六・王女と虚実 9
「やぁ、おかしいな。雷に貫かれたのなら、おまえはとっくに地に伏しているはずなのに」
彼は口をへの字に曲げて、妖しげに五指を動かしながら首を傾げた。
「黒ずくめの魔法使い……なるほど、貴方がお嬢の言っていたハウィンか」
紅はスッと目を細め、ハウィンを睨み付けた。
「いかにも。私はダーク・ロウ・ハウィン」
ハウィンはそう言うと、私に視線を移した。その口元が、ニヤと不気味な笑みを描いた。
「どうする、カナタ? 今度は失うかもしれないな?」
「!?」
ハウィンの指先が、赤く光る弧を描いた。
「させるか!」
ダンッ!
紅は強く地を蹴り、一気にハウィンとの距離を詰めた。ハウィンは魔法陣を描く指を止めぬまま、踊るように後方へと跳躍した。最後の線を結び終えたハウィンの魔法陣から、ボゥ、と黒い靄が立ち上った。嫌な予感がした。
「魔の理を背負いし力よ、暗黒に失われた言の葉に平伏せ――〈レイション〉!」
私は魔法を無効化する陣を描きながら呪文を唱え、ハウィンのそれにぶつけた。しかし私の展開した魔法はハウィンの魔力を打ち消すことができず、既に攻撃体勢に入った紅に向けて、ハウィンの赤い魔法陣が火を噴いた。
ゴゥッ!
轟音が唸り、真っ赤な炎がうねるように渦を巻いて紅に襲い掛かった。焼け付くような灼熱に、私は自分の身を庇うので精一杯だった。
「紅!」
紅は獄炎に呑まれ、しかし彼の動きは怯むどころか速度を増して、ハウィンに渾身の蹴りを叩き込んだ。風切り音が重く鋭く唸ったが、彼の攻撃は風花の時と同じようにハウィンの身体を突き抜けた。ハウィンは興味深そうに片眉を動かした。
「ほぅ、咎人の血筋か」
「何のことだ。俺は竜殺しの紅正義。紅の名に懸けて、お嬢を傷付けた分の代償は払ってもらうぞ」
「――ハッ」
ハウィンは短く笑うと、黒い衣服をはためかせながら後方へ跳躍し、再び魔法陣を描いた。黄金に光り輝くその陣からは、やはり不気味な黒い靄が立ち上っている。
「面白い。その力、おまえは何も知らずに使っているのか」
「駄目っ、やめて!」
ピシャァァアアアンッ!
鋭い雷鳴が轟き、紫色の光が紅を目掛けて空間を駆け抜けた。
「……俺を甘く見ない方がいい」
しかしハウィンの放った雷をその身に浴びながら、紅は平然とした様子で鼻を鳴らした。強烈な眼光でハウィンを睨み付けている彼の身体の上では紫色の電撃が弾け、バチバチと激しい音を立てている。その雷は、ハウィンが放ったものよりも威力を増しているように思えた。
「言っておくが、俺は竜殺しの力を扱うことに関しては、一族最強だ」
「だろうなぁ。私の力をそんな風に跳ね返せるのは、きっとおまえの血筋くらいだ。他の者には無理だろう」
ハウィンはニタリと顔を歪めると、紅から視線を外し、私に向けて手を差し出した。
「カナタ、おまえは――」
「貴方の相手は、俺だ!」
言いかけたハウィンを遮ると、紅は一足飛びにハウィンとの距離を詰め、拳を繰り出した。
「くははっ!」
ハウィンは笑い、漆黒の衣服をはためかせながら、ひらりと身を躱した。同時にハウィンのいた場所で稲妻が弾け、激しい雷光が迸った。
「なるほど、この力は食らいたくないと見える」
「痛め付けられるのは趣味じゃないんでな。だからもう、二度と私の魔法は使ってやらんよ」
ハウィンはニヤニヤしながら首を傾げると、天に手を翳した。
「さぁカナタ、おまえの力を私に見せてみろ」
彼の掌に漆黒の闇が渦を巻いたかと思うと、それはたちまち大きく膨れ上がり、ハウィンの姿を呑み込んだ。それだけに留まらず、闇は濃い霧のようにじわじわと広がっていく。うすら寒い気配と、まるで小さな箱の中にでも閉じ込められたかのような圧迫感と閉塞感が辺りを満たした。
この気配……シャドウを吐き出す、あの闇の裂け目によく似ている。
「紅、気を付けて!」
警告を飛ばした、刹那のことだった。
ゴォォオオッ!
闇の中心から轟音を纏って飛び出してきた黒い何かが、いとも簡単に紅を撥ね飛ばした。まるで弾かれた人形のように紅の身体が宙を舞い、彼は赤い血飛沫を躍らせながら、書棚に突っ込んだ。
「紅!」
「くっそ……」
紅は私が駆け寄るよりも早く身を起こすと、崩れてきた本の山を払い落とし、額から口元へ流れてきた血を乱暴に拭った。彼は鋭い眼しで闇を睨むと、厳しい声音で言った。
「カナタ、これが貴女の感じていた不快感の正体だ」
紅を襲ったのは、今までになく巨大で不気味な影だった。気配はシャドウによく似ているような気がするが、いつものようなのっぺりとした人型のものとは、形状がまるで異なっている。
「何……これ……」
私達の前に現れたのは、お伽噺で英雄に斃されるような、邪悪な竜そのものだった。
「……っ、ハウィンは!?」
辺りを見回したが、ハウィンの姿はどこにもなかった。ただ、見上げるほどの高さにある黒い竜の口が、真っ赤に濡れた舌と白い牙を晒して、しゃがれた声で呟いた。
「エレオノーラ……」