2章 ストーカーの「私」/顔射される「私」
前章で私たちは『こころ』と『ノルウェイの森』の共通点を大まかにまとめてみた。論旨をわかりやすくするためにも、まずは『こころ』について論じることにしよう。
鎌倉の海水浴で「先生」と偶然出会った「私」はその好意に甘えて自宅を訪問するが、「奥さん」=「静」から雑司ヶ谷の墓地に花を手向けに行ったことを教えられ、「先生」と会えるかもという好奇心も手伝って散歩がてらそこに向かうことにする。しかし、喜びの再会を期待して「私」が声をかけた「先生」の反応は思いもよらないものだった。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二遍繰り返した。その言葉は森閑とした中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応えられなくなった。
「私の後を跟けて来たのですか。どうして……」先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中には判然はっきりいえないような一種の曇りがあった。
この箇所を読むたび、「先生」がバリトンの効いた美声でユーミンの『リフレインが叫んでいる』を歌っている姿を見いだしてしまうのは、私だけだろうか(「どうして どうして僕たちは出逢ってしまったのだろう」)。さらにそこから、「私」と「先生」との男性同士の禁じられた恋をテーマにした腐女子感涙(え?)のミュージカルが開演する光景を見いだしてしまうのも、私だけだろうか――。
「おまえは何を言っているんだ」
そんな突っ込みがミルコ・クロコップのAA付きで入れられそうなのであわてて補足すると、こうしたBL目線での読み方は私だけの専売特許ではなく、すでに多くの先人たちに指摘され、実践されてきたことである。というか、『こころ』冒頭から「どこかで見た事のある顔のように思われ」ただけで「先生」の顔を見るためだけに「次の日も」「その次の日も」「同じ時刻に」浜に行き、「先生」の落とした眼鏡を拾ってお礼を言われるという少女マンガ顔負けのベタな出会いシチュにより「先生」からの面識を得るや、ずうずうしくも「これから折々お宅へ伺っても宜ござんすか」などと問いかけ、「先生」から「ええいらっしゃい」とこころよい返事を得るも、「先生とよほど懇意になったつもりで」「もう少し濃やかな言葉」を期待していた「私」はその「物足りない返事」に失望し、その後も「先生」の一挙一動に一喜一憂し「軽微な失望」を繰り返すその様は、どこをどう見ても恋愛対象に振り回されるストーカーにしか見えない。
こうした彼らの無根拠なゆらぎに満ちた男性同士の関係性を享受する欲望の主体(媒体?)として、先に述べた腐女子と呼ばれる同性的な媒介者=性的主体なきセクシャリティを抱える女性が『こころ』の読者として登場するのは必然的な流れだ。彼女たちの読みのコードは「奥さん」=「静」という(漱石=男性の手により仮構された)女性の声なき声、欲望なき欲望に焦点化することなく、「私」や「先生」という(読者=女性の仮想的なフィルターを通しての)男性の声により屹立した欲望、欲望の充満した声に焦点化される。簡単にいえば、彼女たちが感情移入する対象は同性である女性でなく、男性に偏っているのだ。
実をいえば、彼女たちのセクシャリティは、私たちが「罪悪」として暴露‐告発=告白しようと試みる自らのセクシャリティと立場的には近い。彼女たちが世に出回る数多の創作物から数多のBL作品ないしBL成分を抽出し、享受し、消費し、満足するのに対し、私たちもまたアニメ、漫画、ゲームなどのなかから数多のGL作品ないしGL成分を抽出し、享受し、消費し、満悦するのだから。
だからこそ、私たちは彼女たち=女性読者とは異なり、『こころ』というテクストを「私」や「先生」という男性=同性的な媒介者=性的主体としての貧しいセクシャリティを通じてしか受容できない男性読者の息苦しい立場に激しく反発し、『こころ』に見られるさまざまなレヴェルの主体の無根拠性に――男性的主体、恋愛的主体、「罪悪」的主体の空虚さ、無意味さ、儚さに――激しく抵抗するのだろう。しかし、こうした自己分析については最後に述べることにして、再び本論へ戻ろう。
