五・過去と鎖と薔薇の毒 6
男は振り上げたナイフを、私の腹に突き立てた。焼け付くような激痛が脳天へ突き抜け、私の身体は私の意思とは全く関係なく跳ねた。
「ぎゃああああああっ!」
あまりの痛みに絶叫すると、男は恍惚の表情でナイフを引き抜き、血の溢れ出したその傷口に指を差し入れ、愛撫するように掻き回した。
「痛い! 痛い! お願いやめて!」
泣き叫び身を捩ると、男は傷口から指を引き抜き、滴る血を舐め取った。
「この傷口に挿れたら、どんなだろうね?」
「嘘……嘘でしょ、やめて、やめて!」
二度目の激痛が視界をスパークさせて、その夜の記憶は、そこまでしかない。気付いたら、私の負わされた傷は跡形も無く塞がれていた。客が去った後に主人が使う魔具とかいう妙な道具が、いつもこうして理不尽に、私達の傷を治してしまう。
そして、もちろんリーンが私達の部屋に二度と戻ることは無かった。……リーンの赤札に触発されただけの男でさえ、あの様だったのだ。きっとリーンは、もっと酷い殺され方をしたんだろう。
次の水曜日。私を競り落としたのは、あの精悍な顔立ちの青年だった。
「初めまして、私はシオウ。よろしく」
彼はそう言って、ニッコリと微笑んだ。
「カナタです。今日はありがとうございます。よろしくお願い致します」
頭を下げると、シオウと名乗った青年は笑いながら言った。
「そんなに畏まらないで。こんなところにいるのに変だけど、君にひどいことをする気はないんだ」
シオウは言うと、私に椅子を勧めた。促されるままに腰かけると、彼は心配そうに私を覗き込んだ。
「噂、聞いたよ。刺されたんだって? もう大丈夫なの?」
「はい。ご主人様が治してくださったので」
頷くと、シオウは少し悲し気に目を細めた。
「なんだか……不服そうだね」
「……そう思いますか?」
「死にたいと?」
シオウの問いに、私は目を伏せた。しかし口調は努めて淡々と応じた。
「赤札の意味、お分かりになったんでしょう?」
「あぁ。リーンの名前が無かったのを見て、ゾッとした」
赤札が付いた奴隷は、その日の落札者に殺される。それも、ただ殺されるのではない。例えそれが奴隷に対してされたことでも世間を戦慄させ不安に陥れるような――一般人に死体が見つかれば快楽殺人鬼として捕まりかねないような、残虐で酷い殺され方をすることになる。だからこそ、ここの奴隷と過ごす一夜は高価なのだ。
「ここはただの売春宿じゃないの。お気に入りの奴隷を殺されないように、お客様はオークションで奴隷の命を買うんです」
「そのようだね。札に書いてある値段も、どうやら最低落札額ではないようだし。あれは何なの?」
「紹介者の方から何も聞いていないんですか?」
「ニヤニヤするばかりで教えてくれないんだ」
「中身を知らずに、よくこんなところに来ましたね」
「ちょっと訳ありでね」
シオウは苦笑すると、「それで、あの値段は何?」と質問を繰り返した。
「……あれは、私達奴隷の命に付けられている規定額です。あの値段を超えなくても落札は可能ですが、四週連続で規定額を下回ると、次の週に赤札が付くんです。ただ、普段から規定額以上で落とされることは珍しいです。大体、普通の売春婦と同じくらいか、それ以下か」
「なるほどね……殺されたくない子に赤札が付かないように、落札額を調整しないといけないってことか」
「殺したい子に赤札が付くように、お客様側で敢えて申し合わせることもありますよ」
「それは……」
恐らく、それが今回のリーンの赤札だ。赤札が付いた奴隷の死に様は、その全てが映像に残され、高額な値段で闇に出回ることになる。リーンが陵辱と拷問の末に殺される姿を収めた映像の方が、生身の彼女よりも客達に望まれたのだろう。
「よくある話です」
シオウは顔を歪めて眉間に皺を寄せると、額に手を当てて俯いた。
「いやぁ、予想以上に凄いところに来てしまった」
今になって恐怖でも感じたのだろうか。シオウの呟いた声は、少し震えていた。
「まぁ……少なくとも君は、あと三週は大丈夫というわけだね」
「そうですね。今回、私はシオウ様に規定額で落札して頂きましたから」
頷くと、シオウはホッとしたように微笑んだ。そしておもむろに上着を脱ぐと、下に着ているワイシャツのボタンを外し始めた。
「…………」
彼にとっての「ひどいこと」とは、一体何なのだろう。今夜自分がどんな目に遭うのか想像して憂鬱になっていると、ふわりと肩に何かがかけられた。シオウの着ていたワイシャツだった。