3章 女性は嘘つきではない。彼女はそれを嘘と思っていない。
日本文学史の土壌において近代という大きな物語は二度死んだといえる。一度目は第二次世界大戦における敗戦国として、二度目は学生運動の挫折として。マルクスのいうように二度目の死が壮大な茶番劇によるものだとしたら、「二十歳という」「人格成熟にとってとても大事な時期」をそうした茶番劇で失ってしまった青年たちはどのようにしてその挫折を克服していったのか。一九七〇年代以降のポストモダン文学はそうした時代的傷の治癒あるいはその影響を受けた時代的病の回復の過程が少なからずその背景にある。無論、村上春樹の初期三部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』)も例外ではない。そうした徴候や症状と思しき傷痕はテクストの至る所で見出すことができる。
『こころ』では近代という大きな物語――超越論的な第三者の審級、死父の名、社会的・象徴的領域などともいいかえられる――が国民≒人間の抑圧装置として機能することで、「私」たちは近代的自我という良くも悪くも(マルクスのいう意味でなく)下部構造的な、局所論的な立ち位置として立たされており、そこでは恋愛というセクシャリティによる外部=制度(家父長制)との軋轢や祖語、苦悩や葛藤を余すところなく「小説」という「小」さな物語言「説」を通して、エゴイズムの恐ろしさとして制度的に回収することができた。しかし、いままで見てきたように近代という大きな物語装置に規定・抑圧しきれない(自己に根ざした)ナルシシズムの行方はそうした小さな物語言説にさえ回収しきれるものではない(余すところたっぷりと、と本論で表現したのはそのためである)。まして、大きな物語の二度の死により、抑圧装置が機能不全に陥ってしまったらどうなるのか。ストッパーを失った空虚なナルシシズムが(一九七〇年代以降の日本社会という)時代的病の症状として――ポストモダン社会のシニシズムとして、小さな物語に全面化してしまう他ないのだ。
ゆえに、村上の初期三部作は『こころ』よりもさらに重篤な患者の症例として、すなわち回復=読解が困難なテクストとしてより慎重な検討を要するが、本論の目的はあくまでも『ノルウェイの森』の読解であるため、ここではその症状を簡単に述べるにとどめておこう。これらの症状の特徴として、私たちは次の三つの不在を指摘することができる。
①固有名の不在。主人公の「僕」、「鼠」、「ジェイ」「208」「209」etc……。
②人間の不在。数字への偏愛、機械との蜜月期間、動物との同棲空間。
③物語の不在。断片化から長編化への流れ。
①について。近代文学に属する『こころ』では「私」の同一化という脱固有名戦略の徹底化が図られていたが、七十年代以降のポストモダン文学においてはそうした戦略を建てるまでもなく、大きな物語(死父の名)の不在を背景とした固有名に対する信頼の失墜が固有名に対する無根拠な信頼を大きく上回ってしまっている。よって、村上春樹の初期テクストにおいては固有名という召喚魔法が使用されることはほとんどない。そこでは「他の誰でもない、この人」という「この者性」としての単独性(柄谷行人)、固有性、他者性は大きく後退し、代わりに偶有性、恣意性、児戯性が大きな位置を占める。
②について。他者が存在しない以上、「僕」たちの関心はナルシシズムを脅かさない対象に向かうしかない。すなわち数字や機械、動物といった世界の無い、または世界の貧しい(ハイデガー)がために「僕」たちの世界(個人的・想像的領域)へと容易に取り込むことができる存在者ならぬ存在。それは、ポストモダンの世界では人間でさえも「鼠」「羊男」「208」「209」といった具合に容易に動物化、数値化への変貌を遂げることを意味する。
③について。これは『風の歌を聴け』を一読すれば明らかだろう。『1973年のピンボール』を経て『羊をめぐる冒険』では大きな物語を回復しているようにも見えるが、私たちはその見解に懐疑的だ。事実、発表当時(一九八〇年前後)には大きな物語の再生とでも呼ぶべき長編小説が数多く発表されており、大江健三郎『同時代ゲーム』、井上ひさし『吉里吉里人』、中上健次『枯木灘』、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』などに『羊をめぐる冒険』も含めて構造主義的に読み解くという試みもあるが(蓮實重彥『小説から遠く離れて』)、彼らの多くが場所(共同体‐歴史)的=寓話的強度に根ざした物語の復活を目指すものであるのに対し、村上は非‐場所(非共同体‐非歴史)的=寓話的弱度に満ちた――「僕」を北海道に呼び寄せたのが、「鼠」の「本当の弱さ」によるものであることを思い出そう――彼らとはまったく異質な物語を新たな人間≒個人の生のプロセスや倫理と共にゼロから立ち上げようとしたかのように思われる。