「先生」が「どうして……、どうして……」という無意味な呟きを洩らしたのは、いうまでもなく過去の秘密――「お嬢さん」(=「静」)をめぐって抜け駆けをしたため、友人の「K」を自死に至らしめた事実――の暴露を恐れたことに起因する――かのように見える。が、正しくはそうではない。「雑司ヶ谷の墓地」は「K」の眠る場所であるが、同時に「先生」にとっては自己を罰するための告解室(ないしは自意識の牢獄、自己対話の地獄)としての場所であり、かつ、そうした自罰の感情とコインの裏表の関係にある自己愛に満ちた空間でもあった。そこへ「私」が不意の一撃を加えること――「先生」と「大きな声をかけ」ること――で、(「K」との微睡みに浸った、まさにBLチックな)その空間に亀裂が入ってしまったのだ。それを修復するために、「どうして……、どうして……」と幼児退行めいた呟きを発するしかなかったのである。
この邂逅は「先生」にとって悪い出来事ではなかったはずだ。自分の殻に籠っていた人間がそこから抜け出し、新しい世界で生きることを決意させるであろうその事件=出来事は、古今東西問わず成長譚の出発点へとつながるべきものなのだから。しかし、その手のありふれた成長を遂げさせるには「先生」はあまりにも老成していたし(「私」が若々しい書生であるのとは対照的に)、漱石もまた「先生」にその手のありふれた生のプロセスを歩ませることを(逃走戦略の総司令官としての立場から)よしとはしなかった。なぜか。
「先生」は「静」が「K」の名前を「私」に教えなかったことを知ると「得心」して、「私」と連れ立って歩きだすが、その場面で当て字としての固有名を見出すことができる。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのという傍に、一切衆生悉有仏生と書いた塔婆などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
周知のように、『こころ』の男性側の主要人物には「私」「先生」「K」といった代名詞や一般名詞、頭文字などが宛がわれており、固有名は贈られていない。それに対して、彼ら外国人(の死者)には「イサベラ」「ロギン」「アンドレ」という固有名が、女性陣にも「静」はもちろん、主要人物とは言い難い「私」の母親にまで「光」という固有名が贈られており、「奥さん」「母」「外国人」といった一般名詞のみが宛がわれることはない。
これらの区別について漱石が無自覚、無頓着であったとは考え難い。『坊ちゃん』を一読しただけでも、彼が固有名/脱固有名をめぐる戦略についてテクストを不自然に装う程度には――「坊ちゃん」の本名を最後まで一度も明かさず、新聞の記事でさえ「生意気なる某」呼ばわりする程度には――意欲的であったのは明らかなのだ。だとすれば、この男女逆転の現象についてはどう説明すべきだろうか。
私たちの考えでは、次の三つの理由を挙げることができる。
①『こころ』の「私」たち(青年の「私」と遺書における「先生」の「私」)に固有名を付与しない戦略を徹底することで、固有名にまとわりつく剰余としての固有性=不純物抜きでの男性読者の円滑な同一化を図るため。いいかえれば男性読者の「私」たちを『こころ』の「私」たちと錯覚させるため。
②「静」という固有名=固有性を付与することで、(「先生」がその場から逃走するしかない)女性としての他者性および他者としての顔を生成するため。
③「静」/「光」という固有名=固有性を付与することで、「先生」の殉死という美学の最終的に行きつく先としての着地点をその「静」というエクリチュール機能により遠隔操作‐決定し、かつ、「光」による光学的倒錯に根ざした「純白」や「血」といった、「先生」のナルシシズムが濃厚に投影された体液の誤爆‐固着により「静」や「私」の他者性を抹消する逃走戦略を構築するため。
ひとまず①については置いておくとして、②について述べよう。
おそらく貴方は、「固有名を付与しただけで女性としての他者性、他者としての顔を生成することなど、本当に可能なのか?」と疑問に思われることだろう。「可能だ」と私たちは断言しよう。少なくとも創作=小説という言語ゲームの磁場においては。そこにおいてこそ、固有名という呪文は(名前それ自体に深い意味などなくても)絶大な効果を発揮するのだ――固有性、過剰さ、他者性、他者の顔、その他諸々の召喚魔法として。
