七・竜と真実 2
「ロイヒテン!」
叫んだが、彼はピクリとも動かない。そうしている間に今度は竜の口がガバリと開き、そこに真っ赤な光球が炎を纏いながら渦を巻き始めた。竜が纏っている青い炎がみるみるうちに周囲の氷を溶かし、蒸気を上げながら再び燃え広がって行く。
「あああっ……!」
飛び出すように立ち上がった紅が、竜から放たれた巨大な炎を一身に受けた。竜殺しの血を持つ彼の身が焼かれることはなかったが、その顔は血の気を失って青白く、体も見て分かるほどにガクガクと震えている。
「お嬢、カナタを連れて逃げろ!」
掠れた声で紅が言い終わる前に、風花が私の腕を掴んだ。
「走るわよ!」
「でも紅が……!」
「いいから!」
風花に強く手を引かれ、私は走った。後ろで、紅がドサリと膝を折った音が聞こえた。
「大丈夫よ。竜殺しの一族が、竜に負けるわけがない」
振り返らず、風花は言った。私達の走るリズムに合わせて、溶けた氷水が追い立てられるように濡れた音を立てた。
「ねぇカナタ、あの竜は偽ハウィンが呼び出したのよね?」
「うん……」
「その割に、あの竜の炎は私と紅には効かないのよね。弾き返したりするのに体力消耗するのは間違いないけれど、普通の魔法と一緒。偽ハウィンの使うものとは違うわ」
風花は呟くと、私に小さく笑みを向けた。
「辛いかもしれないけど。期待してるわよ、カナタ。竜殺しの長の娘として、貴女を守れて光栄だわ」
「!?」
風花の手が私から離れ、彼女は振り返り様に刀を抜いた。シャァァンッと、澄んだ音がした。
「行かせないわよ! ――流星斬・湖月!」
竜の炎を纏った銀色の光が閃いた。幾筋もの斬撃は襲い来る巨大な竜の牙に弾かれ、風花の身体は宙を舞った。しかし彼女のおかげで竜の攻撃の軌道が逸れ、私にその牙が届くことはなかった。
「風花っ!」
竜の炎が放つ熱が、私の頬をジリジリと炙るように撫でていく。目の前でみんなが倒れているというのに、私の身体に何か特別な変化が起こることは一切無かった。
何もできない私を嘲笑うように、竜はゆっくりと私に迫ってきた。
「嘆きの声よ、集いて冷たき剣となれ――〈アイス〉!」
放った魔法も、ロイヒテンの放った巨大な氷槍にすら及ばない。それは竜の身体に届く前に消えてしまい、魔法陣も光を失った。
「エレオノーラ……」
竜はしゃがれた声で、その名を再び口にした。気付けば私を真下に見下ろす位置にまで近付いてきていた竜は、成す術も無く見上げるだけの私に、赤い舌を見せた。
ぐったりと倒れ伏したイチ、全身を血に染めたロイヒテン、力尽き崩れ落ちた紅、ピクリとも動かない風花……――私には誰一人として、助けることができない。
きっとこのまま、殺されるんだ――
何が、竜を倒す力だ。
自分が特別だなんて、一体何を勘違いしていたのだろう。
私に向けて竜の爪が振り上がり、真っ青な炎が弧を描いて夜闇を照らした。涙で滲んだ視界に、私は唇を噛んだ。
――彼女は王妃だったのだ。
不意に、レルゴ・テイラー新聞社の記事の一文が頭を過ぎった。同時に、思い出した。
そういえば、そうだ。エレオノーラは、英雄ハウィンとともにメイヴスの竜を倒したというローズガルド王国の、当時の王妃様……。
そこまで考えた時、私の頭の中が、突然スゥッと静かになった。つい先刻までの思考はブツリと途絶えて、噛み締めていた唇の力も自然と抜けた。
そうだ。私は本当に何を勘違いしていたのだろう。そもそも私は、何に変えても守りたいほどこの世界を愛していない。この国の歩んできた歴史にすら興味が無い。ロイヒテンや風花、紅のような大義も誇りも、私には無いのだ。
私は何より――イチと過ごす、あのキラキラと輝くような時間が大切なだけ。
私の、大切な友達だから。
力を貸してください、シオウ様。
「イチを返せ! メイヴス!」
叫んだ私の脳天を竜の爪が突き抜けたと思った次の瞬間、私の視界は輝くエメラルドの光に包まれた。
「っ!?」
私を引き裂いたはずの竜は光に呑まれ、悲鳴のような咆哮を上げた。その一方で溢れたエメラルドの光に触れたイチ達の傷は、みるみるうちに癒えていった。私の身体はまるでオーラでも纏っているかのように薄青く光り輝いて、肉体の疲労など微塵も感じなくなった。心臓の鼓動が力強く全身に響き渡り、指先の一本にまで、力が十分に満ちている。
「カナタ……?」
顔を上げたイチが、驚いたように私を見ていた。
「大丈夫。こいつは私が倒す!」
私は苦しむ竜を見据え、抜き放った両の短剣を向けた。
「凍り付け!」
溢れる光は切っ先を通して渦の如く竜に襲い掛かり、その漆黒の巨躯を触れた先から凍らせ始めた。
身体中を風が奔り、不思議と力が溢れてくる。魔法陣を介さずに打ち放った氷の魔法は、竜の形をそのままに、白く煙る氷像へと姿を変えさせた。
「何……これ……」
魔法陣を使って呼びかける――その感覚がよくわからなかった私は、魔法があまり得意ではなかった。そして今溢れているこの力は、恐らく今までのそれとは違う……どこかに呼びかけて使うものというより、まるで私自身が魔法そのものになってしまったかのような気分だ。