以上を踏まえた上で、『ノルウェイの森』を見てみよう。リアリズムの文体への回帰やセックスや死に対する直截的な描写は、それまでのデタッチメントを主体とした初期テクストと比較すると一見、大きな物語の回復を思わせる。しかし、先に述べたようにそれは個人の生という新たな物語の立ち上げに伴うものであり、寛解期とでも呼ぶべき時代的病からの回復によるものだ。たとえば「僕」には「ワタナベ・トオル」という固有名が贈られているが、それが通常の漢字表記でなくカタカナ表記であるのは、日本語特有の柔軟な重層的構造(ひらがな・カタカナ・漢字)によって辛うじて掬い取られた違和感の表明としての――大きな物語の不在による――解離的・病理的な自己認識に過ぎないためであって、固有名に対する無根拠な信頼性の回復を意味しない。こうしたカタカナ表記は固有名の自明性ないし他者性の喪失として機能する(たとえば「キズキ」「ハツミさん」「レイコさん」)。
一方、他者=女性としての「直子」「緑」には漢字表記が宛がわれているが、私たちは彼女たちに対して――『こころ』の「静」「光」に対して行ったように――男性の逃走戦略としての意味作用を問い直すことはできないし、そうすべきでもない。大きな物語という社会的・象徴的領域すなわち不可能な領域に接近するための媒介領域が機能不全に陥っている以上、それを前提とした逃走戦略は不可能だからだ。そのために村上の初期三部作では無関心であることを前提とした他者=現実からの徹底した回避戦略がとられてきたが、それは時間の経過と共に他者=現実への回帰戦略へと転換せざるを得ない(デタッチメントからコミットメントへの転換)。ただしそれは、「『 』―と―共に―生きること」という固有名なき他者との無媒介的な、極めて困難な生のプロセスを「共に」歩むことを条件とする。おおまかにいうと、不可能な領域――他者、死、真理etc――と(私たち主体が支配しているはずの)個人的・想像的領域が媒介領域無しに直面してしまうがために、私たち主体が崩壊しかねない危機的状況としてまとめることができる。具体的には以下の通りに。
①他者について。「直子」は(『こころ』の「先生」と同様に)死者の名からの呼び声=他者として「僕」の過去を回想‐再生せしめる不可能性の中心に位置する――かのように装う――が、「緑」は逆に「僕」を呼び声=他者とすることで他者の他者として亡霊化し、「不可能性の審級すら維持されない」さらに不可能な不可能性の中心へと「僕」を追いやってしまう。詳細は後述する。
②死について。『こころ』では「雑司ヶ谷の墓地」や「明治の精神」「乃木大将」「渡辺崋山」といった固有名等がクッションになることで死の不可能性を隔離化‐遠隔化するが、『ノルウェイの森』では「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という箴言=真理作用により、死の不可能性は直接的・無媒介的にイメージとして導入される(「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」)。
③真理について。ここでは真理に直面してしまう状況というよりも、真理の真偽を決定する媒介領域の弱体化に伴う(非)倫理的な状況として注目すべきだろう。「レイコさん」も「緑」も「僕」も皆自覚のない嘘つきであり――まるで「レイコさん」の人生を狂わせてしまった美少女のみを贖罪の山羊とすることで彼らの「罪悪」を隠蔽するかのように――、しかも彼女たちの倫理には『こころ』の「先生」が背負ったような良心の呵責や罪責感はほぼ入る余地がない。しかし、そうした世界で生きている以上、その「生きつづけるための代償を」近代的自我の罪責感や殉死とは別のかたちで彼女たちは「きちっと払わ」なければならない。それはポストモダン以降の生のプロセスにおける女性=他者とのコミュニケーションの二重に不可能な不可能性として、最終章の解離的な光景に集約されることとなる。
「僕」は「レイコさんと握手をして別れた」後、「緑」に電話をかけるが(なぜ直接会いに行かなかったのだろうか?『こころ』の「先生」も「静」に直接告白しなかったからこそ、あの悲劇が生まれたというのに。恋愛という悲劇は時代を超えて男性が同じように躓くことで反復されるしかない運命なのだろうか)、「緑」は次のようにいう。
(……)「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
ここでの「緑」は『ねじまき鳥クロニクル』の「電話の女」と同様に「 」という固有名なき他者として亡霊化してしまったといってもいい。あるいは第二の「直子」や第三の「静」という女性=亡霊として。「鉄板みたいに無神経」な「僕」という無関心な男性=他者に翻弄される他者の他者として。電話という遠隔化=亡霊化するメディア装置を通じての顔なき声として。そう、直接対面することのない顔という不可能性=現前性(不可能性の審級)なき声のみによってもたらされるコミュニケーションは、「僕」の〈話す‐聴く〉という声‐意識のみによって吊り支えられた無根拠な自己同一性=自明性をたやすく浸食し、混乱させてしまう。ある意味でそれは本編冒頭で機内BGMとして流れた「ノルウェイの森」が「僕を混乱させた」光景と接続=反復することで、出発点=終着点という『こころ』の反復される物語構造とも通底=再反復するが(もっとも「ドイツ人のスチュワーデス」が「素敵な笑顔」を向けて話しかけることで、「僕」の混乱は収まるのだが)、ここでの「僕」の立ち位置は『こころ』の「私」たちのそれよりも困難なものだ。それは「静」という固有名それ自体の意味作用によって暗示されるにとどまる声なき声としての女性の不可能性に対し、「緑」(正確には「 」)という固有名なき他者の顔なき声によってもたらされる女性の不可能な不可能性に対する困難な立ち位置ともいいかえられる。どういうことか。