私たちはそのことを、優秀な戯曲家はどんな端役であっても登場人物ABCなどと記号化したりせず、大作、喜一といった具合に必ず固有名を明記するという筒井康隆の感情移入による文芸批評のエピソード(『筒井康隆の文芸時評』)や、その実践版を思わせる『朝のガスパール』のフィナーレを飾る固有名の羅列、あるいは顔についてきわめて射程の深い議論を展開する斎藤環(『文脈病 ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』)のレヴィナスからの引用(「人物の名を語ること、それは顔を表現することである」『固有名』)などから、ほぼ確信に近いものを抱いている。さらに斎藤は、顔を(指紋などと同じように)単なる皮膚の起伏としてコンピュータのパターン認識に還元され得るような固有性ではない固有性としての表象=再現前化不可能性として、あるいはその都度私たちの現前に新たに生起する生成可能性として、レヴィナスやサルトル(まなざし)、ラカン(鏡)などをその限界を踏まえた上で引用しつつ、それらを批判的に継承したドゥルーズ=ガタリ(ホワイト・ウォールとブラック・ホールのカップリング)に(顔の)圧倒的な理論可能性の地平を見いだしている。しかし、これらの議論について本格的に言及するには、本論ではあまりにも余白が足りない。よってここでは、「静」がその固有名の付与によって他者の顔を生成することができると指摘するにとどめ、そこから「先生」がいかに③へ至ったのかを見ることにしよう。
「静」という固有名はその同時代的文脈からただちに乃木大将の妻・静子を連想させる。『こころ』の最後で「先生」に自殺を決意させたのが乃木大将の殉死である以上、注目するなというほうが無理な話だろう。しかし私たちはここであえてそうした文脈から切り離して、「静」の固有名自体の持つ意味を考えたい。どのように?
「静」を「青」と「争」いの二つに切断すること。それらを「静」の語源に遡って注釈すること。「静」を構成する「青」とは青色というより、しんと澄みわたった「争」いのない状態を指すものだという(『漢字源』藤堂明保等編)。とすると、次の仮説が考えられる。漱石は「先生」と「K」との「お嬢さん」をめぐる男たちの「争」いとは無縁な、女性としての立ち位置の透明性を確保するために「静」という固有名を贈ったのではないか。さらにいえば、「先生」が「静」を「純白」の他者として繰り返し扱っていたのも、まさに「静」という固有名それ自体の意味作用によるものではないか。たとえば「先生」は「私」への遺書で「静」に過去の秘密を告白しなかった理由について、次のようにいう。「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい」。
一見、ここでの「純白なもの」とはまさに「静」という固有名と対応するように思われる。「妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかった」「先生」の「倫理的に潔癖」な性格と合致した「純白なもの」。それと対応するために作者=漱石へ要請され付与されるに至った固有名「静」の意味作用。しかしこの解釈は間違っている。「静」≠「純白」であり、彼女は「純白」とは無縁の存在である。それは(「K」との微睡みに浸った「雑司ヶ谷の墓地」という特別な場所と同様に)「先生」のナルシシズムの延長線上にしか存在しない。より厳密にいえば、「純白」とは彼のナルシシズムそのものであり、女性という不可能なものを隠蔽するために領土化し、それを他者の介入し得ない彼固有の仮想領域に転送したものだ。「純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい」という「先生」の告白は、「純白なもの」の正体が「静」ではないことを、「先生」自身の『こころ』=ナルシシズムの痛みを通して物語っている。さらに厳密にいえば、「純白」とは女性という不可能なものを「純」粋に「白」く穢すことで、その不可能性を隠蔽し、かつ、男性の専制的支配下にある領土と化すことで、それを男性特有の仮想領域に転送したものである。では、何によって「白」く穢されるのか?この疑問は、『こころ』本編の「子供はいつまで経ったってできっこないよ」「天罰だからさ」という「先生」の意味ありげな台詞を考えれば、明らかだろう。
