1章 漱石も春樹も絶対に許さない。訴訟。
そもそもセクシャリティとはなにか。
狭義的かつ一般的には、個人の性的指向ないし嗜好を決定づける行動様式として理解されている。しかしそれは、意識的にせよ、無意識的にせよ、私たちの想像をはるかに超える「途方もないもの」として認識しなければならない。ここでいう「途方もないもの」とは、セクシャリティを形成する性的エネルギーの膨大さを指すものではない(そもそも性的エネルギーは膨大でもなんでもなく、「個体」がそう錯覚しているにすぎない)。私たち性的主体が支配しているはずのセクシャリティという個人的・想像的な領域が、セックスすなわち性それ自体、性の真理という不可能な領域に接近するための――あるいはセクソロジーすなわち性の科学、性の論理としての一部不可能な社会的・象徴的領域(性行為としてのセックスや文化的性差としてのジェンダーを包含する言説領域)に接続するための――緩衝剤ないし潤滑油としての媒介領域であるにとどまらず、「いつもニコニコあなたの隣に這い寄る混沌ニャルラトホテプです♪」(CV阿澄佳奈)よろしく他の日常的な、非‐性的な諸領域に横断的に侵犯してしまい、それらの諸領域の正気度(SAN値)をガリガリと削り取り、代わりにセクシャリティに感染した幻想のヴェールをもってそのぐるぐるおめめを覆い尽くすことで、正気と狂気の概念をまるまる書き換えてしまい、その歪んだ世界で(を)欲望する滑稽な諸機械(記号)として私たちが認識し、思考し、行動する(させられる)こと――その異様な光景を「途方もないもの」として認識しなければならないのだ。
こうした狂気の症例を、私たちは百年前に発表されたテクストにすでに見いだすことができる。殉死を都合の良い最終解かつ固定解とした倒錯した美学として、「先生」と「私」の「奥さん」をめぐる男性同士の共犯関係として、女性を「純白」の他者として美化するように見せかけつつ周到に排除する構造として――これら幾重にも仕掛けられた二十世紀のセクシャリティの罠は、いまもなお私たち二十一世紀の読者を強靭に縛り上げる読みのコードとして強力に機能している。狭義的かつ一般的な個人の範疇にとどまらない、広義的かつ普遍的な教科書読みのコードとして。国民作家たる漱石神話の回収‐再強化のプログラムに組み込ませるために。
夏目漱石。
近代的自我の苦悩と葛藤を余すところなく(かつ、たっぷりに)書き上げた二十世紀日本を代表するこの国民作家に対し、本論では二十世紀後半の日本における思想の枠組みを超えてあらゆる分野の言説領域を大いに盛り上げたポストモダニズム――正確には、その真価とでも呼ぶべき精緻な残り火たち――の視野から読み解く戦略を導入する。それは、ただちにもう一人の国民作家の問題領域へと接続し、転送されなければならない。漱石と同じ問題意識を抱え困難に直面しつつも、それを乗り越えようとした作家‐主人公に対する読解作業――すなわち彼らの二重の逃走戦略に対する批評としての戦略だ。
村上春樹。
近代という大きな物語が終わった後の、残滓の如き脱近代的自己の脱力と漂流を余すところたっぷりに(なく、ではない)書き上げた二十一世紀日本を代表するこの国民作家は、一見、漱石との共通点などないように見える。作家として活動した時代も違うし、作風も文体もまるで違う。同じなのは、文学に関心のない人間にも名前だけは広く知れ渡っているという事実――教科書の定番『こころ』やノーベル文学賞の期待される作家として毎年のように報道されるマスコミを通じての知名度――くらいではないか。本当に?
