五・過去と鎖と薔薇の毒 13
「大人には色々あるんだ」
「何それ」
紅は笑うと、「図書館前の通りは避けて、宿に戻ろう」と言って歩き出した。それを追いかけながら、私は渡された紙包みと紅の背中を見比べた。
紅には、メイヴスだの元奴隷だのと、随分睨まれている。このセントラルタウンに着いてからだって、そうだ。……てっきり嫌われていると思っていたのだが、ここまで世話を焼いてくれるなんて。
小走りで紅に追い付いて、私は驚きと気恥ずかしさをそっと胸の中に仕舞い込み、彼の横顔を見上げた。
「紅」
「何だ?」
「ありがとう」
「……。いや、俺も言い過ぎたからな。すまなかった」
ぼそりと言った紅に、私は苦笑した。
「でも、全部本音でしょ」
「まぁな」
「わかってるよ。大切な物を守ろうと思ったら、そうして当然。紅は風花一筋だもんね」
「…………」
紅は無言のまま、しかしかなり動揺した様子で、ぐるんと私に顔を向けた。その反応に、私は思わず吹き出してしまった。彼はたちまち憮然とした顔になり、それがますますおかしくて、笑いが止まらなくなった。そうしてひとしきり笑った後、私は尋ねた。
「ねぇ、紅って家名みたいなものだよね? 紅の名前で――正義って呼んだら駄目なの?」
「そっちの名前は慣れていない。……紅の名は、族長の信頼を受けていることを示す特別な名なんだ。俺はそれを誇りに思っているし、何より紅の名が好きだ」
「そっか。……凄いね」
「何がだ?」
不思議そうに眉を寄せた紅に、私は「何でも無い」と首を横に振った。
役割を示す紅の名に誇りを持てる彼が、少し羨ましい。ロイヒテンだって、きっとそうだ。彼は彼なりに、ケーラー家の名に誇りを持っている。ただ紅がロイヒテンと違うのは、どうやら紅は、個としての彼自身を示す名で呼ばれたがらないというところだろう。そこまで深い意味は無いのかもしれないけれど。
……今度、風花に訊いてみよう。あわよくば正義と呼んでもらって、紅がどんな反応をするのか見てみたい気もする。
図書館の傍を通らないように遠回りをして宿に戻ると、ちょうど、かっちりとした青い軍服に身を包んだ青年が出て行くところだった。両手に荷物を抱えながら彼の背を見送ったが、別に騒ぎが起きたとか、そういった様子は無い。フレッドを殴ったことを咎められるなら、紺色の軍服の憲兵が来るはずだ。
大して気にもせず紅と共に部屋に行くと、イチが憮然とした顔で手にした封書を眺めていた。
「イチ、ただいま。どうしたの?」
「あー、おかえりー」
イチはどこか気の無い返事をすると、封書をピッと私達に見せた。封書を留めた蝋には、ローズガルド王国の紋が押してあった。
「ローズガルドの……?」
不審そうに眉を寄せた紅に、イチは頷く。
「たった今届いたの。ロイヒテンからね」
もしかして、さっきの軍服の男が届けにきたのだろうか。
イチは胡散臭い物を見るような目をしながら、私達の前で封書を切った。
「えーと。……」
折り畳まれた紙を開いて中に目を通し、イチはますます渋い顔になった。
「どうしたの?」
尋ねると、イチは紅に紙を差し出しながら言った。チラリと見えた文字の羅列は、上下左右の余白まで異様なくらいきっちりと整った、とても綺麗な筆跡だった。ロイヒテンの字だろうか。
「ロイヒテンと風花、帰らないって」
「えっ!?」
「ざっくり言うと、帰らないけど拉致監禁じゃないから心配するなって内容。明日には戻って来るってさ」
「そう……」
「まぁ、怪しさ満点よね。どう、紅?」
問われた紅は懐からマッチ箱を取り出して、マッチを一本擦った。彼はその炎で紙の全面をじっくりと炙り始めた。特に新たな文字は出てこないようだったが、紙の上でチカチカと何かが光ったような気がするし、文字列がきっちり整った文面も、何か関係があるに違いない。それを裏付けるかのように紅の眉間には深い深い皺が寄り、彼はマッチの火を吹き消すと、低く唸った。
「薔薇に毒有り」
ポツリと呟かれた言葉に、私とイチは目を見開いた。しかし驚くだけの私と違い、イチはすぐにスッと目を細めると、「そういうこと」と鼻を鳴らした。
「そういうことって、どういうこと?」