私たちが③で述べたナルシシズムの性格が濃厚に投影された二つの体液の正体、それらは血液と精液のことに他ならない。当然、精液とは(性の論理に従う限りでは)〈精巣‐尿道‐膣口‐子宮〉という移動の流れと〈射精‐受精‐着床‐妊娠〉という行程の流れを意味と目的とした体液である。しかし、「倫理的に潔癖」な「先生」が「静」に対し「ほとんど信仰に近い愛」を持ち、「もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたもの」であることを信じて疑わず、「お嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びてい」ない以上(註1)、彼の欲望はそうした「性欲」に根ざした性の倫理やそれに接続した子供をつくるという性の論理によって叶えることはできない。つまり、彼の欲望は女性の身体に穿たれた躓きの孔(穴ではなく、石でもない)としてのホワイト・ホール(註2)――すなわち、性の論理的かつ倫理的に正しい着地点としての――子宮へと射精=発射されることはなく、それとは別の場所への射精=発射すなわち誤爆されるものでなければならない。では、どこに着弾する誤爆なのか?彼のセクシャリティに根ざした新たな性の倫理として選ばれた場所、それは彼のナルシシズムを脅かすであろう「静」という固有名、女性としての他者性、他者としての顔を抹消するための場所に他ならない。
それこそが「先生」の選んだ女性=他者からの逃走戦略としての顔そのものへの誤爆である。わかりやすくいえばぶっかけだ。AVで数多あるジャンルのなかでも人気度、変態度共に高いジャンルとして知られ、顔射、ぶっかけ、ザーメン・パック、スペルマ・シャワー等々様々に呼称され、AV女優の美しい顔を無意味に、無価値に、倒錯的に、背徳的に、「純白」の体液でどろどろに彩っていく――かくして女性の他者としての顔=固有性は抹消され、(女性という)不可能なものは(男性という)不気味なものへと変貌を遂げていく――謎の様式美としての儀式。いうまでもなくこれは、男性の欲望が「倫理的に潔癖」であろうとしたがために、かえって(非)倫理的に倒錯したものへと変貌を遂げてしまった一つの症例である(先に述べたニャルラトホテプによる「途方もないもの」としての狂気の症例)。
この突拍子もない、かつ、「途方もない」仮説を補強するために私たちはもう一方の体液、血液についても述べることにしよう。こちらについては、すでに小森陽一が論文「『こころ』を生成する『心臓』」で触れている。小森は従来の『こころ』論のように青年の「私」を単なる「先生」の精神的な息子としてではなく、「先生」の「血」を浴びることにより新たな生を更新し続ける「新たな『血』の『論理』と倫理を生きはじめ」た「先生」の他者として扱うことで、「先生の遺書」を(硬直化したイデオロギーとしての)家父長制言説に落とし込むことなく、「私」が差異化し続けるという「アンチ・オイディプス」(ドゥルーズ=ガタリ)の論理に則って『こころ』を論じている。それまでの『こころ』論の論調に抗うためにポストモダニズムの思考を導入することで生まれたこの論文は、同時期に発表された石原千秋「『こゝろ』のオイディプス―反転する語り―」と共に当時の学界に大きな衝撃を与え、後に『こころ』論争と呼ばれる騒動に発展することとなるが、ここでは言及はしない。
本論で問題とすべき点は、私たちと同じくポストモダニズムの思考に影響を受けた小森のいう「血」の論理とは、本論が論じようとする血液と同じものであるか、否かだ。結論からいえば、否だ。私たちの考えでは、(小森のいうように)「先生」の血液は「私」の体内を循環することも新たな「血」の論理を構成することもなく(そもそもクロスマッチもしないで輸血することを前提としたこの論文は、「先生」の死父としての声――「私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です」――に引きずられたがゆえの暴論といえる。このときの「私」は若々しい書生の「私」でなく、若々しい研究者だった小森陽一の「私」が転移したものに他ならない)、むしろ「先生」の体内を循環するという「血」の本来の意味=方向から外れた外部へと流出し、「私」の顔に浴びせることで――精液のぶっかけと同様に他者の顔に誤爆‐固着することで――「私」という固有性=他者性を抹消するにとどまっている。それは、「先生」の過去の秘密という負の遺産を贈るために必要な儀式だ。「過去の因果で、人を疑りつけている」「先生」が「死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死」ぬためには、「疑るにはあまりに単純すぎるよう」な「私」ですら、その他者性=不可能性を排除しなければならないのだから。