いや、私はそうは思わない。
両者の代表作『こころ』と『ノルウェイの森』を読み比べただけでも、彼らのセクシャリティに根ざした女性=他者に対する逃走戦略および回帰戦略――『こころ』の「私」や『ノルウェイの森』の「僕」が女性という躓きの孔(穴ではなく、石でもない)としてのホワイト・ホールに対し、あるいはその前に大きく立ちはだかる他者の顔=壁としてのホワイト・ウォール(ドゥルーズ=ガタリ)に対し、いかに苦悩し、葛藤し、抵抗し、逃走し、回帰したか――は、他者に対する問題の解決策を同一人物が時代を跨いで考え抜いた結果のようにさえ思える。具体的には以下のような共通点としてまとめられるだろう。
①死者に取り憑かれた奇妙な文学。
②固有名/脱固有名をめぐる戦略。
③女性/死者=他者の問題系。
④コミュニケーションの不可能性およびその中心からの呼び声。
⑤呼び声に対する主人公の立ち位置/反応。
無論、これらすべてを同一とみなすことなどできない。漱石と春樹のあいだには、そして『こころ』と『ノルウェイの森』のあいだには、近代/脱近代という世紀を越えた時代的条件としての決定的な切断面が横たわっているのだから。具体的には②④⑤、特に⑤に注目すべきだ。
『こころ』では青年である「私」が「先生」の送った「手紙」によって、危篤状態の父親を放り出して「東京行の汽車に飛び乗ってしま」い、死者=他者(もしくは「静」という女性=他者)の声という不可能性の中心へと呼び寄せられるのに対し、『ノルウェイの森』では「どこでもない場所のまん中」という「不可能性の審級すら維持されない」(東浩紀)二重に不可能な不可能性の中心から電話という生者=他者の声を遠隔化=亡霊化するメディア装置を通じて「僕」が恋人の「緑」を呼び続けるも、彼女が物語内で「僕」のもとに駆けつけたと語られることは決してない。「先生」と「僕」が呼び声の立ち位置として立ち、それを聞く立場の立ち位置には「私」と「緑」が立ち、「私」は呼び声に呼び寄せられ、「緑」は呼び声に呼び寄せられない(正確には語られない)。この違いはどこから、どのようにして生じたのだろうか。
この疑問を解くために、私たちはこの二つの不可能性の中心に向かって/からの呼び声に対し、彼らのセクシャリティに根ざした女性に対する逃走戦略および回帰戦略――そこに至るまでの経緯も含めて――に対し、それらを「先生」の呼ぶ「罪悪」として本格的に暴露‐告発の手続きに入らなければならない。
ただし、それは一方的な断罪の作業であってはならない。なぜか。無論、このことは彼らに情状酌量の余地を与えるということを意味しない。私たちがなぜ彼らの「罪悪」にここまで引きつけられてしまうのか、なぜ批評という戦略を打ち建ててまで彼らの戦略をここまで執拗に読み込もうとするのか、そうした自己分析を含めない限り真の意味での疑問を解明することにならなくなってしまうからだ。いいかえれば、これは二十一世紀を生きる私たちのセクシャリティに根ざした「罪悪」を暴露‐告発=告白する手続きでもあるのだ。
『こころ』で「先生」は「自分の心臓を破って、その血を」「私」の「顔に浴びせかけ」た。これは死者の「血」の一方的な贈与であり、精神的な息子に対する死父の名を刻印した遺贈であって、生のコミュニケーションではありえない。ならどうするべきか。生者である私たちも自らの心臓を破ってその生の血を「先生」に、さらには「私」に、そして「静」にも、あるいは第四の壁を越えて現実の読者たちにも浴びせ返す覚悟が必要だ。そう、この覚悟は私たちのものであると同時に、本論の読者である貴方たちにも共有されるべきものでなくてはならない。その覚悟がない限り、本論は貴方たちの関心から大きく外れたエキセントリックかつ不毛な議論に終わることだろう。
ゆえに、私たちは貴方たちに――いささか挑発的になるのも厭わず、かのブチャラティの名言にならって――こう問うことにしよう。
「『相手の罪の告発をする』」
「『自分の罪の告白もする』」
「『両方』やらなくっちゃあならないってのが『批評家』のつらいところだな」
「覚悟はいいか?オレはできてる」