七・竜と真実 4
「風花っ!」
叫んだが、風花は至って冷静な表情を崩さず、むしろ口の端を上げた。イチへの反撃にしては遅すぎる刃を、しなやかな腕が振るった。
ヒュォンッ!
イチの刃は風花を切り裂くことはなく、彼女の身体を突き抜けた。代わりに一拍遅れて振り下ろされた風花の刃が、イチの顔に真っ赤な一線を引いた。
「……っと! 君達には魔法の剣まで効かないの?」
イチは右目の上から左頬までを大きく切り裂かれながら、それでもおどけたように笑った。溢れ出した血液が、彼女の顔を赤く濡らした。
「それにしても、まさか顔面狙うなんて。風花ってば容赦ないなぁ」
「悪いわね。狙ったのは首だったのよ? 素直に斬られていれば、その綺麗な顔は残しておけたのに」
「あっは! さすが族長の娘ってやつ? 怖いなぁ」
笑うイチに、風花は不快そうに眉を寄せた。
「怖いだなんて、貴女のような人非人に言われたくないわね。私の仲間を殺しておいて、今まで笑いながら私や紅といたんだから。それで今度は貴女を親友だと思っているカナタまで、何の躊躇いもなく殺そうとしているんだもの」
「ふふっ。私は君の家族を奪ったりなんてしていないよ? ……私はね?」
わざとらしく繰り返したイチに、風花はギリッと奥歯を鳴らすと、劣化の如き怒りを身に纏った。
「ふざけないで……!」
「お嬢、熱くなるな。悪い癖だ」
激情を露わにした風花を止めたのは、紅だった。彼は風花と並んで私の前に立つと、厳しい表情でイチを睨み付けた。
「ま、待って! イチ、何で……」
止めに入ろうとすると、紅が右手を出して私を制した。
「カナタはまだ知らなかったな」
紅は懐から開封済みの手紙とマッチ箱を取り出した。風花とロイヒテンがローズガルドの城から送ってきた手紙だった。
「火を点けて、炙ってみろ」
「あぁ、その手紙! あの時はちょっとだけ焦ったよ」
イチは笑って、特に何をするでもなく無防備にこちらを見ていた。私は紅に言われるまま、マッチを擦って手紙を炙った。ロイヒテンの整った字が、飛び飛びに青白く光った。
「薔薇に毒有り、イチは王族……って、え!?」
私は絶句して、紅を凝視した。その視界の隅で、イチが「えっ、そこまで書いてあったの?」と頬を膨らませている。紅は苦々しげな顔で頷いた。
「ロイヒテン殿は、カナタには言うなとお嬢に忠告していたらしい。お嬢が手紙に炙り出しを仕掛けていたことも知らなかったそうだ。……ただ、お嬢もイチを信じたかったからこそ、俺にしか伝わらない方法でこれを送ってきたんだ。それでイチを警戒していたから、さっきの彼女の攻撃に反応できたんだ」
するとイチが納得したようにポンと手を打った。
「あー、そういうこと。それでも凄い反応だったけどね。何せ私とカナタ、ゼロ距離だったんだから」
紅はそれを聞きながら軽く舌を打ち、私にチラリと視線を向けた。
「薔薇に毒の意味、カナタにも話しただろう? 全く、汚い現実だな」
薔薇に棘ではなく、薔薇に毒。薔薇の一部ではなく、薔薇そのものが毒に侵されている。ローズガルドの王家が黒幕だという意味――……イチが王族だというのなら、この伝言は、彼女が裏切り者であることを示したものになりかねない。
「もし本当にイチが裏切り者だと確証を得ていたのなら、お嬢は『イチは毒薔薇』とでも送って来ただろう。あくまで、薔薇に毒とイチが王族である旨は分けてある。だから俺も手紙を開封した場では、後者のことを黙っていたんだ。もちろんあの場でイチを問い詰めたとすれば、お嬢とロイヒテン殿の身の安全が脅かされる可能性があったという理由もあるがな」
「イチが王族って……。だってイチはずっと――」
言いかけて、ハッとした。イチはずっとシオウ様の部隊にいたはずだ、とでも言おうとしたのだろうか。私は、私と出会う前のイチが何をしていたのか、全く知らなかった。
「ロイヒテン殿とお嬢の話では、イチはローズガルドの王女として生まれながらその存在を隠蔽され、メイヴスを滅する為の諜報員のような役割を担ってきたらしい。だから俺がメイヴスについて探った時に、彼女の姿があちこちに見え隠れしていたんだ」
紅は、ロイヒテンと風花がローズガルドの城でシグルドから聞いたという話を私に教えてくれた。それを聞きながら、私はただ呆然としていることだけしかできなかった。
「だが、メイヴスを滅する存在であるカナタを殺そうとするのだから――どうやら実際のところは、シグルドの話と随分違うらしいな」
魔族に呪詛をかけて彼らを狂わせたのは、メイヴスではなくローズガルドの王だった――それもシャドウを生み出して、私にその力を吸収させる為に。
そして私に力を吸収させたのは、メイヴスを滅する為ではなくて……。
嫌だ、考えたくない。
するとしばらく黙って聞いていたイチが、悪戯っぽく口元に指を当て、ちょこんと首を傾げた。
「黙っててごめんね、カナタ?」
「あ……」
いつかの言葉と重なって、私は思わず硬直してしまった。呆然とイチを見つめる私に、彼女はクスクスとおかしそうに笑った。
「〝薔薇に毒有り〟だなんて――ホントびっくりしたわよ。風花お嬢さんはもう少し賢い子だと思っていたけど……お利口なのはロイヒテンだけだったか」
イチはロイヒテンをちらりと見ると、悪戯に失敗したような顔で肩を竦めた。
「でもさぁ、私が王女だなんてホントびっくりだよね。笑っちゃう」
胸の中が冷たい。指の先が震える。イチの眼が、私を見てくれない。
「イチ……」
イチ、こっち見て。
私の唇は先の言葉を紡げず、ただ彼女を見つめることしかできなかった。