(「先生」の)「私」から(青年の)「私」へという遺贈の過程は、そのまま(『こころ』本編の)「私」たちから(『こころ』読者の)「私」たちへという読解の過程と重なり合う。①で述べたように、「私」という同一化=錯覚の罠からは小森も、そして私たちも逃れることはできない。ここで物語世界内における恋愛というセクシャリティをめぐっての「純白」――男性同士の共犯関係によるその領土化された概念は、物語世界外における読解というセクシャリティをめぐっての読者同士の共犯関係へと接続し、さらなる領土の拡大化を図る。どういうことか。
物語は物語それ自体について完全に語り尽くすことができない(メタ物語は存在しない)。『こころ』についても、それは例外ではない。語り手の〈いま・ここ〉のみならず、その他無数の語りえぬもの=空白を抱えたがゆえのゆらぎに満ちた不完全な物語としてしか、『こころ』というテクストは受容も生産もされない。いいかえれば私たちが空白を生産しない限り、テクストもまた生産されない。ゆえに語りえぬものについては沈黙するのではなく、饒舌でなければならない。しかしそれは、空白を生産すると同時に空白を抹消するという不毛な、かつ、読者同士の共犯関係に基づく作業であることを意味する。これに近い光景はすでに見てきた。そう、「純白」。「純白」が女性=性的身体の透明性を装いつつも実は男性の欲望によりすでに領土化された概念であるのと同様に、空白もまたテクスト=物語言説の透明性を装いつつも実は読者の欲望によりすでに領土化された概念なのだ。その所有権をめぐって私たち読者は正しい読解という名の下絶えざる闘争の場に身をさらさなければならない。
こうした「先生」と「K」の恋愛をめぐる男たちの「争」い、私たちや小森たちの読解をめぐる読者たちの「争」いとは(これら二重の意味において)、「静」という女性は無縁の存在である――固有名それ自体の意味作用によって。にもかかわらず、彼女はまさに「静」という固有名それ自体の意味作用により、「先生」の殉死による最終的な着地点を無自覚のうちに決定してしまう(最終審級としての)存在者でもあるのだ。なぜか。
「静」を「青」と「争」に切断して強引に読み込む作業についてはすでに述べた。それは(「純白」や空白としてではない)女性という透明性、不可能性そのものを含意する――のみならず、(『こころ』本編で語られることのない)「先生」の死体の発見現場を推理させる判断材料でもある。物語がその希求力によりつねにその出発点への回帰願望を孕むものである以上、『こころ』という物語においてもその終着点(=「先生」が殉死した場所)はその出発点(=「先生」と「私」が出会った場所)から見直さなければならない。
結論からいえば、「先生」は「私」と出会った鎌倉の海に入水することで殉死を遂げたのではないか――そう私たちは考える。「妻に血の色を見せないで」「残酷な驚怖を与える事」なく「頓死したと思われたい」「先生」が、「私」と出会った「広い蒼い海」を死に場所に選ぶのはなんら不思議なことではない。しかし、そうした「先生」の「静」への気遣い以上に作者・漱石の意思がここには介在しているように思われる。
「蒼い海」という「血の色」も見えない「先生」の倫理的な暗さを象徴する場所、それとは対照的に「静」という女性の不可能性を含意する――「蒼い海」の遥か上空にある、まさに「先生」にとっては到達不可能な非‐場所としての――「青空」、それを「ぎらぎらと眼を射るように痛烈な色」として「私の顔に投げ付け」る色刺激の光源としての「光」――。これらは男性が「色」というセクシャリティにおいて「純白」「血の色」「蒼い海」「青空」といった光学的倒錯に根ざした視覚的欲望による領土化の罠に囚われている構造を、「静」/「光」という二人の女性の光学的差異あるいは家父長制差異を通して再現=表象した構図としての光景であり、物語の出発点=終着点として反復された差異としての場所である。このように男性の逃走戦略として完結した簡潔な図式化を図るために、漱石は「静」という固有名を贈ったのではないか――私たちはそう考える。
小森は前述の『こころ』論で「『奥さん』―と―共に―生きること」を結論とし、親子や夫婦、師弟関係といった家族的概念として領土化する思考を慎重に回避するが(石原が「私」のその後を「奥さん」と結婚し、子供もいると家族的=オイディプス的に結論づけたのとは対比的に)、そこではいままで本論が見てきた他者の問題領域がすっぽりと抜け落ちている。「『 』―と―共に―生きること」を結論とすることに本論も異論はない。だがそれは小森やあるいは私たちが想定するよりもはるかに困難な生のプロセスそのものなのだ。それは漱石を越えて近代という(社会の)大きな物語が終わった後に剥き出しにされることで、村上春樹へと引き継がれた(個人の)大きな課題である。