「緑」という顔なき声は「僕」を内部から内なる声‐意識として浸食することによって(「僕はいまどこにいるのだ?」)、「僕」という自明性の中心〈いま・ここ〉(now-here)をその接ぎ目(-)を外すことで脱臼(脱構築)してしまい、「どこでもない(nowhere)場所のまん中」という不可能性の中心へと追いやってしまう。このときの「僕」は彼女の呼び声=他者として「緑を呼びつづけ」るが、かつてのように「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」「春の熊くらい好きだよ」「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」といった「ユニーク」な愛の言葉はもはや彼女には届かない。(『こころ』の)「先生」の罪の告白が自意識の牢獄に囚われた地下室の手記=死父の声として「私」を呼び寄せるのに対し、「僕」の愛の告白は無意識の監獄に囚われない詐欺師(註3)の詐術=他者の声によるものでありながら、「緑」を呼び寄せることは決してない。なぜか。(同じく無意識の詐欺師でもある)「緑」に繰り返し用いることで愛の鮮度は薄れ、「ユニーク」な愛の言葉は何も保証しない無根拠な詐術にすぎないことを「鉄板みたいに無神経」な――無関心ともいいかえられる――「僕」の態度を通して証明してしまったからだ。魔法は解けた(固有名の召喚魔法と同様に)。ここでの「僕」は無力化=女性化の過程をたどることで、(世界の貧しい動物や機械と同様に、世界≒ファルスの弱い)女性としての生を強いられることになるだろう。そして「僕」も「緑」も『ノルウェイの森』というテクストでは決して救われることはないし、ひいては女性という困難な生や物語、倫理といったポストモダン以降の世界に山積する数々の難問は当該テクストにおいて何一つ解決されることはない。
その解決策の一つが提示されるのは――漱石の解決策が時代を越えて春樹へと繰り越されたのと同じように――数年の年月を経て『ねじまき鳥クロニクル』の完成を待たなければならない。ここではそれまでの村上のテクストにも頻出した「井戸」というキーワードが特権的なトポスとして機能することになる。それを単にユングの集合的無意識の表象装置としてイメージしてはならない。たとえばこうした(無意識への潜行という)実験的なテクストとして私たちは筒井康隆『夢の木坂分岐点』を思い浮かべるが、そこでの試みを『ねじまき鳥クロニクル』の試みと同列に論じるべきではない。なぜなら『夢の木坂分岐点』が究極的には自分自身(「陰惨な眼のやくざ」)との遭遇による死の可能性(不可能性ではない)が暗示されるにとどまる――いいかえると他者の存在しないテクスト(註4)にとどまる――のに対し、『ねじまき鳥クロニクル』ではまさに他者と遭遇するためにそれまでイメージでしか語られることのなかった「井戸」に実際に「僕」が潜る――河合隼雄にならっていえば「井戸掘り」をする――ことで、さらには他者との壁を抜ける「壁抜け」という命がけの跳躍を行うことで、女性=他者とのコミュニケーションの不可能性というそれまで正面から向き合うことのなかった難問に対し、一つの解答を提出するに至ったのだから。「クミコ」という「本当の私とはいったいどの私なの」か「確信すること」さえできない女性=他者の弱々しい呼び声(「声にならない声」「言葉にならない言葉」)を聞き取り、偶然を待ちつづけ、「クミコ」を取り戻すという「僕」の営為は、まさに女性としての倫理に基づくものだ。
東浩紀はラカンによる「女性」の位置づけにデリダの郵便との接続可能性を見いだして、次のようにいう。「男性的主体は固有名の偶然性をファルス(父の名)によって「運命」に転化するが、女性的主体はたえざる偶然に曝され続け、決して運命をつかむことがない」(『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』)。恋愛の悲劇という躓きの石により必ず躓くこととなる運命の道ではなく、女性=他者の弱々しい呼び声のみを指針として偶然を待つしかない運命なき困難な道を歩むということ。それこそが女性としての生のプロセスであり物語であり倫理なのだ。それは同時に夏目漱石の恋愛というセクシャリティから村上春樹の夫婦というセクシャリティへの移行という、ポストモダン以降の文学的言説における男女の関係性の新たなステージへの移動をもたらすことになるだろう。