アンチェインことビスケット・オリバ(『バキ』板垣恵介)をイメージすべきだろう。彼もまた「先生」と同じく(愛以上の)愛を抱いた男だった。

(4)『夢の木坂分岐点』に限らず、筒井のテクストには他者が存在しない。これは彼の執筆活動が一九六〇年代日本の大衆消費社会あるいは他者なき欲望の共同体を舞台としたドタバタ喜劇を出発点とするためと推測される。こうした本論の見解には「ジーザス・クライスト・トリックスター」「三月ウサギ」「最悪の接触」などには不気味な他者が登場しているではないか、という反論が予想されるが、彼らは他者ではなく異者(柄谷行人『探究Ⅱ』)に該当する。彼らは既成の価値観に守られた共同体を覆す文化人類学的なトリックスター=外なる異者を装いつつ、実は筒井康隆の内なる異者としてつねにテクストに先行する。

(5)こうした流れには『東方Project』(上海アリス幻樂団)のキャラ同士による百合カップリングの流れが大きく影響していると考えられる。

(6)無論、男性オタクご用達のハーレム系作品はいまでも数多くあるが、そこでも女性化、百合化の波は確実に浸食している。たとえば『艦隊これくしょん』では「提督」という男性の空虚な欲望主体の構造が従来通りに維持されているが、その一方で男性ではない女性提督という設定や、「大井×北上」「長門×陸奥」「加賀×赤城」といった艦むす=キャラ同士の百合カップリングが隆盛している事実は無視できない。


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