五・過去と鎖と薔薇の毒 11
* * *
気付けば私は紅を突き飛ばし、街路を滅茶苦茶に走っていた。過ぎ去る町並みはまるで目に入らず、どの方向に走っているのかすらわからない。私はただ、向けられた紅の眼から逃れたくて走っている。心の中を覗き込むような、あの深くて真っ黒な眼から――。
「――っ!」
我に返った時、私は大きな城の前に立っていた。どっしりとして荘厳な雰囲気を醸し出すその城は、空を目がけて悠然と聳えていた。門扉はぴったりと閉ざされていて中の様子は窺えなかったが、門の前には立派な馬車が一台停められていた。
しばらく私が門扉の前で立ち尽くしていると、ぴったりと閉ざされていたそれが、軋むような音を立ててゆっくりと開き始めた。この馬車に乗っている誰かが出てくるのだろうか。
道の端でそれを見ていると、高価そうな服を着た男性と、ドレス姿の美しい女性が、お付きの人達に囲まれて歩いてきた。その男の顔を見て、私は愕然と目を見開いた。
「あ……」
その顔は、忘れもしない。私を赤札で落札し、レルゴ・テイラーに暴行の写真を押さえられて失脚したはずのあの男――かつてこの町の市長だったという男だ。
「何で……」
少女嗜虐趣味を持つ異常者のレッテルを貼られて世間から轟々の非難を浴びたはずの男が、なぜローズガルドの城に出入りしているのだ。一体どうして、優雅に微笑みながら貴婦人のエスコートをして、革張りの座席の豪奢な馬車に乗っているのだ。
掠れた呟きは喉に張り付いてしまって、ほとんど声にならなかった。
馬車は私に一瞥もくれず、土煙を上げて門扉の前から走り去って行った。
「カナタ!」
後ろから紅の声がした。駆け寄ってきた彼は、小さくなっていく馬車を見つめたまま動かない私の肩を、不審そうに叩いた。
「カナタ、どうした?」
尋ねられ、私は紅を見上げた。
シオウ様とレルゴ・テイラーのしたことは、何も変えられなかったのだ。
「じゃぁ……何で?」
私は咄嗟に、紅の服を両手で掴んだ。怪訝そうな顔をしていた紅は、驚いたように目を見開いた。
「紅、荷物と残りの買い物はお願い! 私、王立図書館に行ってくる!」
「はっ?」
「調べたいことがあるの!」
言い置いて、私は王立図書館へ向かおうと走り出した。まずはあの時のレルゴ・テイラーの記事を確認しよう。
「待たないか」
しかし首根っこを紅に捕まえられて、すぐに足を止めた。
「紅!?」
すると紅はフーと長い息を吐いて、荷物を抱えたまま困ったように額を掻いた。
「一人で動くな」
「でも……」
「王立図書館前で貴女の元主人を殴ったばかりだ。忘れたのか?」
「あっ」
そうだった、すっかり忘れていた。
我に返った私に、紅は少し呆れ顔を浮かべた。
「カナタの過去に興味は無いし、わかる気もないがな。ただ貴女だって、あの男に会ったことすら忘れていたんじゃないか」
「いや、えっと……その、突き飛ばしたりしてごめん。でもあの時は本当にフレッドが怖くて――」
「……本当に?」
今度は先刻と違ってジトっとした目を向けられて、答えに詰まった私は視線を泳がせた。確かにさっきは、フレッドのことなどすっかり頭から消えていた。
「まぁいい。ひとまず買い物を済ませて宿に戻ろう」
「え?」
「行くなら夜だ。どうせ昼間じゃ、見るものも見られないさ」
さらりとそう言われて思わず紅を凝視すると、紅はニヤリと口の端を上げた。
「夜って……」
「協力するから、心配するな」
自信満々の紅の表情に、私は驚きながらも小さく頷いた。
「さて。それじゃ次は俺とお嬢の分の買い物だ。すぐに済むから、終わったらカナタの服でも選びに行こう。……取り敢えず、荷物を一つ持ってくれ」
差し出された荷物を一つ受け取ると、紅はポケットからメモ用紙を取り出した。文字がびっしりと並んでいるのが見えた。
「カナタを追いかけながら軒先を見てきたが……セントラルにはいろんな店があるんだな。おかげで全部揃いそうだ。だが、イチの持っていたキャンディは見つからなかった」
「そっか……残念」
「俺の方は大体目星を付けてきたから、量は多いがすぐに済む」
紅がそう言うので、私は気になってメモ用紙を覗いてみた。蛇蛙の抜け殻に、マンドラゴラの種、白ゴキブリの卵――
「変わったものばかりだね……」
紅と風花の使う薬には、こういうものが入っているのか……正直あまり知りたくなかった。特に三つ目。