0章 あるいは人間の服装=様式(スタイル)として
身に着けていたはずの服装=様式(スタイル)が手元からすり抜け、知らぬ間にこちら側の世界から消失し、いつの間にかあちら側の世界でもう一人の自分(でないはずの自分)が可憐に着こなし、着飾っているということ。
こちら側の世界ではそれを着こなすことも、着飾った自分を相手に見てもらうこと(ここで質問。この相手とは誰?こちら側にいる自分以外の誰か?それともあちら側にいる自分自身?)で自分らしさを実感する機会にも恵まれていなかったのに、あちら側の世界ではそれを着こなすことも、着飾った自分を相手に見てもらうこと(再び質問。この相手とは誰?あちら側にいる自分以外の誰か?それともこちら側にいる自分自身?)で自分らしさを実感する機会にも恵まれるということ。
この瞬間、こちら側にいる自分はあちら側の自分と同様に満足しているといえるのだろうか。それとも、こちら側にいる自分は(感覚を備えた)身体のみを残してあちら側の自分に吸収されて、消失しているといえるのだろうか――こちら側の世界から消失した服装=様式(スタイル)と同様に?
とすると、こちら側にいる自分とはなにか。
(アンデルセンの)裸の王様?
(ギリシア神話の)ナルキッソス?
(グリム童話『白雪姫』の)王妃様?
以下の論考は、文芸批評という一見大人っぽい尖筆=文体(スタイル)としての服装=様式(スタイル)を装いつつも、実はこうした子供っぽいセクシャリティとしての服装=様式(スタイル)をめぐって展開された、いくつもの疑問や問いかけ、呼びかけを出発点とする不幸にして不毛な、無意味にして無邪気な、自分探しの旅によるものである。